シェルドン・S・ウォリン『アメリカ憲法の呪縛』

今回は、ちょっと真面目に、今の、日本の政治の「何」が問題、なのか、その処方箋を、本格的に描いてみる、みたいにやりたいと思います。あんまり、時の政権政党の悪口ばっかり言っていても、建設的でないと思いますので。ここでは、特に、
民主党
ですね。民主党は、今政策がさまざまに混乱してきていますが、こうやれば、いいんじゃないか、という提案ということでやってみたいと思います。
大事なことは、民主党が、今マニフェストで掲げている政策を、どういった、「政治学」的文脈の中で、再度、捉えなおす「べき」であるか、になります。
つまり、私の考えでは、掲題の本、こそ、この、
民主党政権の思想的バックボーン
になるべきだ、と(ちょっと控え目ですけど)考える、ということです。
掲題の著者は、アメリカの「起源」には二つある、といいます。

立憲主義は、権力の分割によって、統治行為に効果的な権力抑制の装置を付与するものである。----カール・フリードリッヒ

アメリカ帝国の基本構造は、人民の同意という確固たる基礎の上に立っている。国家権力の流れは、すべての正統な権威のかの純粋かつ本来の源泉から直接に流れでるものといえる。----アレクサンダー・ハミルトン

上記の二つの文章のうち、最初のものは20世紀の立憲政治の権威によって書かれたもので、もう一つはアメリ憲法にかんしてこれまで著されたもっとも権威ある論考からとられたものである。これらは、アメリ憲法の中心にある、主要な逆説を形成する二つの原則を表わしている。第一の原則は権力抑制と分立を強調し、第二の原則は一種の究極的な権力、すなわち「人民」の主権的権力に力点をおいている。

ようするに、分権主義と、中央集権主義、ですね。この辺りを確認するために、歴史的に、アメリカ建国を振り返ってみましょう。
まず、イギリスから、アメリカ大陸への移住が始まった時期があります。しかし、彼らは、統制をとって、「一列に」上陸したわけではありません。多くは、イギリスから、逃げるように、各土地に根を張るようになり、その中の幾つかがグループを形成して、「自治」を行っていました。
次が、イギリス植民地からの、独立運動(イギリス独立運動)となります。ここで大事なことは、この時点ではまだ、その13州は、まったくの、「緩やかな」連合、でしかなかった、ということです(といいますか、その13州「が」イギリスから独立した、という表現の方が正しいのでしょう)。イギリスの植民地「侵略」に対して、各13州は、協力して、抵抗しました。ですから、抵抗運動が、各グループそれぞれの、ゲリラ的なものであった、一極集中的なものでなかった。
その後、フィラデルフィアでの憲法制定会議となり、憲法がつくられる。ただしこの時点では、まだ、それほど、集権的ではなかった。まだ、分権的な臭いを残したものであった。

差異の原理は、独立宣言の最後の段階でも保持されていて、つぎのように主張された。「これらの統一された植民地は、自由で独立した諸州であり、また権利にもとづいてそうでなければならない」のであって、諸州は「戦争の開始、和睦の締結、同盟の協定、通商の樹立、独立した諸州が権利にもとづけなしうる他のすべての法令の制定、他のすべてのことをなす権力を有する」。まさにこれは、反対者たちがただちに旧時代的、時代錯誤的、民主主義的、封建制的だと非難した言説であった。

こういった、自主、独立の感覚とは、植民地国家へ、自由を求めて、イギリスから来た彼らの、権力への姿勢、考え方がどういったものであったか、を考えさせられます。

第一の権力観はマディソンとジェファソンによって組み入れられたものだ。それは、中央政府の諸権限を連邦憲法の字義どおりの言葉によって制限することを主張するものだった。政府の諸権限は連邦憲法に記載された特定の諸目的によって制約されていた。それらの目的を実現するうえできわめて本質的な手段のみが行使できるものとされていた。あるいはジェファソンの言葉で表現すれば、連邦憲法の要点は、中央政府に割り当てられた諸権限を「そこに列挙されている諸権限の枠内にきびしく限定すること」にあった。これは、公的権力が邦政府とその市民たちの影響力から遠ざかれば遠ざかるほど、公的権力はより批判的に監視されねばならないとする立場を示していた。基本的な前提は、公的権力が地方政治の参加的実践の現実から切り話されればするほどより信頼できないものとなってしまうという考え方であった。そこに表現されていない前提をあえて叙述しようとすれば、この立場は、市民の政治と和解できるように国家規模の政治を構想することは不可能であるとの前提に立っている。

しかし、すぐに、アメリカの、集権的な動きは、大きくなる。その決定的な思想的バックボーンこそ、有名な『ザ・フェデラリスト』ですね。

政府は個々の邦から独立した権力の諸源泉をもつことが不可欠である。戦争遂行の権限、政府みずからの軍備を確立する権限、諸邦に依存することなく税を徴収する権限、通商を規制する権限、国家的基準の貨幣を導入する権限、連邦憲法の最終的解釈権、これらすべての権限は、諸邦から独立した新たな権力基盤を確立しようとする試みを意味していた。

ハミルトンの見解にしたがえば、国民政府は、憲法の個々の規程を侵犯しないかぎり、戦争の成功裏の遂行を可能にするのに十分な権限を要求できることになる。「連邦政府はこの委託を完全に遂行するために必要な権限をすべてあたえられるべきである」。

アメリカは、このように、二つの相反するルーツをもっていたのですが、最近に至っては、明らかに、集権的パワーの怒涛の攻めに押されっぱなしで、分権的なエートスはまったく、見る陰もなく思えますね。
著者は、この、あのオバマ大統領でさえ、「アメリカ国民の統合」を叫んでいる昨今において、むしろ、アメリカの「分権」のルーツに帰ることこそ「なによりも」重要なのだ、という政治的立場、を表明します。
これは、なんでしょうか。
つまり、最近の民主党の政策で言う、「地方分権」なんです。
それは、どういった思想において、正当化され、逆に、中央集権的な権力が、どういった思想的背景において、慎重に扱われるべき、となっているのか。
著者がまず、注目するのは、有名なトクヴィルの『アメリカの民主主義』です。この本は一般には、トクヴィルが、「アメリカの民主主義」というよりヨーロッパのもともとの「貴族主義」的な伝統の価値を強調したものと説明されています。つまり、保守主義的な右翼の思想。
しかし、問題はその意図されたところ、となります。なぜ、こういった、保守主義的な右翼の思想、のようなものが再評価されなければならないのか。なぜ、貴族主義的なものへの、それなりの留意が必要と主張されるのか。
アメリカ建国の憲法作成を議論していたとき、モンテスキューの『法の精神』は、よく引用された、という。モンテスキュー封建制の重要さを強調したのだが、それは、狭い意味での貴族の権利を擁護する、という意味より、国家の中央集権的な権力のあやうさに対抗するものとしての「中間集団」を擁護する、という理由であった。モンテスキューの時代のフランスは、国家権力と「並列」する形で、キリスト教の教会を中心とした権力が多層的に存在したし、もちろん、封建制による地方豪族の権力もあったであろう。
重要なポイントは、これが民主主義の否定ではない、ということです。つまり、封建制の各地方豪族のトップの「貴族」の権利の擁護では「なく」、各個人の意見を反映できるような政治システムは、より「身近」な地域の民主主義でしか、ありえない、という認識なんですね。中央集権主義から、地方在民主権へ。
また、多層的な権力の所在は、中央の国家権力の暴走(暴力)から、個人の権利を守る機能をもつことになるでしょう。逆に言えば、中央の国家権力(リバイアサン)は、各個人を、なににも守られていない、むきだしの存在(子羊)として、飼いならしたいわけです。
権力が中央だけに集中しているモデルは、一見、「平等」な印象を与え、ここちよく思われますが、さまざまに不都合をもたらします。それは、ファシズムの特徴と言っていいでしょう。この民主主義においては、あまりにも母数が多くなるため、一人一人の意見は軽視されます。このことは、一人一人は、「国家に合わせた」同質的な存在となることを暗に強要されていくことを意味します。逆に個人がそういったニュートラルな存在でなければ、あまりにも人数が多く管理しきれません。個人は、国家の都合で、そういう存在で「なければならない」わけです。
この辺りの事情を、今度は各個人に引き寄せて、考えていきましょう。その場合に、最も頻繁に持ち出される、政治学の「理論モデル」があります。社会契約論です。

第一の仮定は、契約する個人はなんらの先行する歴史をもたないがゆえに平等であるということ、そしていま一つの仮定は、契約はまるで新たなレースの始まりのように社会が新しく出発する始まりを示すということである。
これらの仮定はそれぞれ、きわめて反歴史的な性質をもつ。個人は、種々の異なる背景や経験を彩られた自叙伝をもった、つまるところ個人史がない場合にのみ、平等である、すなわちいくつかの重要な点で画一的であるとみなされる。契約論者は、すくなくとも同意の行為を先行するしばらくのあいだは、歴史的個別性を、このことがどれほど明らかであろうとも拒否しなければならない。そうでなければ、だれも条件を等しいものとする契約には同意しないだろう。というのも、もし他社が以前の利益を進展させて利益を永続化し、さらには増進させることを知るならば、こうした契約は、ま成り立ちえないからである。かくして契約論者は、生得権をもたず、それゆえにあらゆる人間と等しくなっている記憶なき人間を仮定せざるをえないなである。

社会契約を結ぶためには、各個人は、自分の生まれてきた、さまざまな経験、暮していた土地の特徴や、どういった人間グループとの付き合いにあったのか、そういった、各個人を特徴付けているとされているものを、いったん、かっこに入れることを要求されます。いったん、そういうものはなかったかのように、なんの色もついていない「平等」な存在と棚上げされることによって、始めて、「平等」な契約が成立します。
しかし、そういったものを捨て去ることなど、どうしてできましょうか。私たちがどういった暮らしをしてきた人の中で生まれ、どういった暮らしをしてきた人びとに育てられ、そこでの経験を自分の血と肉にしてきたか。もともとの、保守主義的な伝統の主張の主眼は、ここにあると考えるべきなんですね。
ここで、地方分権主義が、保守主義の伝統を「生得権」と考えることで、結合し、一つの立場となるわけです。徹底して、その個人の色に寄り添っていくこと。
だとするなら、私たちがここで立ち上げる、地方分権、とはなんであるべきか。それは、中央権力の手の届かない所をかわりに、手をさしのべてやる的な、結局は、中央のぶら下がり、おべっか使い機関のような、レイアー理論でしょうか。違うはずです。むしろ、地方こそ、「先」にあったわけですから(アメリカの建国の歴史がそれを示しています)。後先が逆なのです。まず、各地方に、「すべて」を与えるのです(すべてがあると考える、ですね)。つまり、税金徴収の配分。彼らには、(上記の引用にもあるように)貨幣発行の権利から、州兵所持の権利から、一切の制限をもうけることは「理論的に」許されません。なぜなら、そういう上からの規制という考えこそ、中央集権的だからです。もちろん、実際にどこまで行うかは、いろいろあるでしょう。地域間で話し合い、ある程度の秩序を考えて、「同盟」的にルールを決めてもいいでしょう。しかし、いずれにしろ、そのポテンシャルを手放すことは、許されないし、あくまで、地方の主体的な「自治」によって、決定されるべきことです。
だとするなら、中央政府とは、なんなのか。当然、(アメリカのワシントンもそうなんですけど)EUや、もっと言えば、国連、のようなものなのでしょうね。日本だって、東京、大阪、愛知、福岡、に、(文化的なバランスから)京都、あたりを、「常任理事国」的に、日本を牽引する地域として、位置付ける、というのもありうるでしょう。
さて、この後は、もう少し実践的に考えてみたいと思います。
これからの日本のヴィジョンを描くということは、過去をどう考えるか、これからをどう考えるか、ですよね。
問題は、それぞれの論点を、どう文脈に合わせて考えてみるのか、なのでしょう。
言い古されていることですが、明らかに、世界が変わったのは、冷戦が終わった時でした。冷戦が終わったということはどういう意味だったのでしょうか。
つまり、「戦前に戻った」なんですね。
明治維新直後の日本は、それほど、民主化されていなかったわけです。そして、完全民主化されていくプロセスは、国家総動員体制、との、トレードオフ、によってでした。それは、民主主義の不安定さを意味しているように思います。
戦後の、日本が、今まで、それでもこの体制で一極集中で、やってこれたのは、冷戦によってと言えるでしょう。冷戦では、アメリカ型とソ連型での、陣地争いになった。まず、優先されたのは、自分がどちらの陣地に含まれているか、であった。そこにおいて、日本が明確に、アメリカ型を「憲法も含めて」選択しえたことは、確実に、アメリカ陣営を維持できた、ということで、有利に働きました。もちろん、ソ連型は、それで、世界は、二極のブロック経済になっていたわけで、ものつくり国家として、日本を追い掛ける陣営は(重化学工業を行うには、それなりに、大きな資本と市場を国内に必要としたこともあり)、競争相手がいませんでした。
ところが、冷戦崩壊は、この体制の終焉を意味します。これ以降、アメリカ型でないものは「存在しなくなりました」。ということは、すべての国が、アメリカ陣営に入ることを許されたことになります。ようするに、「平等」になった、ということです。
日本の特別扱いは、あの時、すでに終わっているのです。しかし、日本は、状況が変わっているのに、まるで、今までと同じフレームであるかのように、振る舞ってきました。ですから、日本に求められてきたのは、この変化にどう対応するかの、決定でした。
私は、戦前の動きを、こんなふうに整理できるのではないか、とも思います。日本は、明治維新で、アジアで、いち早く、近代化に成功しました。しかし、これは、冷戦後の韓国や中国「の沿岸部」を見てもわかるように、「いずれ、他の国も近代化に成功して、追い付かれる」のです。日本は、これに対して、どういう対応をしたか。もうお分かりですね。「侵略」したのです。それによって、周辺諸国の、「発展」を妨害した。日本以外では、絶えず、内乱が国内各地で起き続け、経済発展が起きないようにする。もちろん、韓国や満州のように、発展してもいいのです。ただし、その場合は、「日本人」が発展する。あらゆる分野における「傀儡」という形で。
だとするなら、日本の今後の方向とは、どんな選択肢があるのでしょうか。
今日本国内の企業の合言葉は、「企業努力」です。企業努力によって、不況を克服しよう。しかし、これが意味していることは、「人件費削減」でしかありません。しかし、それの意味することは、新規の事業を減らすことであったり、現場の人員を少なくすること。
しかしこれは、大企業の生き残り方法ですよね。
もちろん、そういう意味では、大企業は、長期的には、間違いなく、若返りしていきますし、生き残る。ただ、そうなったときに、国内には、中小企業が、まったく育っていない。モノつくり国家ではなくなっている、ということなのでしょう。
日本は一つの分岐点に来ていると言えるでしょう。今後、モノつくり国家をあきらめて、サービス業から、金融業、に向かうのか。しかし、エマヌエル・ウォーラーステインの主張から考えれば、その道が、明るい未来とは、あまり思えない。
金融というけど、基軸通貨でもないし、そもそも、日本には資源がない。もちろん、いったん、モノつくり国家をあきらめてみる、という考えもありうるが、そうした場合に、伝統が一回切れるわけです。ベースが無くなる。教育から、なにから、最初からやり直しになる。
だとするなら、日本は、国民の給料が少なくなろうが、モノつくり国家にこだわるべきというのは、それほど、非現実的なのかどうか、なんですね。
私が不思議でならないのは、例えば、自動車にしてもそうでしょう。むしろ、なぜ、日本で、ベンチャーの自動車会社が、どんどん出てこないのか。ようするに、規制ですよね。中国やインドで、多くの新興企業が出てきて、安い車などを販売してこれているのは、そういうベンチャーが生まれ「られる」環境がある、それだけの差じゃないですか。ところが日本では、生まれない。それは、日本においては、大企業が国と結託して、ベンチャーの成長を阻害している、と、なぜ言ってはいけないのか。
私の言い方をさせてもらうと、問題は、新興国の急成長、ではないんです。なぜ、そういった、新興国の企業の成長が、日本内の企業ではなく、新興国内の企業、なのか、なのです。
それは、早い話、さまざまな規制があるからでしょう。
よく、日本の悪の根元は、談合やロビー活動、である、と言います。しかし、談合やロビー活動は、「無くなることはない」のです。なぜなら、彼らの経済活動に決定的なダメージとなる選択が、そこに存在するから、です。では、こういったものを、最小化しようとする努力(規制)がなにを招来するか。なんのことはない、巨大な権力「のみ」がその、談合やロビー活動を行使できる、という、経済の鎮静化、大企業一極集中です。談合やロビー活動は、おおっぴらにはやれない。
しかし、必要。ということは、地下に潜り、裏のお金で解決しようとする、という方向があります。しかし、これは、自分たちの弱味を他の権力に握られることになり、経済のクリーンさを、いずれ損ない、業界の衰退を招く。
もう一つの方向は、より、現実的で重要です。つまり、権力の中枢に近づくことです。政府の政策決定の、重要な地位に、業界のトップのもっていく。しかし、大事なことは、これができるのは、大企業のみ、だということです。
もちろん、そういった規制は、人権的に重要なものも多いです。自動車だって、そりゃ安全であるにこしたことはないですが、その安全という基準が恣意的である限り、なかなか新規参入を難しくすることになるでしょう。
だったら、どうすればいいか。その車を使う、その地域に判断をまかせればいいんじゃないでしょうか。
ここまで書いてきて、あれなんですけど、私は別に、上記で書いたように、国家という、とてつもなく、大きな組織によってしか、その存在がありえなかったような、そういう産業しか、この21世紀にも、ありえない、というのなら、考えは違っているのかもしれません。しかし、ほとんど、「だれだってやれないでしょうか」。
今、インドや中国で、車やパソコンを、作ってる会社、ほとんど、なんの資本もないころから、始めてるでしょう。アメリカで大量の風力発電のプロペラを田舎につくったのも、ベンチャーじゃないんですかね。お金持ちは、世界中にいるんですから、資本を出してもらえばいい。
ですから、大事なポイントは、日本が図体が大きいわりに、あまりに、中央集権的な民主主義に、国民統合が「仮構」されていることなのです。いったん、江戸時代じゃないですけど、各藩レベルの伝統的共同体の「ルーツ」を再評価できないか、なんですね。
(中国は、あれだけ大きい単位では、強烈な、民主主義決定プロセスをあきらめていますよね、ですから、それ以外での担保を考えている。いずれにしろ、それによって、少なくとも決定プロセスは迅速になっている(ただ、今後は分かりませんね。より上位からの、強烈な法、規制が生まれることで、なかなか思うにまかせなくなる可能性はある)。ヨーロッパは、そもそも、分権でしょう。どこも、国家単位が最初から小さい。)
なぜ、日本人が、そうやって考えられないのか、を考えると、やはりそこに、タブーがあるんだと、どうしても思わずにいられなくなるんですけどね。
昔からある、中央集権論といえば、国体ですよね。
よく、国栄えて民滅ぶ、と言いますが、日本のポツダム宣言は、国体ということでは、「まだまだ」いくらでも戦争を継続できたんだと思います。だけど、なぜ、あそこでやめたのか。広島、長崎、という、あまりもの、多くの民の「民族浄化」を受けて、ですね。でもそれは、人数の問題ではないんだと思います。人数というより、広島県長崎県という、具体的な都道府県が、ほとんど消滅させられた、というイメージなんだと思います。すると、ナショナリズム的に続けられない、というより、天皇や国体の名で、「統合」が続けられない、んですね。江戸時代で言えば、広島県長崎県が、天皇の名の下に、藩のとりつぶしにあった、と解釈もできるわけです。広島県長崎県は、不満でしょう。日本という一つの塊でみれば、手や足がちぎれたレベルかもしれませんが、両県からみれば、無ですよ。
私の一歩は、相当に、ひかえめです。各学校で、地域史を、必須で教えるところから始める。あと、さまざまに、都道府県に、税金を移譲していく。基本的に、都道府県の政治を、国とは独立した「自治」ととらえる、アメリカ型合衆国、または、江戸時代型、の発想に移行していく。
問題は、モノつくり国家を維持しながらの、地方分権への移行でしょう。
地方分権は、ひとつの、福祉対策という考えもある。
どのように、貧困対策を考えるか。それは、地域とか、家族的な家、になるということですね。昔の大家族であれば、多少の失業などは、集団生活の中で、カバーし合ってやっていけていた。だって、大きい家さえあれば、暖かい屋根の下で、寝れるんだから、それはそれでいいんじゃないか、ってことですね。
しかし、近代は、重工業地域に、子供は自立していく。そこで、なんの自分のバックグラウンドと関係のない場所に行き、孤立していく。家賃が必要となり、日々の失業は、次の日の、路上生活者への道となる。
しかし、もともと、人びとを重工業地域に移動させたものは、国の政策じゃないかと言えなくもないんですね。東京一極集中は、中央集権的な国家政府の機能が集中しているからであり、ロビー活動を「継続的に」するにも、東京に会社を置くしかなかったから、だと。
しかし、分権主義においては、そういう一極集中は、(基本的には)発生しない。なぜなら、国家政府機能にそれほどの意味はなく、それまでの機能の「ほとんど」が地方、つまり、地元にあるから、である。
しかし、その場合に重要なのは、文脈である。

もし、めまぐるしく変化するハイテク経済の需要に応じて、周縁化された人びとが市場の商品としての関係に入るように求められ、商品的価値としてあつかわれるのならば、かれらはまず政治的に中立に処遇されなければならない。二期目に任期を開始するにあたりレーガン元大統領は、きわめて示唆的な仕方で「依存のくもの巣」にふれたが、かれの主張によれば、「依存のくもの巣」は過去の福祉政策がつくりだしたものだった。事実、貧窮者は、福祉政策だけでなく、それ以外のものによって支えられている。かれらはしばしば、現実的かつ政治的な自衛の文化を発展させていた。それは、親戚関係の結びつきや近隣の仲間集団、地下経済、人種的少数派の政治家が発展させた政治組織、貧窮者が保護や援助を引き出す他の無数の関係をふくむ。したがって、大統領が「福祉文化を破壊せよ」という計画を主張したとき、その目的はただ政府の権力の網の目から福祉への依存者たちを解放し、かれらを市場経済の規律訓練的網の目のなかい引き入れるようにすることにとどまらず、貧窮者の政治文化、それゆえにかれらの権力を破壊しようと試みたのである。
このことが機能する仕方は、以下のレーガン政権の決定に具体的に示されている。レーガン政権は旧来の産業都市を再活性化するための公的支出を削減し、その代わりに都市の住民が他の地域で仕事を探せるようにと画策し、保証支払いの制度を導入した。保証書は、合衆国のどこでも家賃の支払いに使用できるので、福祉による給付比較的高い傾向にある大きな都市から貧窮者を離散させる効果をもった。同時にレーガン政権は、種々の「刺激政策」を削減しようと試みたが、こうした試みはもちろ、貧窮者がかれらのスラム街に留まろうとする「意欲」をくじくことを目指すものだった。それは当然弱者に、より強圧的にはたらいた。連邦政府による都市部在住の貧窮者向けの住宅建設は止められ、都市の職業プログラムのための基金は削減され、公共住宅は私的な買い手に払い下げられた。

貧しい人たちだろうとだれであろうと、「今」、その都会の中で、文化を築いて生きている。であるなら、それを破壊することも、伝統主義をその思想とする立場からは、単純に容認はできない。
たしかにそうなんですが、まずは、その分権化を覚悟をするのかどうか、なんでしょうね。たとえ、貧しくても、この道を、多くの人びとで支え合っていく、この生き方を選択するか。
こうやっていろいろ書いてきて、では、問題は、今、こういった分権的な発言をして、マスコミにとりあげられている人物として、有名な方というと、どういった方々になるのでしょうか。
勝間和代さんなんかは、多様性ということを言っているようなので、比較的、こちらに入るんでしょうか(モノつくりの考えは知りません)。管大臣が前に、日本は江戸時代に戻ればいい、ということを言っていたように思いますし、比較的には、分権を実現されようと考えていると思っていますけど、彼をサポートする人なんでしょうね。
なかなか、いないんじゃないですかね。
最後に、一つだけ言えることは、民主主義についてですね。多くの意見。それは、だれが決めたのでしょうか。自分で決めていないのに、まるで「自分の意志」で決めたかのようにイメージを強要される。そういうプロパガンダが多すぎないですかね。「正しい」とは、もともと、「本物」「偽物」の問題だったのではないでしょうか。自分の意志が、自分のものであることを守るためには、その判断をできるだけ、自分に近いところにもってくるしかない、とは考えないでしょうか。
そういう生き方をしたいかにも関係しますけど、そういう生き方さえできれば、人の人生として、それなりに満足なんじゃないですかね。

アメリカ憲法の呪縛

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