森博嗣『クレィドゥ・ザ・スカイ』

いやぁ。この本を読んだ人って、どれくらいいるんでしょうかね(ついさっき、読み終わった、勢いで書いています)。
2年くらいにたってますので、ずいぶんと、話題になったのでしょうが。
こういうのを、「ミステリ」って言うんでしょうね(なんか、本屋の店員が、お薦め、って言いたくなる、でも、「絶対に」一般受けしねーよー、って感じですね)。
実は、森さんの本は、今回が初めて。この自分のブログの流れから分かると思いますが、私は、押井守監督のアニメ映画「スカイ・クロラ

スカイ・クロラ [DVD]

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を見た流れで、原作の方を読ませてもらいました。
押井さんについては、以前、うる星やつら、の映画の記事を書いた記憶があります。そのとき思ったことは、なぜ、原作がありながら、その世界を使って、別のストーリーを提供するのだろう、といった素朴な疑問でした。そのことは、この映画についてもあてはまるでしょう。この映画は原作が完結する前に、映画化(一部ストーリーが変えられて)されている。私は、それについても、ちょっと違和感をもちましたが、いずれにしろ、思ったのは、同人誌的なノリなのかな、と。作品を読み、あるイメージをもつ。そうすると、作者を離れて、読者側に一つの世界ができる。それは、もちろん、作者にとっての世界とは違うもの(テクスト・クリティークは常にどう読まれるかには、無力、なんですね。読者がどう読むかを強制することはできないし、どういった読解もありうる。そういう意味では、作者は無力)。すると、微妙な自分の感性との違和感を補正した、「別の作品」への欲望が生まれる。
ちなみに、文庫版の掲題の本の解説を、押井さんが書いてますね。そして、それは、「自由」についての、大人、子供、論でした。そして、これへの森さんのRESが、

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

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なのか、と思いました。
ただ、こちらの新書については、私は、あまり共感的ではありません。
森さんは、自由を古典的な定義から、考え始めます。著者も、自由が「なんらかの抑圧からの解放」と関係していることは認めます。それは、フランス革命での、この標語にも現れているでしょう。
しかし、著者にとっての、ある種サイバネティックな考えからすれば、それでは、物足りなく思えます。
ようするに、著者は、自由を、もっと「積極的な」意味で解釈を試みていきます。自由とは、自らの主体性と関係があるんだ、と。なぜ、そうするのか。結論が以下です。

こういうふうに考えると、「昔は良かった」「自然に還ろう」という発想は、どうも短絡的に感じられる。「不自由」や「支配」への回帰だといわれたら、どう反論するのか? 昔のことに対しては、懐かしい「安心感」があることは、本能的に誰もが感じるところだけれど、しかし、人類は動物の本能から解放され、「自由を目指そう」という選択を何千年、何万年もまえにした種なのではないだろうか。
もちろん、安心を犠牲にすることはできないから、自由を得るためには、バランスを取りつつ、慎重に進む必要はある。無理に進めば、危険を伴うことは自明だ。
しかし、危険だからといって、今まで来た道を戻ることはできない。「テクノロジィなど捨てて、100年まえの暮らしに戻れば良い」と言う人がいるけれど、そういう人は、今の世界の人口が100年前の何倍になっているか知っているだろうか? 人間の数を半分にしても、まったく追いつかないだろう。
自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

工学部の先生らしいですね。テクノロジーで商売してらっしゃるわけだし、それでエリートなわけですから。説教されちゃいました。(テクノロジーには功罪両方ある。こういったことを、たかだか、100年の間の人口増加で考えることの方がどうなか、とは私は思いましたが。)
しかし、私が言いたいことは、そういうことではありません。こういったことを、なぜ、また、わざわざ「自由」と定義しなければならないのか、ということです。人類は、同じことを繰り返していませんでしょうか。こういった発言が、どうしても、ナチスの科学信仰と、重なるわけですね。
いずれにしても、この本の最後は、以下で、しめくくられています。

毎日が終わって、ベッドで少し読書をしてから、僕はライトを消す。そのとき、明日も楽しいことが待っているぞ、と思えること、それが幸せだと思う。ときどきは嫌なこともあるし、どうしても回避できない障害だってある。けれど、その向こうに楽しみが待っているから生きていけるのだ。
自由を目指して生きる理由は、それがとんでもなく楽しいからである。
自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

著者は、言う。幸せだから、生きる。しかし、ほとんどの人は、その入口さえ見つからない。しかし、生きるんですね。その姿を、簡単に「幸せ」などという言葉で、まとめることは相応しいのかな、というのが、私の率直なところですね。
なぜ、人は生きるのか。
それは、その「人それぞれ」、でいいじゃないですか。なんで、それを、そういったカテゴリーで縛ろうとするのか。

健康であることは、もの凄く感謝すべき幸せの一要因であることはまちがいない。病気のときには、自分の思うように行動できなくなる(ときには、思考もままならない)。誰もが「不自由」を感じるのが不健康である。
自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

健常者でないことは「不自由」でしょうか(ちょっと、用語の使用レベルの混同があるようにも感じますね)。
いずれにしろ、私としては、あまり、(はるか昔から繰り返される)自由積極論って、好きじゃないんですね。
たとえば、カントの実践理性批判でも、当然、自由と主体性は関係しています。しかし、それはどこか、無定義性おいて、という面があるように思います。自由とは「自由であれ」という、たんなる「無定義命令」になります。そして、そこから導かれる、自由の命法は、他者を手段として扱う「だけでなく」目的としても扱え、ですね。なぜ、そんな「命令」をされなければならないのか、は分からないけど、こういった主張が、強制からの抑圧からの解放が、「比較的に」バランスよく成立しうる条件として、でてくる。いずれにしろ、「人間はどうあるものなんだ」みたいな、積極的なものじゃないんですね。
ただ、上記の自由積極論は、掲題の、スカイ・クロラシリーズの世界観に、深く関係しているように私は、読みました。「僕」とフーコが逃避行しているとき、フーコに多額の借金があることを知り、「僕」は後で、絶対にお金を送る、という約束をします。フーコはいつものように、彼のやさしさ、をかみしめる(そういえば、森さんも、国立大学の安月給から「自由になる」のに、小説が売れたのは、ありがたかったみたいに言ってますね)。
(私としては、フーコにとってのその借金がたとえ、頭痛の種だったとしても、それを人生の苦にしていたというより、ただ「僕」とこうやって、一緒にいられる瞬間、これだけが価値だったと、彼女が思っている、って読み方の方が、より、あの場面には、ふさわしそうですけどね。ここでも、ある概念レベルの混同を思わせる。)
なぜ、キルドレは、戦うのか。飛行機を乗り、バトルをキルドレたちは、やりたい、んですね。彼らは、それをやろうと生きている。それが、人生の目的。それによって、他のキルドレに殺されることによって、彼らの人生のピリオドとできるし、それ以外に、人生を「終われない」ようになっている。彼らが「自由になる」ことが、戦闘機バトルを繰り広げる、ことと同義にされている。そして、この一線を譲らないことが、このシリーズの絶対的な命題、伏流としてある。
思うのは、キルドレがどうなのかは、各キルドレ一人一人のそれぞれの問題じゃないのか、ですね。そういう一般化は、あまり、いい印象を与えない。ただ、このシリーズを通しての、草薙水素(クサナギ・スイト)、函南優一(カンナミ・ユーヒチ)、栗田仁郎(クリタ・ジンロウ)、の「自己同一」問題は、なかなか、そういった人格の議論を許さないところがあるのかもしれない。
ちょっと、話が、自由論に、行っちゃいました。
さて、森さんにとって、押井さんに原作として映画化されたことは、どう思っているのだろうか。だって、あきらかに、原作が途中ですから、まったく、映画の方は「意味不明」なエピソードの羅列にならざるをえないじゃないですか。もともと、押井作品が好きだったようなことは上記の新書で書いていた気はするが、やはり、このスカイ・クロラシリーズが多くの人に読まれることを考えたら、それだけでも、この映画化は、原作者には魅力だろう、と思ったということなんですかね。だとしたら、間違いなく成功したと思う。
私も、「スカイ・クロラ」から「ナ・バ・テア」へ行って、あとは普通に読んでいって、最後の掲題の本という、流れで読みました。なぜ、多くの人がこういう読み方をするか。もちろん、出版の順番がそうというのがありますが、それ以上に、「映画を見ているから」だと思いますね。著者も、絶対に最初は、この順番で読ませたいんじゃないかな。だって、明らかに、最後の掲題の本が「異常なんですね」。それまでは、確かに、ちょっと分厚いし、不思議な伏線もあって、戸惑いますが、間違いなく、「さらっと」読めるのに、なんなの、この最終巻だけ、なんでこんなに「意味不明」なの? おーい、最終巻、ストーリー崩壊してねーかー、作者作品投げ出してねーかー、たね明かし、忘れてねーかー、って感じですね。
ちなみに、ある、森博嗣ファンという方が、以下のコメント欄で、このシリーズの読解をしているみたいです。これが正しいのかとか、ほかで、これが「正伝」だとか、あるのか、まったく知りませんが、目に止まったので、リンクしておきます。

screenshot

(まだ、「スカイ・イクリプス」という短編集を読んでないので、印象も変わるかもしれませんが、以下まとめ。)
さて、では、キルドレとはなんだったのでしょう?

「醜いものを、格好の良いものにすり替える。全部そうだ。汚いものを、綺麗なものでカバーする。反対はありえない。外見だけは美しく見えるように作る。しかし、そうすることによって、中はもっと汚れてしまう。この反対はない。俺たちの仕事を考えてみろ。格好良くイメージが作られる。今日の写真みたいにな。しかし、実体はどうだ? 写真には血の一滴も映らない。オイルで汚れてさえいない」
「どういう意味ですか? 僕たちがしていることは、汚いことですか?」
「そうだ」
「どうして?」
「人を殺している」

「でも、そうでも思わないと、嫌になる。生きていくのが嫌になってしまうから...」
「嫌になれば良いじゃないか」
「嫌になったら、だって、生きていけない」
「どうして、生きなければならない?」
「あなたは、どうして生きているのですか?」
「俺か? 俺は、簡単さ、汚いものが、それほど嫌いじゃない」
「そんなの、単なる言い訳です。詭弁です」
「そうだ。そういう単なる言い訳、そういう詭弁の汚さが、好きなんだよ」

ナ・バ・テア (中公文庫)

ナ・バ・テア (中公文庫)

キルドレが子供ということとは、彼らが「合理的にしか考えられない」、ことを意味していると言っていい。人間でありながら、キルドレ以上の運転テクニックを示す、ティーチャーに、魅かれ、彼と関係することを「選んだ」、草薙水素(クサナギ・スイト)。ここから、このストーリーは始まる。つまり、最初から、このストーリーは、キルドレが「キルドレでない」生き方、人間的であるとはどういうことか、を模索していく、話であると私は思いたいんですけど、どーですかね。
この場面もそうですが、上記の、「僕」とフーコの逃避行も、会話が魅力的ですね。小説は、そういった会話や手紙での、それぞれの、やりとり。ここにこそ、その真骨頂があるように思います。多くの印象的なフレーズが、さまざまな想像を喚起させてくれますね。

クレィドゥ・ザ・スカイ―Cradle the Sky (中公文庫)

クレィドゥ・ザ・スカイ―Cradle the Sky (中公文庫)