デフレ

今週の、videonews.com は、飯田泰之さんの出演でしたね。なかなかおもしろかった。特に、ケインズのデフレ論の部分にふれているところが、さらっとでしたけど、おもしろかった。
日本はここ何年も、「経済成長なし」ってことになっているらしいけど、これってどういうことなのか? というのは、こんな状態がずっと続いて、どうなるのか、という意味である。
GDPというやつは、普通に生活をしていても、上がるものだと思うのだが、なぜか少しも上がらない。ということは、さまざまな局面で、この成長を押し下げているのだろう。
つまり、デフレである。
ある方のブログから(
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)、引用させてもらうと、

たとえば、「通貨価値の影響が社会に与える影響」(1923年)より。

物価の変動が実際に起こったとき、ある階級が利益を得て、別の階級が損失を被るのだが(略)、それだけではなく、物価が実際に下落しているかどうかは別にして、下落するとの恐れが社会全体に広まれば、それだけで生産が妨げられうるのである。その理由はこうだ。物価が下落すると予想されれば、投機的な「強気」のポジションをとろうとするリスク負担者が不足するようになる。つまり、企業家はかなりの期間がかかる生産を行うのをためらうようになる。現金を支出してから回収するまでに時間がかかるからであり、その結果、失業が増える。物価が実際に下落すれば、企業家は損失を被る。このため、物価下落を恐れれば、事業を縮小して自衛しようとする。だが、リスクに関する見方とリスクをとる意欲とが、個々の企業家のレベルではなく、企業家全体のレベルでみたときにどうなっているかこそが、生産と雇用の水準を決める主要な要因である。

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

いわゆる、デフレ・スパイラルというやつですね。不況になると、なんにせよ、「すべてがうまくいかない」。もう、個人がなにやってもダメなんですね。確率が、バッド・ラックの方に、慢性的にブレている。
こうなると困るのは、だれだろう。
なんのことはない。リスクをとって働いている労働者、つまり、若者ということになる。
そうやって、実際に、世間を見渡してみても、デフレが問題だと言っているのは、若者で、年寄たちは、どちらかと言うと、この解決をなにがなんでも解決しなければならないとは言っていない。つまり、デフレだって、経済の運動の一つの側面なのだから、それにはそれの合理性がある(実際、金利が低いことで、国債が回っているとか、いろいろあるのでしょう)、といったところでしょうか。
ようするに、年寄は、デフレの問題を、比較的に深刻に考えない、という傾向がある、ということらしい(実際に、それほど困ってもいないのでしょう)。つまり、逃げ切り問題、というやつなのでしょう。あと何年かで、どうせ、自分はリタイアする。勝ち逃げってやつですか。
日本はそういう意味で、本当に斜陽の国になってしまったのだろうか。なんというか、モチベーションを感じなくなっている。
その典型が国民健康保険制度や年金制度ではないだろうか。これらが、もともと、軍事費にあてるために導入されたものだということは、以前に書いた。とにかく、直近のお金が欲しい。そのために、やれもしない約束を国民にする。そうすると、「おお、これは便利」と、漫然と継続する。しかし、この制度を維持するには、時間がたてばたつほど、難しくなっていくことは、システム上自明。100年バブルが続くなら、100年安心、くらいの意味しかない。
100年安心と言って、嘘つきよばわりされて、下野した自民党にかわって、政権を奪取した、民主党だが、まったく、代替案がでてこない。なぜか。もともと、うさんくさいんですよね。財源からなにから。国が国民にかわって、運用してあげます、という制度ですよね。しかし、こうやって、この国自体が、斜陽の国になってしまうと、計画をたてようにも、暗い見通ししかないから、極端に苦しい目標になってしまう。そしてそれをベタにやろうなら、国家の体をなさなくなる。極端な増税国家となり、息苦しくなる。
では、こうやって変えないことで、誰が得をするか。当然、現在の制度で逃げ切れる、年寄世代ということになる。彼らには、なんの危機感もない。
国家はそうやって、ある周期で、ご破算にしてきた実績がある。一回目は、明治維新。ここで、江戸幕府のさまざな財政難をご破算にした。二回目は、終戦。ここでも、さまざまな借金をチャラにしやがった。だったら、どうして、国家が三回目を考えていないなどと言えるだろうか。実際、そうやって困るのは、この国を信じてついてきてくれた庶民なのだろう。
今、ギリシャの経済危機で、EUによる、ものすごい額の支援策が決定された。約束を実現できないなら、EU脱退じゃなかったのかと思うが、どうもギリシャ一国の問題ではすまない、ということのようだ。たしかに、ギリシャの公務員天国ぶりは、この国を援助することのばかばかしさを感じなくもないが、もっと「総合的」に考えての援助だと。
これだけ、世界経済がグローバルになってくると、あまり、国家という単位に意味がなくなってくる。どうせ、困っている国があるなら助けなければいけないし、そうやって、国同士が経済をやるなら、基軸通貨でやりあうのだろう。国単位で分かれていると便利なのは、不況をその国の「問題」として、自己責任をとらせられる(その国の国民に納得させやすい)くらいだろう。
実際はグローバルなのに、そうでないかのようなふりをし続けることには、どういった意味があるのだろうか。経済活動とは、よく言うが、ようするに、お金がたまっていく人間(お金持ち)とお金がたまっていかない人間(貧乏人)に分かれる、くらいの意味にすぎない。そういう格差を実際に「実現」するための運動のようなものだ。そういう運動に、どういった「利点」があるにしても、それも一つの「イデオロギー」であることには変わらない。他にベターな代替案がないから、自由経済でやってんじゃない? くらいの意味でしかない。
いずれにしろ、こういった運動がグローバルであるということは、均しなみに、どこの国にも、お金持ちと貧乏人に分かれる、ということであるだろう。そう考えると、国家という単位に意味などなくなる。
世界中のお金持ち vs 世界中の貧乏人
こういった構造(つまり、二つの階層化)が、露骨に見えてくる。こういった傾向を見せ始めたとき、一般的にどういった傾向が見えてくるだろうか。一言で言えば、
「世界中のお金持ち」たちは、「世界中の貧乏人」たちが「問題」だと思っていることを、それほど深刻な「問題」だと考えない傾向がある。
こういったことではないだろうか。階層が二つに分かれるということは、それぞれの「共感」力が極端に減少していく。昔の身分社会に近くなっていく。
ところが、政治などの権力中枢を占める人々は、常に、「世界中のお金持ち」階層なのですから、彼らにとっての問題しか問題視されない。反対側は軽視される。
では、このジレンマに対する脱出口はあるのか。民主主義が一つの答えでしょう。ここでは、あくまで、一人一人の一票は、平等である。ここには「民意がある可能性がある」。そういう意味で、私はポピュリズムを批判する議論は、気をつける必要があると思う。ポピュリズムが問題だとしても、そこには、一定の意味、動機が反映されている可能性がある。
こうやって考えてくると、一つのアイデアに辿り着きます。いったん、年寄の言うことを聞くのを「やめて」、若者の言うことにしか耳を傾けない、という作法を実践してみる、ということです。かなり、反動的かつ挑発的ですが、いずれにしろ、若者がどういった言論傾向をみせているか、なかなか興味深いものが見えてくるのではないでしょうか。
ちょっと、議論が紆余曲折してしまいましたが、そんな飯田さんということで、以下のような、ネット上の記事があったので、ざっくり読んでみた。
以下のような、なかなか、挑発的な発言もあって、おもしろい。

アルバイトが仕事を覚えないのは当然です。だって、昇進や昇給があるわけでもないならば仕事を覚えてもたいして得にならないんですから。部下が言うことを聞かないときには、あなたの命令に従うことで部下にはどんな得があるのかよくよく考えてみてください。あなたは彼を出世させてやることができますか? あなたについて行くことで彼は仕事上の達成感を得られそうですか? そのような権限・能力があなたにないならば、部下は「合理的判断に基づいて」あなたの言うことを聴きません。

第13回 倫理を語る事なかれ
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「Hack」とは俗語で「上手にこなす」「コントロール下に置く」といった意味なんだそうですね。経済学というのは、ようするに功利主義プラグマティズム、のことであって、そういう意味では、アメリカン・マインドそのものですよね。
ただそういった、「効用関数」は、さまざまな批判が、福祉的マインドから、あがっている。センの経済学もそうですね。
人はなぜ、それを選ぶのか。いや嘘だ。なぜ「選んだ」のかだ。しかしその情報はそれほど「価値があるのだろうか」。どうでもいいことである可能性はないだろうか。100グラムのゴールドより、99.99...グラムと繰り返していったとき、その金の方が「欲しい」ということに、果してなんの意味がありますかね。しかし、それをどこまでもやらないと気がすまないのが、数学的な順序空間だ。
しかし、選ぶことは、本当に順序構造なのだろうか。兄弟のいる人は、子供の頃、他の兄弟の趣味と違うことを、自分が趣味にしている(または、同じ趣味なんだけど、微妙にファンの部分が重なっていない)体験をしていないだろうか。これは一つの住み分けってやつなのでしょう。しかし、それがベスト・アンド・ブライテストじゃないと結論することも難しい。立場によって、見えるものもあるのでしょう。
選ぶということというより、そう行動することを欲望した、といった表現が正しいのでしょうか。
結局、よく分からないんですよね。自分がなぜそれを選ぶのかも、つきつめていくと分からないし、他人がどうなのかなんて、さらに分からない。
だから、最後はどこでも無記名投票になるんですかね。