小泉義之『「負け組」の哲学』

日本の憲法において、さまざまな、差別の禁止(つまり、平等の義務)が課されているのに、こと「能力」の平等については、言及されていない。そこから、著者は、日本の憲法では、能力差別が許されている、と解釈する。
しかし、このことを、わざわざ、とりあげることは現代の日本においては、「異常な」人扱いされることを覚悟しなければならない。能力に差があるなら、それに基く差別は、当然ではないか。だって、そうでなければ、競争だって生まれない(ロールズの「正義論」でさえ、いろいろ理由をつけながら、この能力差別は不問に伏しているのだろう)。
しかし、無能力者が、この世界で生きることが難しいのは、当然ではないのか。であるなら、能力の差によって、差別されることは、必然的な、生活水準の差が生まれることを意味していないだろうか。だとしたら、この差異は、どういった理由で、正義の名の下に、正当化されるか。
私がなぜ、「現代の日本においては」などと断ったかというと、そうでなかった国が、世界にあったからである。
レーニンである。

近代国民国家憲法たる日本国憲法は、総体として、無能力者=無資格者を排除し、死へと廃棄する生権力の法である。改良主義的戦術でどうにかなるような代物ではないのだ。それでも憲法が欲しいのであれば、無能力者=無資格者の立場に立った「臨時革命政府」だけが、「憲法制定議会」を招集することができるとでも言うべきである(レーニン『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』)。

(こういう意味から、暫定的には、立憲君主による、恩給報償制は正当化される、というのが、著者の考えである。)
もちろん、日本の憲法には、第25条の最低限原則という、(ある意味、奇妙な)生活保障権が存在する。
しかし、ここで言われていることは、「そういう問題ではない」。なんらかの、障害によって、健常者と同じように、働けない人は、「最低限」に甘んじなければいけないのか。いや、そもそも、その最低限なるものは、なんなのか。一体、なにを言っているのか。なんなんだ、この無定義性は。
この本の最終章は、著者による、社会主義論、共産主義論、である。
今まで書いてきたことを、ひっくり返すようだが、著者の見解からは、むしろ、この国は、「社会主義」化、してきた、となる。
野口悠紀雄の『1940年体制』を見ても、日本の戦後体制は、完全に、戦前の、北一輝に傾倒したような、社会民主主義的な思想傾向を強くもつ、革新官僚によって、リードされひっぱられてきた、日本の制度は、著しく社会主義的である。農村救済策、借地法・借家法、健康保険制度、所得税源泉徴収、...。
こういった傾向は、前に少し書いたが、「戦時下」の特徴と言える。戦時中は、国家は、著しく、福祉的になる。なぜなら、国民の国家への奉仕が重要になるから、である。そう考えるなら、こういった政策を日本が続けたことは、合理的であったと言えなくもない。日本は戦後こそ、この「経済戦争」を戦ってきたのだから。
そういう意味では、戦後、自民党を含めて、日本のあらゆる政党は、社会主義政党であった。
しかし、このことは、この先の段階として構想された、「共産主義」の理念を検討する上で、まずふまえなければならない問題として、興味深い。

レーニン『国家と革命』から見ておこう。レーニンは、マルクス『ゴーダ網領批判』を要約して、共産主義の第一段階、あるいは、共産主義の低度の段階(これが社会主義に相当する)を、こう定義している。

この段階では、生産手段はもはや個々人の私有ではなくなっている。生産手段は社会全体のものである。社会の各成員は、社会的必要労働の一定部分を遂行して、社会からこれこれの量の労働をしたという証明書を受け取る。この証明書で、彼は、消費手段の公共倉庫から、給付した労働に相当する量の生産物を受け取る。したがって、各労働者は、共同基金にあてられる労働量を控除されたうえで、彼が社会に与えただけのものを社会から受け取ることになる。

すなわち、社会主義とは、「働かざる者食うべからず」「労働に応じて配分する」という原理によって構成される体制である。この体制が、戦時から戦後にかけて完成したのである。

社会主義とは、マルクスレーニンにとっては、あくまでも、中間段階として構想されたものであった。彼らは、その先の理想を語っていたということを、多くの人々は忘れている。問題は、そこにある違い、になるだろう。

では、ネグリとハートは、『マルチチュード』で、「ソヴィエト式の国家社会主義社会民主主義による福祉国家という主要な旧いモデルはともに完膚なきまでに信用を失った」と断じてみせたが、マルクスレーニンは、この社会主義のどこを批判し乗り越えようとしていたのであろうか。また、共産主義の高度の段階をどう展望してたのであろうか。マルクスの定義から見よう。

共産主義社会のより高度の段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立がなくなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的発展にともなって、またその生産力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち----そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる----各人はその能力におうじて、各人にはその必要に応じて!

共産主義とは、各人が能力に応じて働き、必要に応じて受け取る社会である。働ける者は好きで働き、働きたくない者は好きで働かず、働けない者は好きで何かをするか何もしないで生きるが、とにかく労働に応じて受け取るのではなく、必要や欲求や欲望に応じて受け取る社会である。

多くの人が、勘違いしているのは、共産主義とは、一般に、今の人々が、考えている社会制度、さまざまな、社会的矛盾の中で妥協の産物として選ばれている、そういったものでは「ない」ということである。これは、徹底的に、理想世界、なんですね。
では、もう少し、具体的なところで、どういったことが構想されていたのか、をピックアップしたものとしては:

マルクスレーニンが明確にあげていることは、分業の廃棄、賃金労働の廃棄、議会制民主主義の廃棄、常備軍と官僚制の廃棄である(柄谷行人の提案する籤引き制とは、議会と官僚制の廃棄をマイルドにした構想である)。ただし、それ以上具体的には書いてはいないし、書くことができないと自覚していもいた。「これについてはわれわれは知らないし、知ることもできない」(レーニン)。

こうやって並べてみると、あることに気付かないだろうか。コンピュータが、この、かなりのことを、実際にすでに、かなえているとは言えないだろうか。分業とは言いつつ、多くの仕事は、パソコン作業そのもの、になってきているわけで、あまり違いがなくなってきている。議会制民主主義については、東浩紀さんの提言もその一つと考えていいだろう(
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)。賃金労働については、最近書きましたことですね、あらゆる事業は、今、ほとんど、ゼロ円でやれる、という話。そこから考えれば、いずれは、労働の対価としての賃金という表現は、あまり意味がなくなるのかもしれない。
(そんなふうに考えると、第25条も、逆に、おそろしい感じさえしてくる。なんにせよ、「最低限」は保障しなければならない、と言うのだ。しかし、最低限とは、なんだ。必要十分ってことだろ? 十分だから、最低って言えるんだろ? まるで、共産主義社会を実現しろ、と言われているような気さえしてくる。おそらく、ここまで、「先進的」に踏み込んだ憲法をもっている国は、ほとんど日本くらいなんじゃないか。)
しかし、一見して分かるように、マルクスレーニン共産主義「理想」社会の構想は、そういった、制度設計に「とどまらない」。人々の他人への差別的な感情、他人をたんに自分の手段としてだけ扱おうとする、そういった、もろもろの、非人道的な行為への、「アウフヘーベン」までが、構想されていたわけですね(だから、理想社会、だったわけです)。
たとえば、マルクスは、若い頃すでに、「あらゆる」差別などの社会的矛盾は、解決が目指されなければならないと、言っているんですね(以下は、ずいぶん昔に引用した、個所ですが:

若いマルクスは次のように書きました。

宗教批判は、人間は人間にとって最高の存在である、という教説で終る。したがって、人間を卑しめられ、隷属させられ、見捨てられ、蔑まれる存在にしておくような一切の諸関係を(中略)くつがえせという、至上命令(無条件の命令)をもって終るのである(マルクスヘーゲル法哲学批判序説」)

これは明らかにカント的な考え方です。

倫理21 (平凡社ライブラリー)

倫理21 (平凡社ライブラリー)

)。そう考えると、むしろ、なぜ、多くの人は、そういった、理想社会を考えなくなったのか、そちらの方にまで、ちょっと気になってくる。
(もちろん、こういった理想論を聞くと、人は、人間なんて醜い生き物なんだから、そんなの無理にきまっている、と言いたくなるものだ(私も、そういうことをここに書いたものだ)。しかし、そういったことは、ある意味で、制度やシステムの問題と言える面がある、ということを示唆しているのだと思う。ある制度によって、傾向として、学校などで、さまざまな、いじめ、のような、差別的待遇をしがちな人が多く現れやすいとするなら、その制度の見直しは、状況の改善につながるかもしれない。問題は常に、その傾向性なんですね。こういった、さまざまな、個別具体的な傾向性まで、徹底的に追求していく、というのだから、この理想社会というやつは、どこまで、深淵なのか、とでも考えておけばいいってことでしょう。しょせん、理想社会なんですから。)
掲題の著者にとって、この問題は、例えば、尊厳死法のようなものにこそ、典型的にあらわれている、と考える。人工呼吸器や人工経管栄養で生きている人々。こういう人たちは、社会に負担ばかりかけて還元の割合が少ないから、死んもらう方が、お国のためになるんで、どうか死んでください、と言うような社会にするのか(尊厳死法とは、ある意味、そういうことを意味しているのではないか、と、掲題の本では示唆されている)。もちろん、多くの人は、そこまで「露骨には」言わないのだろう。しかし、では、逆に聞くが、彼らに、どのような手当を用意すべきと考えるだろう。彼らは、その「理想社会」において、どんな扱いがされているべきと考えるだろう(いや、それは、むしろ、彼らが「選ぶ」べきことなのだろうか。彼らが、やりたい生き方を、...)。
...こんなことは、瑣末な話で、どうでもいいこと、と思うだろうか。

「負け組」の哲学

「負け組」の哲学