「東のエデン」

とりあえず、テレビ版と映画1を見た、というところ。春には、映画2が上映されるんでしたかね。
原作のない、オリジナルアニメということで、いろいろ賞ももらっているようだ。
とある、日本の財閥の一人によって、セレソン、と呼ばれる12人が選ばれる。彼らは、それぞれに、100億円を使えるようにされ、そのお金を使って、日本を「正しい方向」に導くことを求められる。彼らは、ノブレス携帯と呼ばれる、携帯電話で、ジュイスと呼ばれる、ある女性に、さまざまな依頼を行うことができ、受理されるごとに、金額が引かれていく。
いずれにしろ、一人だけが、「正しい方向」に導いたと判断された時点で、その他全員の命が奪われる。それを目指すゲーム。
主人公の、森美咲(もりみさき)は、九番目のセレソンの、滝沢朗(たきざわあきら)、と知り合うところから、ストーリーは始まる。
多くの人たちは、この、セレソンたちの、ジュイスへの要望が受理されるメカニズムの「マンガ的な」幼稚さに、あきれているのが、正直なところであろう。
しかし、もっとも、私の鼻についたのは、「ニート」なる表現であった。私はこの表現によって、「何が言いたいのか」が、どうしても、作者のルーズな印象を感じざるをえなかった。作者は、「ニート」という表現で、一体「誰のことを言っているのか」。一般に、ニートという表現が使われるようになったのは、学校に行かなくなった子供や、学校を卒業した後、進学も就職もせず、家の自分の部屋に閉じ込もっている、そういった人々について言ってきた。
しかし、こういった人々がある程度の割合に達してくると、彼らには、一つの「政治的な発言権」が生まれてくる。それが、民主主義の多数決原理である。すると、人々は、彼らを代弁するなり、彼らを非難したり、することで、ある種の「囲い込み」を始める。その政治的な発言権を弱めることは、社会的な需要を生み出す。
しかし、私たちは、妙な、いらだちを覚えるようになる。一体、「誰が誰をニートと決定するのか」。
もともとこの表現は、ある種、象徴的な意味において使われてきた。だれだって、自分の部屋に引き込もっていたいと思う時期があるのは、当然であろうし、特に、最近は、就職不況である。思ったように、やりたい仕事がやれるわけでもないし、これだけ、売り手市場になると、完全に、会社側のやりたい放題でしょう。多くの子供たちが、プライドを傷付けられ、精神的な傷を負うことになる。
実際、主人公の、森美咲(もりみさき)は、兄のコネもあり、ある会社の面接を受けるが、その対応が、かなり、侮辱的なものであったことが、作品の中で、描かれる。
そういった過程を経て、子供たちが、今度は、自分で自分を「僕たちニート」として、アンデンティファイしていく。
作品は、そういう意味では、作者による、「ニート」たちへの、「気持ち悪い」同情、共感に満ち溢れているし、逆に、彼らの「甘さ」への、「気持ち悪い」弱点分析まで始める。
しかし、である。
ようするに、こうやって、「ニート」という表現が、「政治的なキーワード」とされていく上で、そもそも、この表現によって、何を定義しようとしているのか、何が証明されなければならないのか。そういった視点の作者の、明確にしようという姿勢は感じられない。むしろ、作者自身の、なにか物を分かったような、ニートへの「おもねり」と、冷静ぶったニートの幼稚さ批判の、二面攻撃に、満ち溢れているだけという印象を受ける。
そういう意味で、この作品は、「ロマンティック」と言っていい。
作者は、学者ぶって、批評家ぶって、「ニート」なるものを描いているつもりだろうが、こういう「みんな分かるよね」が、一番手に負えない。自分で、彼らなる、よく分からない人たちを「代表」しているつもりになっている。さて、どーしましょうかね。
ただ、葛原みくる(かつはらみくる)、や、板津豊(いたづゆたか)、の姿は、そもそも彼らが、それほど「生活力のない存在なのか」に疑問をもたせないだろうか。そうなってくると、この「ニート」なる、ひとしなみに使われる表現の、さらなる、いかがわしさが、どうしても、この作品のいかがわしさを際立たせる、と言えないだろうか(テレビ作品とは、コマシャール前提の作品である。そうであるなら、まず、企業そのものの糾弾は、ありえない。あったとしても、せいぜい、企業の「非道徳的振る舞い」への非難くらい。しかし、その程度の、「ぬるま湯の」批評で、「ニート」を語れるんでしょうかね。程のいいガス抜きにしか思えない私は、世間知らずですかね。あんまりこの作品の世間の評判を知らないもので)。