浅田弘幸『テガミバチ』

ジャンプ系のマンガ。アニメが放送中。
主人公ラグ・シーイングは、その心弾銃を、ものに命中させることで、そのものに込められている「こころ」を映す。ちょっと分かりにくい表現であるが、たとえば、その物を使っていた人が、どんなことを考えて、その物を使っていたのかが、その銃で、その物を打った後に、目の前で、映像になって、映される。これによって、ただの手紙では分からない、相手が、実は、どんなことを考えていたのか、が分かる、というストーリー展開となる。
たとえば、姉ネリの、体の弱い弟ネロが、憧れの人ジギー・ペッパーへ書いた手紙を、ラグの心弾銃で打つ。そのことで、ネロが、いつも姉に守られていたことから、いつか今度は自分がネリを守れるようになると、ジギー・ペッパーと誓っていた、その約束を知る。さらに、ネロが死ぬ直前に、その約束を果すことができないまま、こうやって死ぬことを、悔やんでいたことを知る。ネリは弟の本当の気持ちを知ることで、ジギー・ペッパーへの恨みから解放され、彼女の人生を始めることができる。
しかし、わざわざ、こんなことを断るまでもないことであるが、ある物にある記憶が刻まれていると、仮に想定しようとも、または、直接ある人間を心弾銃で打つことにより、その人間の人生を描いてみるにしても、問題は、そんなに都合のいいように、スナップショットを切り取れるのか、という問題がある。
人間は、時間的存在である。私たちが生まれてから、今まで、実に、多くのことを、その瞬間瞬間で、考える。ときには、弱気なことも考える。そういった「全て」を映像化するには、おそらく、その人の人生と同じくらいの時間が必要であろう。しかし、その心弾銃で表示される映像は、せいぜい、一時間もかかることはない。であるなら、そこには、なんらかの「編集」が行われている、と考えなければならない。
姉ネリは、弟ネロの、ジギー・ペッパーに対して、本当は、どう思っていたのか、姉が最後に目撃した弟の言葉、「悔しいよ、ジギー」、がどういった意図で、弟の口から発せられたのかが分かる、「編集」を経たものが、その心弾銃による映像には、意図されていなければならなかった。しかし、それは、「だれによって行ないえた編集だったであろう」。
そんなふうに考えると、このマンガが、かなり、御都合主義的なものであることが分かる。ところが、私たちは、案外と、こういう陥穽にはまりやすい。水戸黄門のような、勧善懲悪ドラマが好きだ。みんな今の自分の悲惨な状況を、切取る「心弾銃」を欲している。
もちろん、これは、自分の気持ちを分析するには、「正しい」方法である。私たちは、その手掛りを、自分の過去に遡り、探すのだ。
しかし、その方法を、他人に適用するときには、注意が必要である。たとえ、それが、どんなに自分に身近な人だとしても、である。
たとえば、民主党小沢幹事長が、検察に事情聴取されれば、小沢幹事長は、職を辞するべきだ、となる(小沢幹事長は、いい年齢ですし、どうせ、選挙前には辞めるのでしょう)。しかし、そういったときに、人々は、そもそも、検察という組織の今の、あり方、「一罰百戒」をまるで、組織の存在意義としているかのような、あり方。これを忘れてしまう。しかし、もし、その一罰百戒が、組織の行動原理となっているのなら、その法律的な根拠が、「憲法違反であることは明らかであろう」。検察という組織が、たとえ、必要だとしても、それは、その部分の法律の部分が修正された上でなければならないであろう。
一般に、では、現代社会において、この問題は、どのように、処理されているか。もっともありふれた光景は、裁判制度、であろう。ここにおいては、被疑者は、自身の無実を、「心弾銃」に頼ることはない。なにに頼るか。
弁護人、である。
弁護人は、被疑者が「実際には」どうであるか、に関心はない。あくまでも、彼の役目は、被疑者の弁護であり、その容疑に対する、被疑者の「反論」から、その犯罪容疑の正当性を争う。
この構造には、ある、現代における、真偽の一つの姿、が現れている。
どうであろうか。あなたには、やっぱり、「心弾銃」が必要だろうか。これじゃ、あんまり、だろうか。人生がさみしすぎるであろうか。こんなに、人の心は、他人までには、遠いというのだから。つらいもんだ。神に祈らずにはいられないだろうか。
しかし、逆に言えば、今でさえ、これだけののことができているのだ、これをもう、奇跡と言ったっていいんじゃないか、そんなふうにさえ、言えなくもないのかもしれないが...。

テガミバチ 1 (ジャンプコミックス)

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