ジグムント・バウマン『リキッド・ライフ』

著者は、ポーランド生まれの、イギリスの政治社会学者、だそうです。
著者は、まず、現代というのが、一体、
どういう時代なのか
を、最初に考察します。

リキッド・モダン社会では、資産が負債に、能力は障害に、あっという間に変わってしまう。だから、個人的に達成してきた業績を、個体のように、安定した状態にして、いつまでも保持しておくことはできない。人々が自分の行為する状況をきちんと把握する間もないまま、状況が変わってしまい、せっかく立てた戦略も古くさくなってしまう。だから、過去の経験を学んで、以前うまくいった戦略や戦術を採用するの賢明ではない。その後に起きた、ほとんど予想されていなかった(おそらく予測不能の)急進的な状況の変化を、過去の試験は考慮に入れておくことはできないからである。

手短に言えば、リキッド・ライフとは、不安定な生活であり、たえまない不確実性の中で生きることである。このような生活には気苦労が絶えず、強い不安がつきまとう。怠けていると咎められないか? 事態の推移が速すぎてついていけないのではないか? 取り残されてしまうのではないか? 「使用期限」の日付を見過してはいないか。? 取り残されてしまうのではないか? 「使用期限」の日付を見過してはいないか? もはや誰も欲しがらないものを抱え込んでしまうのではないか? 機を逸して、進路変更ができなくなり、後戻りできなくなってしまうのではないか?

現代を、
リキッド社会
と定義する著者は、現代において、価値のある知識が「一瞬にして」古くなってしまう、この状況を、固体ではなく「液体」的というんですね。みんな手に職をつけよう、と言っても、その自分が身に付けた知識が、何年もたたないうちに、なんの役にも立たないゴミ屑になり果ててしまう。あんなに、一生懸命、何年も学校に通って、身に付けた、知識なのに。いや、若い頃から、会社に丁稚奉公して、なんとか、現場で盗んで、自分のものにした、この知識が、ただの無用の長物だと。俺の人生どうしてくれるんだ。
しかし、著者は、それこそが、この現代社会を特徴付けているものであるし、これゆえに、現代人に、「安心社会」の実現は望めない、と喝破する。
とにかく、変化が速すぎる。だれも着いてこれない。だれもついてこれていないのに、事態だけは、どこまでも早く進む。
以下の、卑近な例で考えてみたい。年寄りたちの、かなりの割合は、パソコンに触ろうともしない。インターネットもやらない。昔ながらの、テレビと新聞の毎日。しかし、そんなことでいいのだろうか、と私たち若者は思うが、彼らの立場になって考えれば、これから、新しいことを、いくら覚えても「すぐにその知識は古くて使えなくなる」のです。それが分っていながら、どれだけの人が、それでも、学びたいと思うのでしょう。一番の問題は、「それで困っていない」ということです。「今までと同じ生活はできている」ということです。しかし、もし、彼らが、「若者と同じように働いて、お金を稼ぎたい、といったとき、そのスキルギャップや、知識の差は、その「できる」作業の幅を狭めるでしょう。
しかし、これは、老人だけの問題ではありません。さまざまな分野で起きていることです。ある、専門家として、スキルアップをしていたら、ある時から、そんな知識は不要だ、となる。そして、それに代わる、新たなテクノロジーこそ、現代に求められている、技術者なんだ、と。しかし、そんな専門家は育っていない。育ってきたな、と思ったら、次の技術。
たしかに、大変に、示唆的な問題提起だと思いますが、この問題を考える前に、まず、著者が、どういった認識から、こういった事態を問題視せざるをえない、と考えているのか、その周辺を見ておこうと思います。

「managing」は、オックスフォード英語辞典によれば、「(人や動物などを)誰かのコントロールに従わせること」「何かに働きかけること」「何かをうまくすること」という意味である。要すに、「管理する」とは、とくに注意を向けないで、人々をなすがままにしていたら、そうは進まなかった方向へと物事を進めることである。治部の意志や計画に沿って事態の推移の方向を変えることである。言い換えれば、「管理する」(事態の推移をコントロールする)とは、確率の操作を意味するようになったのである。つまり、「人や動物など」のある種の行動(はじめの一歩であれ、何かの反応であれ)を、何もしない場合よりも起こりやすくしつつ、他方で、別のある種の動きを起きにくく、できればまったく起こらないようにするのである。要するに、「管理する」とは、管理される人の自由を制限することである。

「管理」という言葉は、経営学を問わず、あまりにも、一般的になっています。しかし、それの意味しているところは、「微妙です」。いったい、どのような状態が「管理されている」状態なのか。それは、それほど、自明なことなのか。

文化は「システム」の形状を変えずに保つために、行動の確率分布を所与のままとし、その「システム」の「均衡状態」を揺るがすような規範の違背、混乱、逸脱が少しでも生じたら、すぐにそれに対処する。そのような社会のユートピアは、社会が全体としてまとまりを持つように、適切に管理され(あるいは、一時期あちこちで使われたタルコット・パーソンズのフレーズを思い出せば「基本的に調整され」)、同じ状態へ「永遠に回帰すること」である。確率分布の安定性----確率の分布は、恒常性維持のためのさまざまな一連の仕掛けによってしっかりとコントロールされていて、「文化」はその仕掛けの中でも最高位のものであった----は、そのユートピアへ向けてのあらゆる努力にとって必要条件だと広くみなされていた。「適切に管理された」社会システムとは、その中で人間はいかなる逸脱行為をしても即座に見抜き、修復できないような損傷が生じる前にその行動を隔離し、迅速にその毒を抜くか、その行為自体を削除するような、一種の全体的なまとまり(トタリテイ)である。社会を、自己均衡する(つまり、さまざまな拮抗する圧力を受けつつも、したたかに同じ状態を保つ)システムとみなす見解においては、「文化」とは、変化への効果的な抵抗という管理担当者の夢の実現の略称である。

さきほどの疑問は、この現代を意味する、リキッド社会においては、さらに、疑問となります。そもそも、その、「確率分布の安定性」なるものを実現できると思うことこそ「夢」じゃないのか、と著者は言います。
新自由主義における、「規制」とは、ようするに「誘惑」のことです。そして、文化は、国民を管理対象として「育成」することに挫折して、そこにあるのは、ただの「消費」傾向だけ、となります。著者はこうやって、あらゆる組織が「管理」そのものに挫折していく事態を問題視していく...。
さて、では、こういった、リキッド社会において、どのような、処方箋があるのか。実は、この本に書かれているそれは、かなり貧しい。つまり、やれることはせいぜい 、生涯に渡る「教育」しかない、ということ。
もちろん、それしかない。人々は、「学んでいくしかない」。
しかし、そう一概に言うべきかどうかは、疑問に思っていい。
むしろ、そんなに簡単に、流行によって、過去が廃れる現状こそ、いい加減、問題なのではないか。どんなに、新しいトレンドが生まれようと、それと共存する、過去の知識(つまり、新しいものと古いものとの、シームレスな「接続」を、持続していこうという、啓蒙的で教育的なインフラ、ですよね)。
いいかげん、テクノロジーは、もっと、前世代のものとの、互換性を高める方向に、梶を切ってもいいはずだ。過去世代が、落ちこぼれていくのは、以前の技術との、変換規則が、共有されていないからにすぎない。しかし、そこは、どうしても、専門性が問われる。そのため、どうしても、仕事を依頼する側も、この新しいテクノロジーの経験が乏しい人を、そのまま使うことを躊躇する。だとするなら、その部分を担保する、経験の場を用意していくしかない(そういう意味では、もちろん、教育しかありえない)。
しかし、なぜ、そういう方向に考えが進まないのだろう。
そこには、やはり、著者を含めた、上記の「管理」への、執念があるのかなあ、とは思う。つまり、問題への関心が、このリキッド社会において、マネージメントが成功せず、ただその変化を見守ることしかできない、無力感の方にあるのであって、各個人がそのリッキドをどうやってサーフィンしていくか、にはない(「管理」至上主義者にとって、各個人が、対応できるかかどうかなど、どうでもいい、問題はその、リキッド性なんだ、と)。
「管理」できなければ、一体、どうやったら、「独裁者」は安心できるか。
しかし、安心できないなんて、普通のことでしょう。
「独裁者」こそ、常に、「みんなの意見」によって、監視される。独裁者の、破壊的な欲望は、こういったリキッド社会のトレンドによって、淘汰される。独裁者には、その存在形態そのものが、難しい時代だということでしょうか。

個人志向社会では、誰もが個性的で「なければならない」。少なくともこの点に関しては、この社会のメンバーは、まったく没個性的であり、他の人と違うところもなければ独特でもない。むしろ逆に、お互い驚くほどよく「似ている」。というのも、自分が個性的に振る舞っていることを他者に納得させるには、みんなに共有された証拠をわかりやすく示さなければならないし、採用される生活戦略も同じようなものだからである。

おもしろい視点ですね。現代のこのリキッド社会において、人々は、より「個性的」であることを求められる。なにか個性がなければ、他の人と変わらないというんだから、面接なんて受かるわけがない。しかし、その個性なるもの。多くは、お笑いである。「これが自分の個性でーす」って、それ、テレビのCMで、さんざん、流行発信されてる「みんながやってる格好」じゃねーか。おい、おかしい。なんで、個性的であろうとすると、「みんな同じ」になっていくんだ。
つまり、いつもの、一般性と特殊性、と、固有名性と単独性、の対立ですね。一般性などありえない。あるのは、常に、単独性。別に、フツーであることと、その人「そのもの」性は矛盾せず、両立する。

リキッド・ライフ―現代における生の諸相

リキッド・ライフ―現代における生の諸相