福岡伸一『もう牛を食べても安心か』

2004年の初版ですから、もうだいぶ昔の本だ。また、狂牛病騒動も、最近は、あまり話を聞かなくなった。学術上の、病気の解明進んでいるか。報道もないのでよく分からない。
あいかわらず、全頭検査は続いているのであろうか。しかし、加工品などを含めて考えれば、こういう検査も、ずいぶんと心もとない感じはする。いずれにしろ、潜伏期間の長いこういった病気は、過小評価される傾向がある。
この本ではプリオン説について、まだ、なにも分かっていない、という立場のようだった。さて、最近はどうなっているんでしょうね。
いずれにしろ、この病気の周辺を描くこの本は、なかなか興味深い。
この病気のきっかけは、肉骨粉という、「カニバリズム」にあった。羊が羊の死肉を食べ、牛が牛の死肉を食べる。その間に、伝染してきた病気が、人間にも発生した、ということのようだ。
しかし、人間世界において、カニバリズムがタブーとなっているのには、一定の理由がある。
それは、動物の消化器官に関係している。ここでは、タンパク質は、その、各動物が固有にもっている、情報を徹底的に細かくすることで、「原子化」を行い、それらを使って、各動物の各器官を構成する。しかし、その消化活動は、それなりの割合で「エラー」を起こす。十分に、分解に成功することなく、体内に吸収してしまう。
その場合に、問題は、そのタンパク質の構成が、自分の中のそれと「似ている」場合、である。まるで、自分の中のそれと勘違いをして、機能してしまい、さまざまな、間違った挙動を示す。

食に対する伝統的な言い伝えを調べてみると、しばしば「できるだけ遠いところのものを食べよ」という教えを見つけることができる。これは情報の干渉をできるだけ避けよう、とする心がけと理解すれば、消化の生物学から考えて合理性がある。消化システムは万全を期しているとはいえ、その関門をリークして(すり抜けて)やってくる「負の情報」が存在するからである。後に述べる狂牛病原体を始めとする経口感染媒体やアレルギーをもたらすアレルゲンなどがそうだ。

しかし、肉骨粉というやつは、まさに、農業、畜産業という、「経済行為」の効率性が生み出した、資本主義の申し子のような存在であった。市場に出しても、値段のつかない、死肉を、かたっぱしから、かき集めて(動物の種類もおかまいなしだ)、ミンチにして、殺菌処理して、牛に食わせる。牛って、雑穀しか食べないんじゃないのか、と思われるだろうが、ようするに「無理矢理食わせる」。動物は、タンパク質の摂取を、どうしても行わなければならない。植物という高価なものから、摂取するより、肉骨粉は効率的、というわけだ。
そういう意味では、経済効率の究極的な形態とは、カニバリズム、なのかもしれない。しかし、それは、人間の免疫システムへの危機をもたらす。
農業とは、経済活動、である。しかし、人間の食は、経済活動とはまた違った、「法則」をもつものである。そしてこの二つは、それぞれに交わることなく、離反を繰り返す。お互い、どちらかの「カタストロフ」をもたらすまで...。
さて、未来における、農業のあり方、人間の食のあり方のようなことを、考えている人というのは、どれくらいいるのだろうか。はるか未来において、人は、どんな食事をしているのだろうか。いや、どんな食を「選択する」ことが、人類の存続と関係してくるのか。

もう牛を食べても安心か (文春新書)

もう牛を食べても安心か (文春新書)