長門有希の百冊

アニメ映画「涼宮ハルヒの消失」を今ごろ見に行った。平日の仕事終わりだったけど、けっこう、観客がいた。女性もけっこういた。
といいますか、テレビアニメ版の「涼宮ハルヒの憂鬱」も最近やっと、最初から最後まで見たばかりであった。原作はほとんど見ていないが、けっこう原作に忠実な作りという印象だ。
別に、今さら、私がどうのこうの述べても、あまり意味はないだろう。多くの言及がさまざまな場所で行われていて、もうなにも言うことなどないだろう。
ただ、これだけ、世界的な反響があっただけに、作品としては、よく考えられている印象を受けた。
作品内、自主制作映画「朝比奈ミクルの冒険」は、アマチュアリズムについて、考えさせてくれる。これを見ていると、いわゆる「プロ映画批評家」のプロ的視点がいかに「大衆の欲望」と無関係かを考えさせられる。本当にアマチュア的な瑕疵は、「作品の減点項目なのだろうか」。私たちは、本当は、さまざまな「プロフェッショナリズム」に毒されているのではないだろうか。プロフェッショナリズムとは一つの「作法」にすぎない。なぜそれを選ばければならないのか。なんの理由もない。
主人公のキョンという少年のなんとも、朴訥としたなんの特徴もない印象が、おもしろい。あんななんの特徴もない、見た瞬間、忘れてしまいそうな彼が、主人公というのがおもしろい。ただ、長く見てると、彼の毎日の日常を斜に構えて見ているその「大人っぽさ」こそがこの世界を成立させていて、むしろ、彼のその一歩引いた立ち位置が、ハルヒにとっても、彼女の頓狂な行動の範囲を自ら自制している感じなんですよね。
それにしても。
超能力者に未来人に宇宙人。
ですかー。
はー(ため息)。
長門有希(ながとゆき)という、本読み少女が、毎回毎回、「いつ見ても」、なにか本を読んでいて、それがなにを読んでいるのかが気になってしょーがないのが、アニメ版の特徴であった。
ある雑誌に、長門有希の百冊ということで、彼女が「推薦」したかのように、百冊の本が紹介された。その内容については、ぐぐれば、いくらでも確認してもらえるが、その特徴は、SFとミステリを中心とした、いわゆる「古典的な」名作のオンパレードだ。
宇宙人の、彼女は一人だけ文芸部員ということで、そうやって本を読んでいるのだろうが、一人だけの部活などフツー認められないだろう。
もし宇宙人が地球「人」の知識を得たいと思ってこういったものを読んでいると考えるとするなら、いささか、エンターテイメントすぎる。
惜しむらくは、もうちょっと学術書とバランスがとれてるといいけど、そうすると高校生っぱくなくなりますかね(彼女なら、それくらいは読んでいてほしい気もするが、若者にあまり期待しすぎるのはよくない)。
日本の女子高生にできるだけ似せようと考えての設定だとするなら、いささか、紹介しているジャンルが、硬派な男の子っぽすぎる。
だとしたら、これもなんらかのバグか?(そんなに力まなくても、たんに監督かだれかの、趣味なだけだろうが)。
映画では、彼女の「バグ」の蓄積が、世界を「普通」に変えてしまうという展開であった。これについては、以前にアニメ「キディ・グレイド」について書いたときのことを思い出す。宇宙人というだけで、基本的に私たちと「違う」。ということは、それだけ感情移入が難しいことを意味する。こういったSFは、その問題をどうやってクリアするかが、最初のハードルになる。
人工知能についても言えるが、私たちが、共感したり、感情移入したり、といった一つ一つの反応は、「人間だから起きる」といったような、存在論ではないはずだ。日々の生活の中での、さまざまな経験の積み重ねが「そうさせる」のであって、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。
ばかばかしいと言ってしまうのは簡単だが、たとえば、以前紹介した、家畜人のような形で、人間が「悩の手術によって」家畜に特化した存在へと変えられたとき、おそらく彼らは、今のこの民主主義社会の主人公としての国民としての、行動をまともに行えないような生活作法をすることになるのだろう。しかし、だったら「もう人間じゃないんだから、人間扱いしなくていいだろ」となるだろうか。
もっと言えば、このアニメだって「二次元ロボット」だ。こんなものに感情移入しているようでは、どうかしている、というなら話は早いが、人間社会はこういった、絵画芸術にそれなりの市民権を与えてきた。「二次元ロボット」が現代劇を演じたから、感動しない、というのも極端な話になる、ということだろうか。
ちょっと変なことを考えてみよう。もし相手が宇宙人なりロボットなりサルなり、だったとして、あと彼らが「どうであれば、私たちは、まるで自分たちと彼らを同じと考え始めるであろうか」。最低限、意志疎通ができてほしい? 恋愛の感情は同じくもってほしい? かなうなら「なんらかの方法で?」お互いの子供を産む可能性はあってほしい? 問題はこういったことが具体的にどういったことを意味しているのかなのだろうが、悪いが、こういったことと、具体的に自分たちが「人間」であることとの、アンデンティティはそれほど、一致しているように思えない。
しかしでは、これをさらに具体的に追求していくとなるとであるが、ここまでくると、やっぱり、今の私たちには、想像を超える話で、未来の話、つまりSFということになりそうだ。
ただし、もう目の前に迫っている問題もある。つまり、コンピュータである。さまざまなアルゴリズムは、いずれ、動物的な生得的な「進化」をビルトインしていき、少しづつではあるが、人間の感情の動きに似てくるものも現れてくるであろう。というか、「人間だってロボットではないか」。生物という機械ではないか。
ユビキタスということが、最近までよく言われた。例えば、YouTube の「あなたへのおすすめ」という機能は、おもしろい。そんなに難しいアルゴリズムではなさそうだが、こういったものが自分のことをよく知る友達が紹介してくれているのと「どれほどの違いがあるだろうか」。ということはどういうことだろう。YouTube という「ロボット」はかなり「人間」なんだ、とどうして言えないことがあるだろうか。
IT社会などと言っているがまだ、
「端緒についたばかり」なのではないか。
もしあと何十年もの、地球レベルの平和を維持できるなら、相当のコンピュータ、いや、「ソフトウェア」産業の発展が待っているのではないだろうか(そんなふうに、ちょっとこの業界をはげますように、つぶやいてみるのだが)。ここには、まだまだ、十年単位くらいで続くような伸びしろがあるのではないだろうか。私たちがまだ、意識していない。イメージできていない、というだけで。
実際に、コンピュータをみていると、さまざまなライプニッツの哲学構想が、この中で「実現されている」気分になってくる。コンピュータとは実際、数学そのものだ。始めて、数学が実現されるに「十分な速度をもった」世界を、人間は手に入れた。ということは、あとの問題は、人間がどこまで数学を飼いならすのか、だとも言えなくもないのだが...。