躁鬱社会

ピアプレッシャーこそが人々の行動を決定していると言っていいのだろうか。
この問題をどう考えたらいいのだろうか。
一時期、KYという表現がよく用いられた。
大学を卒業する学生は、就職活動をする。いずれにしろ、就職できれば、基本的に、それなりの理由がなければ解雇されない。今の日本でも、それなりに自分の生活の設計が立つ。
しかし、この就職活動。バブルの頃と、あまりに変わった。完全に買い手市場になった。どこの就職活動でも非常に高い倍率の中の「競争」になった。
基本的に、ホモサピエンスは、「ホモ・セレクテッドス」(選ばれる人)となった。人は基本的に、選ばれることで「人」になる。
ということは、どういうことか。選ばれない人は、人として否定される、ことを意味する。
選ばれ続けることで、その人は、自分を「人」と、アイデンティファイする。しかし、選ばれるということは、逆にいえばそれは「アピール」するということである。「自分はこういうキャラです」。「自分にはこんなことができます」。「自分にはこんな特徴があります」。
しかし、それらは言わば「自称」である。本来、そういったことは他人が批評することだと言えるだろう。ということは、どういうことなのだろう。「自分とは何なのか」を、絶えず「アピール」し続けずにはいられない。
こういった状態を心理学では、過剰である、つまり「病気」とか「症候群」などと命名していく。
人が人の中で、なんらかのラベリングを生きようとするとき、「過剰」になる。つまり、基本的に人は集団の中では、躁状態(マニック)、ということだ。
「盛り上がる」という表現をよく使うが、集団の中においては、人々はそういった、躁状態、を「常態」とする。
ということはどういうことだろう。
なにかの「過剰」は、常に、その「反動」とトレードオフとなる。
人は一人、ベッドに入って、電気を消して、黙って天上を見ていると、強烈なディプレッシブが襲ってくる。
「...なにやってんだろうw」。
しかし、である。
そもそも、今の社会の構造が、上記の意味で、人が人から選ばれることが、基本的に、ほとんどの場面で「当然」と考えている限り、人々がこういった、躁鬱を繰り返すのは、むしろ当然なのではないだろうか。
しかし変な言い方になるかもしれないが、そもそも、人が人を選ぶなんて、そんなに自明な行動なのだろうか。そんなに簡単なことだろうか。もし本当は、みんなそれなりに及第点で、だれでもよかったので、陰で「籤引き」で決めていたとするなら、どうだろう。
しかし、選ばれる方も、選ばれない方も、その事実は知らされることがない。
もしこんな場面に、日々、さらされ続けるとするなら、むしろ、ディプレッシブにならない方がどこか「バランスが悪い」なんてことまで言えないだろうか。
一時期、テレビで、ヴォーカリスト・オーディションみたいな番組がやたらと、いっぱいあった。しかし、最近は、めっきりなくなった。実際、ああいう番組は「痛かった」。出場者が極端に「権力者(選抜者)」にへりくだるようになり、みんな、しらけてくる。「こいつ、本音で話してるのかな」。
過剰な適応。