長谷川亮一『「皇国史観」という問題』

日本の戦後が、戦中の「焚書」から始まったことは、戦後のこの国の国民に大きな影響を与える。
この国の国民が、戦後、不戦の誓いを立て、世界平和のために、一心を捧げてきたことは、一方において、立派なことであろうが、他方において、それが、その国の過去の歴史の、積み重ねを、ことごとく忘却することの上に行われていた、ことは無視できないだろう。戦後の、この国の国民の平和を愛する姿は、一皮剥けば、薄っぺらい、真実の上にあったわけである。
そんな姿を思うとき、ちょっとしたことで、戦前に、どうして、戻らないと言えるであろうか。
まさに、フロイトの言う、「抑圧されたものの回帰」。
よく考えてみるといい。
たとえば、最近の、NHKスペシャルで、平泉澄をまるで、戦前の皇国史観の「総元締め」のように、紹介されていたことは、象徴的である。
多くの学者たちこそ、彼以上に過激に、大衆抑圧を礼賛していたのであって、そういった、小者たちが、戦後、自分の罪は軽いと逃げまわろうと、そういう下等な連中を、まるで大物のように扱うことの、ばかばかしさに、耐えられなかった国民は、シカトし続けた。ようするに、平泉は、大学を辞め、野に下ったが、ほかのこういった、小者は、全員、戦後、ほとぼりの冷めた時点で、大学に戻りやがったわけだ。
NHK があのように言ったのも、いわば、スケープゴートとして、平泉を扱いやすかったということ意味する。
皇国史観」。
この言葉は、多くの意味を与える。例えば、「マルクス主義史観」という言葉があるが、まるで、これと同列の世界観をもっているかのようにさえ、思われるということだ。
しかし、戦中のある時点から、文部省は、さかんにこの言葉を使うようになる。
では、皇国史観とは、平泉澄歴史観、のことであったのだろうか。彼が、帝国陸軍の幹部クラスとずぶずぶの関係であったことはよく知られているが、文部省とは、実は、けっこう、距離があったとされる(そのことについては、後述)。
まず、皇国史観というとき、私は二つの、「おもしろい」特徴を考える。一つは、もちろん、「天壌無窮」である。

近代天皇制国家において、「万世一系」の天皇による統治(「国体」)の究極的な根拠とされたのは、『日本書紀』の巻第二・神代下第九段に引用された第一の「一書」にある、いわゆる「天壌無窮の神勅」であった。これは、皇祖神とされる天照大神が、孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を地上に遣わす(天孫降臨)にあたって授けたとされるもので、いま岩波書店の日本古典文学体系本『日本書紀』より引用すれば以下の通りである。

葦原千五百秋之瑞穂国、是吾子孫、可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。宝祚之隆、当与天壌無窮者矣。
(葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みつほ)の国は、是、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾皇孫(いましすめみま)、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわ)まり無(な)けむ。)

すなわち「葦原千五百秋之瑞穂国(日本)は、私(天照大神)の子孫(瓊瓊杵尊)が君主たるべき国である。皇孫であるお前(瓊瓊杵尊)が行って治めなさい。さあ、行きなさい。わが子孫(天皇)の繁栄は天地とともに限りない(永遠に続く)であろう」----言いかえれば、日本は天照大神の子孫である天皇が永遠に統治する国である、という宣言である。
元来、この一文は『古事記』には無く、また『日本書紀』においても「本文にさへ掲げられずわづかに参考のため列挙せられた一書中の一節をなすものに過ぎ」なかった。古代律令国家の勅撰正史である『日本書紀』の本文に採用されないということは、そもそも古代国家の「正史」の一部としてすら認められていなかったことを意味する。また、この一文に漢文的な潤色が著しいことは、賀茂真淵本居宣長以来指摘され続けており、近代に入ってからは、土田茂・津田左右吉家永三郎らによって、中国思想の影響を受けて作られた文章であることが指摘されてきている。さらに言えば、天皇による統治が永久に続くという予言的な発想自体、古代の歴史思想としては異質である。

宣長という人は、一方で、こういうことを言っておきながら、「玉くしげ」にあるように、他方で、これを理由に、神の国、日本、となるわけですね。こういう、場所によって、発言を色を変えてくるのが、彼らしいと言えばいいのでしょうかね。
ようするに、あきらかに、後から、とって付けた、中国からの渡来人が、中国に対して恥かしくないように、中国において、「正統」と判断されるような議論を、付け加えた、まったくの「漢意」なんですね。
しかし、それが、中世神道、から、神皇正統記大日本史大日本帝国憲法、と、その理論的支柱として使われてきたわけです。
つまり、律令制度から、なにもかも、中国のまね、自分たちこそ「大中国」であると、自慢をしていた、「小中国」の姿こそ、日本の歴史だったわけです。

つまり、網野善彦も指摘しているように、「日本」とは「中国大陸に視点を置いた国名」なのである。しかし、「ジャパン」を排そうとする側は、「日本」の国号は自明のものと見なしており、その由来にはあまり注意を払っていなかったようである。

日本は、日出づる国、と言っても、それって、「中国の方から見たら」ってことでしょ。なにもかもを、中国のまねをして、最後に、それ、どーすんの? って、当然、中国に「認めて」もらうしかないんでしょ。
そして、もう一つ、皇国史観を特徴付けるものこそ、南北朝正閨問題、である。

さらに一九一一年、国定教科書南北朝を並立して記していることが大逆事件にからんで政治問題化し、第二次桂太郎内閣は国民教育においては南朝正統論を立てて政治決着を図る。皇位継承原理として血統よりも「三種の神器」の継承の方をより重視し、「万世一系」の立場より北朝五代の天皇の存在を否定したわけである。

明治天皇南朝こそ正統って認めちゃったんでしょ。つまり、自分の、おじいちゃんは、天皇じゃないんだ、って認めたって、ことでしょう。普通の庶民が考えている、「万世一系」という意味の、血のつながりは、天皇の正統性の理由では「ない」って、この頃、そうなってるわけですね。平沼って政治家が、さかんに、天皇は血じゃなくて「三種の神器」だって言ってた意味がこれなんですね(だったら、男系とか、全部やめればいいのにね)。江戸時代に、無上に人気を誇った、楠木正成をヒーローとして作られたのが、水戸の大日本史であり、北の丸公園の近くに、彼の馬上像が作られるわけです。南朝が正統じゃないとすると、さまざまに影響が大きいんですね(楠公国賊になっちゃいますから)。そういうわけで、明治天皇替え玉説まででてくる。それを認めたとしましょう。でも、どっかの藩が、南朝の家系をかこって、育ててきた、なんて言ったら、それこそ「トンデモ」でしょう。おれは、実は、チンギスハーンの子孫だとか、なんでもでてきますでしょう(三国志も、劉備玄徳は、漢王朝の子孫でしたっけ、なんでも言えちゃうわけですね)。
しかし、こういった、ごたごたなど関係ないかのように、文部省、の皇国史観は、つっぱしるわけです。
上記の議論からも、宣長の主張するような線
天照大神 - 天壌無窮 - 今上天皇
これで、いくしかないわけですね。
でも、その最初において、すでに、けちがついていたわけですね。日清戦争、において、日本は、台湾の住民を、日本人の下の存在として、日本人として、扱わなかったわけです。日本の、伝統を共有しない国の人間に、同じ、忠勤の態度を要求しても、容易には難しいと思ったわけですね。

一九三〇年代の中国への侵略においては、形式的には日本の領土拡大という方法ではなく、「親日」傀儡政権の樹立という方法がとられることになった。第一次世界大戦以後の「侵略戦争」違法化の流れとナショナリズムの全世界的な昂揚の中で、しかも一連の侵略を「自衛」として正当化した以上、領土拡大の正当化は困難であったからである。そこで、形式的には相手国の独立を認めつつも、日本による実質的な支配を正当化するための理念が求められることになる。
たとえば満州事変において、当初、首謀者である石原莞爾板垣征四郎らは「満蒙領有」を推し進めようとしたが、事変勃発後わずか四日にして日本による領有は困難と判断され、傀儡政権の設置という手段がとられるはこびとなった。

つまり、日本人の特徴と言われる、
本音と建前
なんですね。本音においては、侵略を意図した、傀儡政権、なわけ。現地住民も、そういう意図を、いやでも感じるわけだから、常に、警戒感、不信感、でいっぱい(それは、意図、なんてもんじゃなく、土着の宗教を捨てさせられ、アマテラス信仰を強要され、自民族の言語(ハングル)の修得を禁じられ、日本語しか、させない。こういう、実質において、一切の、「自治」を認めなかった、実態があるわけですね)。当然、トラブルが起きると、ただでさえ、不信感でいっぱいなんだから、悲惨な暴力ざたに発展しかねない(しかし、本音がこっちにあるわけですから、逆に、日本側は、それで、「生き生き」しちゃうわけでしょう)。
しかし、今(当時)は、「世界戦争」の時代なわけです。
世界各国が、多くの、その国の掲げる「正義」の旗の下に、志願兵が集まり、多くの「傭兵」によって、構成されていた時代、そして、アメリカはあの、ガムくちゃくちゃ、でしょう。
他方、日本は、ここまで、現地住民に、嫌われて、どうやって、この「世界戦争」を勝ち抜く、おつもりなんですかね。
実際に、当時の、日本の思想的なプロパガンダは、完全に、京都学派の、近代の超克派、に移っていたと思うんです。
それは、平泉澄が、文部省の、正史編纂、に、反対であったことにも関係するでしょう。実際、『国史概説』『大東亜史概説』は、いろんな思想の、ごった煮、だったわけですね。
つまり、そこまで、日本は、この戦争に追い込まれていた、あらゆる知恵を総動員して、活路を見出そうとしていた、こういうわけでしょう。
じゃあ、対立、していたのか、というと、そういうわけでもない。密教として、軍人にとっては、自国民の優越(そのかわり、大きな義務もあるのですが、それを含めて)大きな誇りを与えてくれる、平泉史学は、人気があったわけでして、顕教の裏で、事実上、続いていたわけでしょう。
平泉が、あれほどの自信をもっていたのは、日本の最高学府としての、東大内に、学生右翼団体を組織し、多くの彼の「弟子」がいたから、なんですね。
ですから、NHK が、ああいうふうに紹介したのも、むしろ、戦後の、彼ら、弟子たちの動きに注目して、なんですね。
A級戦犯は、平泉にとって、最も、この時代を、「同志」として過した、無二の連中なわけです。彼らが、たんなる犯罪者として、名誉回復されることなく終わることが、許せなかったわけでしょう。だから、彼の「弟子」たちは、さまざまに、あの、「クーデター」を成功させる。
しかし、どうでしょう。この「クーデター」は成功と言えるようなシロモノなんですかね。
靖国は戦後、民間の一宗教団体の道を選んだわけです。今でも、よく理由のわからない、一部の人しか、霊、として認めない、この団体の運営方針。その、かなり「ウルトラ」な性質が、多くの国民に違和感をもって、理解されていく過程で、今、民主党政権ができて、あの戦争で亡くなった「すべて」の人が祀られるべき、無宗教の、千鳥ケ淵戦没者墓苑、の「拡大」のようなことを言っているわけでしょう。その最大の原因こそ、靖国自身が、自ら、民間宗教団体であることを選び、彼らの、A級戦犯を祀りたい、という、「当然の」自由を認める、そういう一連のプロセスだったわけですね。
まさに、戦中の「亡霊」だった、ということなんでしょう。

「皇国史観」という問題―十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策

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