青山広『論理体系と代数モデル』

つい最近、ちょっと、おもしろい、数学書をみかけたので、紹介したい。
今どき、数学書がおもしろい、って、なんの話と思われるかもしれない。
ただ、それがどうして、おもしろいのかを、説明するには、ちょっと用意が必要である。
以下、がんばってみる。
ヒルベルトのプロジェクトについては、以前書いたかもしれない。それは、非常に重大な意味をもった野望であった。
数学に矛盾があっちゃいけないのではないか。
ではどうするか。
矛盾がないと証明しちゃえばいいんだ。
しかし、そんなことは可能なのだろうか。
たとえば、こういったものを考えてみよう。
全ての命題が正しいか、正しくないかを、判定する、関数を作ってみよう。
やって。
まあ、いずれにしろ、こういったことを「やる」という場合には、なんらかの、「工程表」をつくらなければ、始まらない。
じゃあ、どうするか。
とにかく、まずやらなきゃならないことは、
数学を数学しなきゃならなそうだ。
だって、そうしないとまず、
上記の命題を、数式化できそうにないじゃないか。
数学に矛盾がないことを証明するためには、
「数学を定義」しないと。
数学って、何をしているんだろう。たとえば、高校で勉強する、極限っていうのがある。どんどん、無限大回繰り返すと、ある値に近づいていく。たとえば、
1/1, 1/2, 1/3, ... --> 0
問題は、ここで、書いた「...」だ。もし、こういった省略をしなかったとしよう。どういうことになるだろうか。
「記述できない」。
地球中の紙があっても、書ききれない。宇宙中のすべての原子があっても、数えきれない。
それが無限大ということだ。
ところが、人間は、上記を、「記述できる」。
どういう意味か。
それが、数学的帰納法である。
1) P(1)
2) どんな自然数 n をとってきても、P(n) ならば、P(n+1)
が成立すれば、
任意の自然数 n に対し、P(n)
ところで、ここで「記述できる」。とは、どういうことだろう。それが、「メタの論理」だ。つまりだ。
上記の記述は、有限の文字で書けている
と言いたいのだ。上記のような「...」という「省略」じゃなくて、ちゃんと書けた、と。
つまり、ヒルベルトのアイデアとは、数学「について」の数学をやっちゃおう、ということだったのだ。
上記の、数学的帰納法の命題は、有限の文字を並べたら記述できてますよね。
こういったように、「数学」についての記述は、省略じゃなくて、普通の文章になる。ということは、その文章の構造を研究すればいいんじゃね、ということだ。
じゃあ、まず、日本語のすべての文字を、それぞれ有限個用意しよう(足りなくなったら、有限個追加するのは、OKとしよう)。あと、数学に使う可能性のある、文字や、括弧なども、用意しよう。これも、別のものが使いたくなったら、適宜追加して、OK。まあ、最初から、用意してあったと思って困りゃしないよ。
いずれにしろ、この文字の山、「有限個」だね。
じゃあ、こっから、手で、適当にひと掴みして、それらを並べてみよう。まあ、普通は、意味のある文章にはならないでしょうけど、まあ、それが一つの「文」だ。次に、もう一度それをやってみよう。そして、その二つを「並べようじゃないか」。この場合、最初の文から、次の文が「証明」された、と考えるんだ。
これを、何回も繰り返せるね。
ヒルベルトが言いたかったことって何?
つまり、これが数学だって言いたいわけだ。
これだけ。
こんだけ。
ただ、ここで、注意がいるのは、ヒルベルトが強調していたことは、上記の文字の列の列は、どこまでも「有限個」だということであった。人間は、有限な存在なんだから、人間が生み出せるものは、有限でしかありえないだろ。
ある文字の山が提供されて、それを並べて、並べる、という「規則」が決められると、何が「始まる」?
もちろん。
その「数学」がやれんじゃん。
上記の文字の山に対して、「数学」ができちゃうんですね。
でも、その文字の山って「数学」を意味してたんじゃないの?
関係ないね。
数学の山だって、数学しちゃえばいいじゃん。
それで、有名なゲーデル不完全性定理は、その一個一個の文字や、文字の並びに、一個一個、数字を割当てていって、その「数字の山」の「数論」をやったんでしたね。
ただ、ちょっと待ってほしい。
それで、数学基礎論が分かった気になってもらっては、困る。
そのゲーデルの定理は、そのゲーデルが言いたかったことを示すのには、なかなか「うまい」仕掛けだったとは思うけど、私たちが普通に考える数学は、もうちょっと、数学然としたものだったはずだ。
はて、私は何を言いたいのか。
たとえば、上記の、一つの文字の並び、から、次の、文字の並び、を「並べる」という操作を「変換」と考えるんだ。
この「変換」は、前から、後に変わったと考えるということだけど、両方とも、文字の並びってことでは、変わらないですよね。
こういう関数とか、構造を、大学の数学科の授業では、代数的な構造という。
一番分かりやすいのは、3次元球上の点を回転させる「変換」だろう(これが、バナッハ・タルスキーの定理に使われることは以前書きましたね)。
さて、一つの文字の並び、から、次の、文字の並び、を「並べる」を、
A ならば B。
と書きましょう。これを、以下のように書き直してみるわけです。
B は A より大きい。
つまり、これを順序と考えてみる、ということです。もちろん、これが普通の数学だったら、以下が成り立ちますね。
A は A より大きい。
B は A より大きく、かつ、A は B より大きい、ならば、A と B は等しい。
B は A より大きく、かつ、C は B より大きい、ならば、C は A より大きい。
こうやって、順序構造が入りました。すると、この順序から、この数学体系に、「かなり自然な」代数構造と位相構造が導入できるわけです。
さて、位相ですが、これも、大学の数学科の授業で最初に習うものですが、簡単に言うと、ある「近さ」、どれくらい近いか遠いか、を現す構造と考えてください。さっきの、どんどんゼロに近づく、というのも「どれくらいの近さか」を数学的に扱おうという道具のようなものです。
さて、ここまで来まして、自分たちが、何をやっていたのかを、振り返ってみましょう。
数学「についての」文章は、文字の羅列であって、有限個の文字が「どう並んでいるか」と説明できました。つまり、その数学が「どういう内容であろうと」、文字の羅列であることには、変わらない、ということです(これをメタの議論と言うわけです)。そういった文字が与えられたところで、
「そいつの数学」をやってみよう
ということになりました。そうすると、たいへんに結構なことに、大学の数学科の生徒なら、だれもが毎日やらされ、慣れ親しんでいる「いつもの」、代数構造と位相構造、があらわれたわけです。
やった。これなら、いつもやってる。
もう「こっちのもんだ」。

ところで、さまざまな式(推論)がさまざまな sequent calculus の論理体系において、証明できありできなかったりする。本書では、古典論理および非古典論理(本書で「非古典論理」という場合、主に直観主義論理を指す)の体系を扱う。そて、それぞれの論理体系に対する代数モデルの性質とがどのように関連しているのかを考察する。
束論を基礎とする代数モデルを使うことの利点は、それを使うことにより、各論理体系の意味論的な特徴が、代数として統一的に理解できるということにある。そして、sequent calculus の体系は、式に含まれる矢印 --> を代数における順序 ≦ とみなすことにより、代数とみなすことも可能になる。少し誇張した表現、あるいは、スローガン的な表現をすれば、「論理と代数は同型(isomorphic)だ」ともいえよう。つまり、sequent calculus の研究はそのまま代数の研究ともみなしうるし、また、束論的な代数の研究は論理体系の研究とみなすこともできる。

なんか、この命題、なっかなか証明できないんだよな。なんで、難しいんだろう? と思ったとしよう。ここで、こう考えてみるわけだ。
これの対応する、代数モデル側の命題って、結局、何を言っているんだろ?
さっきも言いましたよね。「こっちの世界なら、お手の物だ」。もしかしたら、ちょっとは、なんでこれが難しいのかの理由が分かるかもしれませんね。
さて、上記の引用で、直観主義論理とあります。これは、どういうものかといいますと、
Aが成立する
を、
Aを確認する方法がある
に変えた場合に、どんなことが言えるのかとなる。この場合の違いは一点である。
A、か、Aでない、のどちらかが成立する
これは、問題なさそうですね。
A、か、Aでない、のどちらかを確認する方法がある
こっちは、無理。こうやって考えると、後者は、かなり構成的だということが分かる。人によっては、後者は、カントの哲学(理性の越権行為の禁止)じゃないか、なんて言う人もいますね。
まあ、つまり、直観主義論理も、上記と同じことできますよ、ってことですね。同じように、代数構造が導入できる。つまり、いろんな新しい論理ってありますよね。クリプケモデルとか。そういうのも、全部、この代数モデルがどんなになるかを考えることもできるんでしょうね。
とりあえず、掲題の教科書をざっくり流し読みしてみましたけど、もちろん、そんなにたいしたことは生まれないんだと思いますね。最近の、数学基礎論が、そんなに、おもしろい話題がないのと同じように。
ただ、こういう道具、つまり、「おもちゃ」が与えられること、がね。ちょっと、嬉しいわけですね。いつもの数学じゃん、ってね。
(以下は蛇足です。
まず、大学の数学科の数学、に、あまり慣れていない人には、

微分・積分30講 (数学30講シリーズ)

微分・積分30講 (数学30講シリーズ)

のシリーズが、けっこう啓蒙的でいいと思いますね。
あと、代数や位相ということでは、ブルバキの数学言論

の、「集合」「代数」「位相」の三つは、辞書的な通覧としては、私としては、雰囲気を与えてくれると思うんですけどね(最近の人はまず読まないでしょうが)。
あと、上記では、指摘しませんでしたけど、こういうものを、「モデル理論」と言うわけでしたね。
最後に、ゲーデル不完全性定理ですけど、結局、これが成立するってなぜかと考えると、数学的帰納法が、あんまり「可述的」じゃないってことで、ということはつまり、自然数の定義が、そういうことってことなんでしょうと。実際、数学と言っておきながら、自然数を含まなかったら、それのどこが数学って感じになりますよね。たしかに、数学体系をもう少し「弱い」体系にすれば、不完全じゃなくなる。そういう体系も当然ある。それで、自然数なんだけど、
ある数があったら、「次の」数がある
ですよね。これって、一つの「生成」の話なわけですよね。どんどん、苔むすように、世界は繁茂していって、ていう。たしかに、こういうことと形式化とは、ちょっと違っている、というか、なにか形式というイメージを逸脱した感は、感じなくはないんですよね。)

論理体系と代数モデル

論理体系と代数モデル