アニメという衝撃

今、YouTube に代表されるような、動画の、クラウド化が、ここ何年かで、あまりにも一般化してしまった。
それによって起きていることについては、いろいろな側面について語ることができるだろう。その一つが、商業媒体を通した(一般に著作権の発生しうる)メディアがかなり、簡単に、ネット上で見ることができている、状況であることは論を待たない。そして、その中でも、さらに、日本が海外の国々に圧倒的に与えている「衝撃」として指摘できるのが、「間違いなく」あるんじゃないか。
日本のアニメ
、である。おそらく、この、日本でつくられている日本アニメ、を、海外の子供たち、若者たちのかなりの層が、「実際に」見ているのではないか。
もちろん、この現象は、あと何年かたてば、著作権の規制も強化され、状況は変わるだろう。しかし、このことは、そういう問題を抜きにして、「ものすごい」事態であることには変わらない。
制作側にしてみれば、実際に、コンテンツとして販売することによって、得る収入がどれほどのものだろうと、「世界中の、特に、若い世代のかなりが、実際に見ている」という事実ほど、ものすごいことはないのではないだろうか。なんにせよ、見てくれているのである。こんな、どう考えても、いもっぽい、日本のローカルな内容の作品を。長期的に考えれば、このことの、日本の産業への影響や、世界中の若い世代への、日本の印象に、大きなパワーを与えていることは間違いないだろう。
日本のアニメは、今でも、新作が、毎週、各テレビ局で、放映されていて、それらを合わせれば、かなりの本数になる。そして、これらを、「世界中の人が」リアルタイム(各国語字幕)で見ることは、相当容易な状況なのであろう。
一体、何が起きているのであろうか。
もちろん、人によっては、たかがアニメ、なにを、たいそうな話、と思うであろう。オタクと呼ばれるなにがしかが、適当に騒いでいるだけであり、「大勢に影響する話ではない」、と。
しかし、私の言いたいことは、そういうことではない。一つ一つの作品が、どれだけ、低級で下品で享楽的であろうと、そういったことは、一つの傾向にすぎず、この「現象」を説明し判断するうえで、十分条件ではない。
問題は、その、テキスト・クリティーク、なのである。日本で量産されるこの「日本の物語」が、作品の内容がどうであれ、実際に、これほど、世界中で「消費」されるのなら、そこに、なにが語られているのかは、まずもって、注目されて、しかるべきであろう。
どうして、多くの人たちは、この部分に、関心をもたずにいるのか。
おそらくそれは、それらの作品そのものの、もっている傾向にあると言えるであろう。これらの、日本で量産されているアニメの全般に共通している特徴は、その「幼稚」さ、である。
大人として、扱われる成人の特徴とは、なんであろうか。一言で言えば、ある種の「完璧」さであろう。この社会は、一言で言えば、「減点」主義である。うちの企業では、こういった特徴のある人は、うちの社員には、ふさわしくない。こういった傾向のある人は、他がどんなにできても、いらない。
アニメなど、日本で生産される物語には、そういった「ダメっ子」の要素が、これでもかと、もりこまれている。言ってみれば、「恥かしい」のである。
逆に、アメリカのドラマであろうと、韓流ドラマであろうと、まあ、「立派な」大人、ばっかりですよね。もちろん、そういう主人公も、いろいろ挫折をして、悩むんだけど、ようするに、「定型的な」アメリカ文化や朝鮮文化で、「ふさわしい」とされているような、落ちぶれかたなんですよね。
(しかし、そもそも、日本のアニメにおいて、その傾向が強いのは、このアニメというメディアの本質なのかもしれない。こういう幼稚な劇画化こそ、「恥かしい」の極致なのだろう。)
日本の物語は、つまり、非「大人」的なんですね(ニアリーイコールで、非道徳的と言ってもいい)。
例えば、女の子への、ほのかな愛情や、成熟していく女の子の肉体的な変化に、どきどきする、みたいな描写が、何度もあらわれる。しかし、そういうものは、大人的な慣習において、振る舞い方は「決まっている」。ケースによっては、おおげさに「称賛」の言葉を発すればいいし、そこまでは、行きすぎなら、普通に友達として、フレンドリーに接すればいい。逆に感情が抑えられないレベルなら、プロポーズすればいい。
これが、「大人」の、スキンシップ、というやつであろう。
しかし、この日本のアニメ。いつまでも、うじうじ、もぞもぞ。優しくされて、なぜだか有頂天に喜んだと思ったら、誤解されて、なぜだか悲しみに沈む。
うーん。
あまりにも、その国の慣習的な大人の作法から、逸脱している。
なんと言えばいいのか。
(つまり、一時期流行った、「甘え」の構造、と言ってもいいんですけどね。)
これが、島国日本の、閉鎖的な島国根性性、なのであろうか。
しかし、それにしても、でしょー。
一つ思いつくことは、戦前は、どうであったのか、である。明治維新から、終戦までは、まず、日本は、軍隊の国であった。そして、絶対的な道徳的支柱として、天皇制があった。この二つは、確実に、その当時の日本人の行動規範を確定していた。
しかし、終戦後。
見事なまでに、この二つは、この国の「表舞台」から、後退し、後景化していった。天皇は、ときどきワイドショーで敬語でうやまわれる、いつも優しそうな、年上の方になり、軍隊は、解散し、憲法上、存在しないことになった。
そもそも、日本の戦後憲法は、「平和」であることを、国民に「命令」するようになった。日本人は、この世界を平和にすることこそ、(カント的な意味で、その)「至上命題」として生きることを「義務」付けられることに、なぜか、(私たちが生まれて、学校で、日本の憲法を習うときには)なっていた。
戦後とは、ようするに、戦前から、この二つを、「引き算」したもの。さて、何が残ったのでしょうね。
つまり、ある「伝統」である。
やまとごころ
本居宣長は、この言葉を、中国の儒教での、規則やルールにとらわれて、人間的感情の乏しくなる「漢心(からごころ)」、のアンチテーゼとして、「無条件に」礼賛した。
しかし、実際に、上記二つの引き算が、戦中で儀礼的なあいさつや、大人の作法など、漢心(からごころ)、そのもの。彼が礼賛した「やまとごころ」とは、その反対なんですね。そういった、漢心(からごころ)、では、どうしても抑えられない、そこから、はみ出してしまわずにはいられない、人のどこまでもセンシティブな感情を、どこまでも肯定する。
儒教とは、当時の東アジア地域における「国際言語」であり「国際法」であり「国際科学」であったはずであるが、そもそも、日本の儒教受容は、江戸時代において、儒教の「日本化」の過程という形であった。
そして、まず江戸時代の最初に、なんと言っても、日本の儒教朱子学)の受容の形態を決定付けたものこそ、伊藤仁斎、であろう。
仁斎においては、朱子学とは、完全に、倫理学、になる。つまり、論語、回帰ですよね。人と人との関係は、相手への思いやりであり、みんなで助け合う、相手のために勇気をだして行動する、そういった、倫理の学、それだけに収斂している(それは、商売での協力行動、こういったものを意識ているのであろう)。大事なことは、彼によって、完全に価値の焦点化が、定式化したことなんですね。
宣長は、たしかに、源氏物語などから、上記のような思想を導いてくるのだが、逆に、紫式部などは、当時の漢文に堪能な、ユニヴァーサルな人であり、作品でしょう。どちらかと言うと、宣長は、江戸の人情、和歌から、そういった価値をみているわけで、それと、仁斎からつながる、江戸文化の雰囲気とは、遠くない。ですから、源氏物語の世界にこそ、そういったものの投影していると言えなくもないのでしょう。
ですから、日本のアニメは、それぞれの登場人物の、どこまでも、「どじっ子」、社会人としての「だめっ子」ぶりを描いてあるし、そういう視点でみるなら、どこまでも、非道徳なんですね。
ところが、そんな、だめだめの登場人物たちは、まったく違った視点でみると、彼らがどこまでも、「倫理的」であることが、特徴付けられている。
彼らは、ときに、どこまでも、「仁」、つまり、他人を思いやり、勇気をもって、ある人のために、自分の身を粉にして、努力を捧げる、そういった態度を当然のように、描かれる。
たとえば、最近みた、アニメ「かなめも」の主人公、中町かな、は、幼くして両親を亡くし、おばあちゃんに育てられていたが、そのおばあちゃんも、中学生のときに、亡くなり、完全に身寄りのいない、天涯孤独の身になる。こういう場合、普通は、役所の指示で、そういった施設に入るのであろうが、彼女は、たまたま近所で、住み込みでの従業員の募集の張り紙を見て、新聞配達所、で新聞配達をして働きながら、身元をこちらで引きとってもらう。
(また、同じクラスメートの久地院美華は、近くの別の、新聞配達所、で働いているが、もともとは、相当なお金持ちの家のお嬢様として育てられていたが、事情があって、家から家財道具からなにから、すべて転売して、自分が新聞配達までして、生計を立てなければならなくなり、かなり貧乏な生活をしていることが示唆される。)
中町かな、はたしかに、どじっ子で、恐いのが大嫌いな、子供として描かれるが、それよりもなによりも、その、境遇の、あまりもの、特異さ、であろう。親戚も、いない。その孤独。なぜ、彼女はそれでも、生きるのか。なぜ、あそこまで、明るくいられるのか。
作品は、それを、新聞配達所、で一緒に働く、人々との交流の中に、示唆しようとする。中でも、第13話(最終回)での、日記帳を彼女に買ってあげる場面は、どんなに欠点があって、だめなところがあっても、唯一、仁慈、その心に生きるなら、それこそが、人生を意味あるものにするし、それ以外に、一体何があるのか、といった、そんな強力なメッセージを感じさせられずにはいない。
いずれにしろ、日本のアニメに、日本から見てこういった特徴があると分析したところで、世界から、どのように見られているかの、分析にまでは、至っていないんですけどね(それは、今後の課題ということで)。