落合仁司『トマス・アクィナスの言語ゲーム』

けっこう昔の本なのだが、ちょっと読んでみた。
著者は、イタリア滞在の実感として、以下のように、つぶやく。

イタリアでは、何故、神への信仰と人間の自由とが、かくも生き生きと生きられているのか。これほど両立しそうになく、これほどわれわれから遠い、この二つのことが、何故、イタリアでは、なお生きられ続けているのか。

神の存在と、人間の自由。
この二つが、どういった関係において、欧米で、受容されてきたのか。確かに不思議ではある。
神がもし、人間の世界における、支配者のような存在であるなら、それは命令することはあっても、自由を与える存在ではないように思われる。神がいるのなら、人間に自由は存在しないのではないか。
ここで言う、欧米における、神とは、もちろん、ユダヤキリスト教の、一神教のことである。古代ギリシア神話の、神々のことではない。
では、ここで言う、自由とは、どういった来歴をもつものなのだろうか。まあ、一言で言えば、フランス革命なのだろう。現代の欧米社会とは、一言で言えば、フランス革命を「肯定」した社会、だと言えるのだろうか(日本が、戦後、サンフランシスコ講和条約を受け入れた、と似た意味において)。
自由とは、王侯貴族の支配からの解放を意味していたはずであって、もともと、それほど積極的な意味のない言葉である。
しかし、一般には、もう少し、積極的な意味において考えられてきたことは、間違いない。それは、中世暗黒時代と呼ばれる時代から、ルネサンスに至る流れにおいて、考えられるときに、その視点が与えられる。
それにしても、この二つの時代を分かつものとは、なんなのだろうか。一言で言えば、キリスト教の教会の力、なのだろう。
なぜ、わざわざ暗黒などと言われたかと言えば、科学が発展せず、その後の時代と比べて、それなりに言論の抑圧もあり、出版物も少ない、という、かなり、後から世代の視点で語っているように、思われる。
しかし、こういった科学の発展が少なかったことは、中国文明が、近代において、西洋文明の受容をするまで、ほとんど変わらないレベルだったこととの比較においても、興味深い事実ではある。
いわゆる、(宗教的な)思想統制、の時代だったと言えるのかもしれない。
そう考えれば、自由とは、人間の理性の復権、と考えられたわけですね。では、復権というと前にあったのか。古代ギリシア時代、の、アリストテレス哲学が、その、代表と考えられた。アリストテレス哲学は、当然、ユダヤキリスト教一神教などない。しかし、その圧倒的に理性的な学問的成果、まあ、科学、ですね。これを、手放すには、あまりに惜しかったわけです。
そこで、その二つの「折衷」が、思想的な課題となる。ようするに、欧米の歴史というのは、ずっとそれをやっていると言ってもいい。
では、中世、キリスト教哲学における、一つの頂点、トマス・アクィナス、はどのような説明を与えたのか。

理性とは、存在者の本質を認識する能力に他ならない。存在者の本質の認識は、存在者の本質が限定されることによって始めて可能になる。したがって、理性は、存在者の本質が限定されて来る地平に依存することによって始めて行使しうることになる。すなわち、理性は、存在に先行されて始めて行使しうるのである。しかし、この存在それ自体の本質は、理性によっては認識しえない。何故なら、存在それ自体の本質は限定しえないからである。したがって、理性は、自らによっては認識しえない存在に依存して始めて自らを行使しうることになる。たとえば、理性の行使としての懐疑は、決して懐疑しえない存在に依存して始めて可能になるのである。疑うことそれ自体の根拠であるような存在を、最早疑うことは出来ない。このような存在は、端的に信じられる他はないのである。理性は、信仰に依存して始めて可能になる。正しく、トマスの言うように、信仰は、理性を廃棄するのではなく、それを完成するのである。
なるほど、理性は、自らが依存する存在それ自体、すなわち、神の何であるかは認識しえない。しかし、理性は、存在者の本質が限定されるためには、神の存在が必然であることは認識しえた。すなわち、理性は、神の何であるかまでは認識しえないが、それが存在することまでは認識しえるのである。したがって、理性は、信仰にとって、必ずしも躓きの石ではない。むしろ、理性によって懐疑しない処から始まるのである。この意味において、信仰は、理性を前提する。理性の徹底なくしては、真正の信仰はありえないのである。

うーん。とにかく、理性的に徹底したら、神の存在の証明には「成功」する。そういうところから始めているんですね。
神(や中国での天)の存在が自明であるなら、あらゆる言説は、それを前提にしたものとなる。すべて、がである。
この、すべて、というのが重要である。
科学についての発言であろうと、政治についての発言であろうと、もっと言って、日常会話であろうと、それ、神の存在、が前提に議論される。純粋に、理論的に、アリストテレスのように、その科学的な関係が、区別されて議論されない。
さて、神が、すべてを意味するなら、それは、国家について言っていると考えられる面がある。

このような主権者と、全ての存在者の自同性を限定する、無限なる他者としての神との間に、ほぼ完全な同型対応を発見することは容易である。シュミットもまた、この同型対応を、明晰に意識していた。彼は、「政治神学」において、

現代国家理論の重要概念は、全て、世俗化された神学概念である。たとえば、全能なる神が、万能の立法者に転化したように、諸概念が、神学から国家理論に導入されたという、歴史的展開によってばかりでなく、その体系的構成からしてそうなのであり、そして、この構成の認識こそが、これら諸概念の社会学的考察のためには不可欠のものである。例外状況は、法学にとって、神学にとっての奇跡と類似の意味を持つ。このような類似関係を意識して初めて、ここ数百年間における、国家哲学上の諸理念の発展が認識されるのである。(四九頁)

と述べている。

国家とは、その共同体における、一つの「全体」と言えなくもない。たとえば、日本であれば、その外では、日本語が話されない世界なわけで、内側と受けとられない。内側にない、ということは、半分、存在しない、と言っているようなものである。共同体にとって、内側こそ、世界となる。そこで、閉じる、のである。
国家は、一見、そこに税を納めているし、公共的な福祉も、そこから受けるし、通貨だって、その国内で閉じている場合が多いわけで、まるで、その国内で、なにもかもが、完結しているような、錯覚を起こしやすい。
こういったところが、ナショナリズムの源泉なのであろう。しかし、もちろん、その中では閉じない。外との貿易など、いろいろなやりとりが発生している方が、歴史的にも普通である。
さらに、上記にあるように、国家には、その完結性から、神の似姿をイメージさせる。神とは、あまねく広がる、無限のことであり、国家には、そのイメージを逃れて存在しえない。
すると何が起きるか。
国家の無限拡大、のポテンシャルである。

巨大国家の支配権力の概念の大前提は、ホッブスのつぎの言葉に予示されていた。「[人間は]適度の権力に満足できるものではない。......なぜなら人間は、それ以上の権力を所持することなしには、かれが現在保持しているよき生活のための権力や手段を保証することができないからである」。

アメリカ憲法の呪縛

アメリカ憲法の呪縛

国家は、どこまでも、拡張していく、そういったポテンシャルから逃がれることができない。自らを、神と自己同一しておきながら、この制限された姿は、より外への侵略への誘惑に、長期的には、どうしてもあらがえない。
秀吉が天下統一を行っておきながら、さらに、朝鮮出兵を行う。なぜ、行うのか、と問うことは、逆に言えば、なぜ、その同心円がさらに広がらない、でいられるのか、と問うこととそれほど違っているようには思えない。統一は、基本的に、後から、帝国に加えられる国々ほど「低級」な身分と扱われる傾向がある。よって、論功行賞は、次の侵略戦争の、戦利品を配ることで、実現される。諸侯の不満を解消し続けるには、「どこまでも侵略し続ける」ことが宿命づけられている、と言えないこともない。
似たような問題に、国家の、全能性がある。国家には、どうしても、あらゆる行動への欲望が、ついてまわる。もちろん、一般に議論されるのは、有名な「例外状況」について、である。
もし、あるテロリストによって、この国家そもそもが、完全に破壊されるような、そんなテロリストの一撃に、今にも、あいそうだ、ということが、かなりの確度で予想されている、としよう。その場合に、国家は、「あらゆる」手段を尽して、なんでもあり、で、そのように想定されるテロリストを、「たとえ非合法であっても」、攻撃することで、自らの国家の安全、この国の存続をはたそうとすることは、認められるべきなのか。
有名なカール・シュミットは、第一次大戦の後の、ドイツの不平等条約や、フランスによるルール地方の占領に対し、この国際社会の、ドイツへの一方的な仕打ちとして、徹底的に反論する論陣をドイツ内で行っていました。国際ルールとは、どういうものであるべきであるか。
ところが、です。彼は、すぐ後に、ナチスの協力者となり法関係の成立過程に関わるようになりますが、すると、彼の原則は、一転します。つまり、独裁者には、一切の、制限があってはならない、となります。独裁者が、法律なんです。独裁者が、こう言えば、国民は、それに従わなければならないし、やっぱりやめた、と言えば、その否定に、従わなければならない。
しかし、もし自分が独裁国家の、法務大臣になったとして、独裁者の気持ちを酌んだ法律体系にしよう、と思ったら、そういった内容になるんだろうな、とは思わなくもない。あれだけ、ドイツに対する、無原則な、国際法のルールもなしで、ドイツを窮乏状態に追い込まれた。じゃあ、やっぱりルールは重要だな、と思っていたら、国内の法律は、まったくの空っぽにしちゃう。だって、独裁者を縛ることなんて、できるわけねーだろ、と(そんな感覚で、戦勝国の無法な要求もエスカレートしていたんでしょうがね)。
実は、こういった問題については、すでに考察した先達がいます。マキャベリです。そして、そのマキャベリの議論は、その後の、政治学を決定的にするものでもありました。彼の主張は、確かに、シュミットの政策に似ていなくもない。
しかし、微妙に違っている。

このことは国家、国家理性の標準的定義として広く認められているマキャヴェリの『デシスコルシ』の有名な一節を分析することによってもっともよく説明できるだろう。「一国の安全が、なされるべき決断に全面的に委ねられているとき、正義か不正か、親切さか残酷さか、あるいは称賛に値することか不名誉なことか、といった問題に注意が払われてはならない」。
この一節は君主に、法を破り道徳的慣習を無視する免罪符をあたえることを意図したものではない。事実、これは君主に向かって述べられたものですらなく、審議者(consigkiere)として「自身の国家に対して助言をあたえなくてはならない」地位にいる「市民」に向けられたものであった。そうした助言が出されるのは、注意ぶかく限定づけられた状況において、すなわち社会の安全がわずか一つの決断にかかっているという、ありうべきあらゆる政治的局面のなかでもっとも極端な局面においてである。助言する立場にある者が君主であるよりは市民であるべきだというのは、共和主義的象徴主義の決定的に重要な一面である。その市民とはまさしく、国家理性の要求する権力の無拘束の行使によって脅威にさらされ打ち破られかねない、種々の社会的自立体(たとえば、ギルド、社会的身分、自治都市の自由、家族、財産)や価値体系(慣習、共通の道徳的・宗教的信条、法的保護)を代表するものである。そしてまさしく支配者は、より高次の政治的次元に立つので、国家理性の破壊的効果に対してきわめて無感覚になりがちなのである。

マキャヴェリは、国家理性に特定して、それに一定の位置をあたえようと腐心した。それゆえかれは、そのような例外的な決断を制度化する憲法上の規定の可能性を考えたが、結局はその考えを退けた。かれの議論にしたがえば、「例外的法規」に頼るようになるとすればそれは、「正しい目的のためだからといって、旧来の法律を無視するような慣例がいったんつくられてしまうと、やがては悪い目的のためにも、おなじことがくりかえされるようになってしまうから」である。

アメリカ憲法の呪縛

たしかに、彼は、国家に対する無限の権限譲渡の可能性を考えた。しかし、なぜ、その主張は採用されないのか。そもそも、マキャベリの時代の、国家とは、イタリアの都市国家ですね。彼にとっては、上記引用にもあるように、その無限権力の容認は、そもそも、都市国家市民が、国王に、そのような助言をすべきかどうか、の問題であった。市民が、国王にどのように振る舞ってもらうことこそ、自分たちにとって、利益なのか。そういう、市民による、国王のコントロールにこそ、その主眼があったわけですね。
そもそも、先にあった、例外状況のような場面において、我々はどのような選択がありうるのであろう。しかし、そのように問うことこそ、罠なのではないか。そういった思考を「抽象的」に行うことには、どれほどの意味があるのか、と問うべきではないとは思わないであろうか。

フォルテュナであれ戦争であれ、自然の諸力の可変性は、(厳密な意味での)理性によってではなく、経験、実例、狡知----すなわち自然に密接に関連し、(哲学的)理性の擁護者たちによっては典型的に軽視され従属させられる種々の資質----によって対峙すべきものなのである。マキャヴェリが教えたのは、国家理性ではなく、統治術であった。

しかし、この統治の技術(statecraftiness)は、いま一つの要素である統治者の職能(statecraftsmanship)あるいは統治のわざの概念----つまり、技術知の適用(たとえ戦争)と結びつけられた経験に大いに依存する技能の概念----によって補完されなければならない。統治者の職能とは、古代人が技術知(テクネー)と読んだものに関連しており、つまり熟練した技術のことである。

アメリカ憲法の呪縛

政治とは、マキャベリにとって、技術知(テクネー)の集積にすぎない、と考えるべきです。具体的な、それぞれの状況で、ぎりぎりのバランスを考えて、判断する。それ以外に、ないはずです。なにか、空疎な一般論によって、わりきれると思うことこそ、大きな誤りなのでしょう。

正統性は二つの仕方で機能する。第一に、権威ある諸制度----たとえば大統領制や議会----の統制力を獲得した人びとが、徴税や徴兵の場合のように、政治社会の成員一般から諸資源を引き出すことを可能にする。しかし第二に正統性は、正統性の証明を取ることを特定の条件のもとでは認め、他の場合には拒否できる。たとえば、選挙に勝つために巨大な寄付金を集めることは正統的だが、公務員を買収することは非正統的である。

アメリカ憲法の呪縛

こういった現状が合理的かどうかは、それほど重要ではありません。大事なことは、いずれにしろ、比較的には、人びとはそれに納得している、ということです。よく分からない、バランスがそこにあるわけです。
法律はそもそも、歴史的産物であり、さまざまな経緯の中で成立してきたものです。そういったものが一方にありつつ、他方で、その時の、人びとの慣習的なコモンセンスを踏まえ、(理由はなんだか分からないけど)人びとが、それなりに、納得する、落とし所を、見つける。政治は、すべてその連続であり、それでいいんだ、ということなのでしょう。
日本の政治でも、一方に、天皇主義者がいて、他方に、平和憲法主義者がいて、こんなのどうやったって、妥協できないように思うわけですが、そう思ったら、思ったときが「負け」なんですね。政治は、どこまでも、妥協の産物です。みんな一部をあきらめながらも、それなりに、実をとれたと思うから、納得する。政治が目指すべきは、そういう、「すべて」の人の、納得に地平、バランスです(それが、みんなの意見)。そんなものが存在するわけがない、と思うのは勝手ですが、きっとそういうものが存在するはずだ、と思って、ねばり強くやっていれば、いろいろアイデアが生まれて、しゃんしゃん、で終われるものだ、というのは、歴史が証明しているようにも思うわけですね。
ちょっと、議論が、それてしまいました。マキャベリとシュミットの違いについては、一つ言えることは、マキャベリの時代は、まだ、重工業国家ではない、都市国家だということですね。また、トマス・アクィナスの時代は、今度は、中世の「帝国」ですね。それぞれに、国家とは一概に言えない面が確かにある。
あと、自由(理性)と神(国家)の関係、こういった辺りが、中途半端な議論になった感じが否めませんが、それはまた、別の機会にでも。

トマス・アクィナスの言語ゲーム

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