小野善康『不況のメカニズム』

(前回は、ちょっと衒学的な数学の話題をさせてもらった。そんな数学の話をしたくなったのは、以下の部分がちょっと気になっていたことも関係しているかもしれない。)
さて、みなさんは、以下の本の「第一章 本の選び方・買い方・読み方」を読んで、どう思われただろうか。著者にとって、私がこの第一章しか読んでないことには、不満かもしれないが、私は、この部分を読んで、
「ちょっと不安になった」。

大部分のビジネスマンにとっては、数式の出てこない『マンキュー 入門経済学』で十分だが、少しくわしく経済学を勉強しようと思うと、学部レベルの教科書には数式がかなり出てきて、ここで挫折する人が多い。学生は無理して勉強するが、文科系のビジネスマンにとってはこれが高いハードルになって、独習はなかなか身にかない。
しかし経済学のロジックというのは単純なので、実際には数式で厳密に証明する必要はほとんどない。数式が頭に入っていると論理展開が追いやすいことは確かで、その理論を使って応用問題を解くには必要だが、ビジネスマンが参考として勉強するときはあまり必要ない。

実は専門家でも、論文の証明まですべて追いかけて読むことは少ない。自分が論文を書くときには徹底的に頭に入れなければならないが、自分の専門分野以外は読んでもわからないことも多い。最近の学会誌では最初に要約を載せ、第一節の「導入」で論文の内容を言葉でくわしく説明するのが普通だ。第二節以降の厳密な証明を読まなくても、だいたいのことなら第一節だけ読めばわかる。論文も最初から最後まで読む必要はなく、自分にとって必要な知識だけをつまみ食いすればいいのである。

使える経済書100冊 『資本論』から『ブラック・スワン』まで (生活人新書)

使える経済書100冊 『資本論』から『ブラック・スワン』まで (生活人新書)

もちろん、多くの人は、この記述になんの違和感も抱かないだろう。ビジネスマンはみんな忙しいんだからね。
実際、ネットを見ていると、けっこうな人がこの人の書いている文章を読んでいる。そして、おおむね、好意的だ。
「分かってくれている」。
私は別に、この人の言っていることが、正しいだとか、間違っているだとか、そういうことが言いたいわけではない。いや、それ以上にこの人そのものに、どうこうを言いたいわけでもない。
私が心配なのは、ネットでこの人を「いい」と言っている、そういった「ファン」の方々の方なのだ。
なぜそんなことを考えたのかというと、上記の引用に違和感を覚えた理由として、上記と「まったく反対」のことを言っているように思える、文章を、以前に読んでいたからである。

ただ残念なことに、この『不況のメカニズム』は、あまり世の中では理解されないだろうという予感がする。実際、ネットで書評を検索しても、冴えない感想やあさっての方向の感想が多い。なぜこんな「ダメな書評」が多いかというと、この本を理解するには、一度ケインズ理論について数理的に真剣に考えた経験がどうしても必要だからだ。喩えてみるなら、この本は、「将棋の定跡書」のようなものなのだ。
将棋の定跡書は、将棋を実際に指さない人には、たとえその人がどんなに将棋ファンであっても、理解できるわけがない。実際にその戦法で(あるいはその戦法の相手と)戦った経験があるからこそ、その細かい手順の機微や有利不利の意味が切実にわかるのであって、将棋を「ただ外野で鑑賞してあーだこーだいっている」だけの人には、全く価値のわからないものであろう。

『不況のメカニズム』もそれと同じであろうと思う。ケインズ『一般理論』を、文学書のように読んでいた人、思想啓蒙の書として読んでいた人、経済評論のためのアンチョコとして読んでいた人、ミーハー感覚で読んでいた人などには、(たとえその人たちが、いくら自分のことを経済の専門家だと自負していようが)、『不況のメカニズム』の真価を理解することはできないだろう。数理モデルとしての経済モデルを組むことで悪戦苦闘した経験がある人だけが、この本の価値がわかり、また実際に役立てることができるのだ。

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私は、専門家が、「一般人の目線に降りて」易しく噛み砕いてくれる、みたいなのを信用しない。基本的に誰も信用しない。自分が「確かめた」ものしか信用しない。それどころか、自分が確かめたものであっても、どこかを間違えていないかと、疑惑を捨てない。
しかし、学問とはそういうものでしょう。
世間一般のユーメージンと話が合うことなど、なんの興味もない。
学会の今の主流はなんだとか言って吹聴してる連中こそ「虫酸が走る」。へーってもんだ。
だからといって、自分がなんでも、きっちり、確認するための時間があるわけでもないことも自覚している。かといって、そういう確認を、一つもやらないですませられるわけねーだろと。
ようするに、時間さえ確保できれば、いつでも、お前の言っていることが正しいか、検証してやる、と常に思っているということじゃないか。
それが、シロート主義ではないのか。
掲題の本についても、そうである。実際書いてあることが、正しいのかどうなのかなどどれだけの意味があるだろう。かなり過激に聞こえるだろうか。しかし、大事なのは、自分がこの本を読んで、「徹底的に考えて、どう判断するか」ではないか。信じられるのは、自分が徹底的に考えこと「だけ」のはずだ。世間の常識だとか、流行の理論だとか、そういったものの口パクをしてみたところで、そんなもの「正しかろうと間違っていようと」どっちだろうと価値などないはずだ。
しかし、そうも言ってられない側面もある。この小野さんこそ、湯浅誠さんの後を継いで、内閣府の参与に、2月26日から任命されているからである。つまりそれは、管さんの打ち出すこれからの政策が著しく、小野理論フレーバーとなっていくことを意味しているだろう。
そして、こういった事態を当然のごとく、指摘した上で、池尾和人さんは以下で、小野理論の考察を行っているのですが、いずれにしろ、池尾さんの姿勢は、それなりに「好感が持てる」。

正直に言って不勉強で小野善康さんの著作はあまり読んでいないのだけれども、一見すると主流派経済学とは異なる主張をしているようにみえる(本人も新古典派経済学を批判している)けれども、小野さんの主張は、本当のところは標準的な経済学の論理にかなり沿ったものだという印象をもっている。
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いずれにしろ、池尾さんは、自分が小野理論について、不勉強であることをまず、前提にされている。これをただの前フリの謙遜と思うかどうかで、後半の議論はずいぶんと印象が違うんだろう。
私たちが求めることは、神学論争ではない。科学なのだろう。反論されるのなら、証明されればいい。そうすれば、ジャッジが現れる。しかし、そうはいっても、なかなかベスト・アンド・ブライテストといかないのが、政治なんでしょう。
不況という概念が、新古典派経済学に「存在」しないことは、掲題の本で、何度も強調される。だから、そもそも最初から、ケインズ新古典派経済学から見れば「背理」でしかないわけだ。語る価値がないのだ。
じゃあ、なぜケインズは不況を語るのか。それは彼の以下のような「謬見」からと言っていいのかもしれない。

新古典派の教義は素人には難しく、それゆえ専門家にしかわからない素晴らしいものであるかのような印象を与えた。それを現実に適用すると人々に我慢を強いて辛いものになったが、逆にそれだからこそ、ありがたいもののように思わせた。その論理構成は完璧で美しく見えた。また、経済の進歩のためには多くの社会的不正義や冷酷さは避けられないという新古典派の説明は、権力者に気に入られた。さらに、それは政治的に力のある資本家たちの自由な活動を正当化するものでもあるため、彼らの支持を集めた(pp.32-33)。

これは1930年代のイギリスの状況を記述したものであるが、労働者の解雇や企業倒産という悲劇が「改革の痛み」として、あたかも不可避で望ましいことのように喧伝され、その実、改革の内容をよく見れば「勝ち組」にばかり都合がよく、多くの経済団体や高所得者から熱狂的な支持を受けた小泉政権下の構造改革を驚くほどうまく言い当てている。

不況で仕事がないために、貯金がどんどんなくなっていっている人が、この国には多くいるのだろう。しかし、そういう事態をどう考えるかは、その人の気の持ちようじゃないか、ということを言う人もいるようだ。実際、お金がなくなれば、生活保護を受ければ、最低限のお金はもらえると言っている。その間、自分の生活を充実させる「ほかのこと」をしていればいいだろ、と。
ところが、人々はそのように考えないようだ。まず、就職活動をした時点で多くの時間をさかれることになる。人間は後で無駄だったと後悔することを今したくないものだ。また、生活保護を申請すれば、徹底的に、その人の「身辺調査」をされるだろう。あらゆるプライバシーを洗いざらい吐かされて、さらけ出されて、「お前などにお金を出す価値なし」か。仕事に出てもそうだろう。面接を受けても、お前はこういう会社をリストラされたキャリアがある。「そんな人間を信用できるか? またやらかすんじゃねーの?」。
なぜ、不況になるのだろう。たとえば、

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においては、むしろ、悪いのは、「お金があるからだ」と言っている。(これも一種の、流動性の罠なのだろうが)お金は人々に、「購買力の保蔵」「決断の留保」といった「夢」を見せてくれる。今買わなくても、明日買えばいいじゃん。
でも今買ってもらえれば、今、腹が減って涙目のチビたちに飯を食べさせてやれる人たちがいるんですよね。この今を乗り越えれば、「なんとか乗り越えられる」と思っている人たちが。

さらにケインズは、需要不足のもたらす要因の一つとして、金融準備金の弊害を強調している。家主が住宅修繕のための金融準備金をためれば、その分は物やサービスへの需要としてまったく現れない。企業が借金を返済し、金融準備金を積み立てるのも同様である。こうした「金融堅実主義」が需要を抑えて不況をもたらす。
この主張は、小泉政権下での不良債権処理や金融健全化の動きと、それにともなって発生した貸し渋りの影響を考えても、大いに説得力を持つ。実際、これらを導入してから景気は大きく後退し、失業率が戦後最悪になるとともに、株価も大幅に下落して80年代末につけた最高額の20%近くにまでなったのである。

しかし、このお金、そんなに信用できますかね。ある日、突然、だれも見向きもしてくれなくなるんじゃないか、とどうして考えないのだろうか。だって、「ただの紙」ですよ。トイレットペーパーとしても、使いづらいですよね。なにか、こういった便利な使い方があって、だれもがもし手元にあったら、重宝するってわけでもない。もっと、「自分の生活を楽にしてくれるものが、あった方が、生活を楽しくしてくれるんじゃないですかね」(なんか、前後の字面が似てるな)。
みんながお金を貯めれば貯めるほど、経済規模が小さくなっていく。少ししか生産する必要がなくなる。働く人も少なくてすむ。
金融という「貯金」をすればするほど。
しかし、こういった側面もあるだろう。現代という、リキッド・モダン・ソサエティにおいて、あらゆるものの価値が、明日にはどうなっているか分からない。お金だけじゃないわけだ。iPhone がでてきて、Xperia がでてきて、iPad がでてきて、たしかに今、こういったものが便利そうだ。みんなが、これら用のアプリを作っているし。しかし、明日には、また別の革命的ツールが現れて、「みんながそっちにアプリを作り始めるかもしれない」。
企業も、一体、今、何をすれば、将来絶対安心なのか。これを作れば、確実にどれくらい儲かるかの予想が立たない。一瞬先にその技術が古くなるかもしれない。この技術がどれくらい、未来まで通用するか分からない。どんどん、なにもかもがドロドロになってきて、恐くて、明日に向けて、なにもできないのだ。
そもそも、今の若者には、物欲がない、という主張もある。以下の若者たちの鼎談は、なかなかおもしろかった。

友だちという「どうでもいい」関係が小さい頃から、ずっと続いて、大人になってもお互いを監視し、そういった人間関係が、どんどん増殖していく。それが、年に一回会うかどうかくらいのものならいいが、今のネット社会が起こしているのは、コミュニケーションのインフレーションなのだろう。どうでもいいことを、なんでリアルタイム? しかし、そういった人間関係の基本は「無視しない」ことである。無視はKYであり、その人間関係と疎遠になる意志表示となる。人間関係を悪くしたいと思う人はいないし、それなりに今後の仕事にさしさわりがあるかもしれない。
そういうどうでもいい相手から、侮辱されたとかどうとかで、ディプレッシブになって、とそれが嫌なんで、いつまでも程のいい、あいさつ的会話が、延々と続く。KY連中をおちょくり、ばかにし、侮辱し、そうすることで、彼らは「正気でいられる」。もり上がり、さらに彼らの「普通さ」をお互い確認し、連帯を強める。
そんな感じで、延々と寝る直前まで、「会話」。それじゃあ、モノなんて買ってどうするのって感じなのだろう。
とにかく、みんな「忙しい」。
おしゃべりが。
モノなんて買っている暇ないだろ?
物を買うということは、その物を探検することだとすると、その探検記なら、ネット中にゴロゴロ書いてある。なんでそんなものを、わざわざ追体験しなきゃいけないの?
結局のところ、これから、どうなっていくのだろうか。だれも働かない時代が来るのだろうか。みんな、ベーシック・インカムで質素な生活をして、ひたすら、ネットで、おしゃべり。よどみなく。いや、逆だ。どうなっていくかなんて、分かるわけがない。あるのは常に、お前がどうなるかだけだ。お前が上記に書いたような、一個一個、何が正しいのかを、自分で検証して、自分で理解して、そして、
自分でこの世界に「働きかける」。
そういう生き方がよかったかどうかなんて、どうでもいいことだろう。今までの人類も、そうやって生きてきたんでしょうしね。
さて、またいつものように強引に話題を変える(いつものアニメおち)。
アニメ「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の最も愛すべき登場人物は誰だろうか(それにしても、このアニメ売れてないでしょうね。ネタ的に分かりづらいし)。絶対に
クレハ
じゃないですかね。第9話で彼女は、大雨で水嵩の危険な状態になった、河辺で、行方不明で村中の人たちが捜索していた、修道院ユミナのもとで暮している、戦争孤児のセイヤ、6歳を見つける。
この子は、ユミナが大好きなおナスを、その苗を、ミシオたちと一緒におこづかいを出しあって買い、育てようとその河辺でユミナにばれないように隠して育てていたので、その畑を守ろうとしていたわけだ。
クレハは、この子に皆に迷惑をかけていることを諭すが、セイヤは、そんな自分を探してくれなんて誰にも頼んでいないと言う。クレハはこの嵐の中、少年を抱きしめて彼の耳元で囁く。「親がいない子は普通の子よりしっかりしていないとだめなの。そうじゃないとやっぱりと言われるの」。セイヤは少し考えてから、頷く。
私たちは簡単に「人」と言う。しかしそれは、一つの「抽象」である。人と言ってみても、人はそれぞれ人それぞれのオートノミーつまり自分の「作法」で生きている。クレハの軍人だった父親も彼女が産まれる前に亡くなっていて、あの嵐のみんなが少年を探している中だからこそ、たまたまそういうことを言いたい気分になって、そう彼の耳元で囁いたわけだ。なにが正しいかとか、どう生きるべきかとか、なにが幸せかとかそういったことが重要なのではない。たんに人それぞれでそれぞれの生き方をしていて、各自が自分になにかを「課して」生きている。
この少年も、どうすべきだったかなんてことにこだわっているわけではない。クレハがそうやって生きていることを、認めたということである。
とりあえず、クラウスさんの機転で、まだ小さい小粒のおナスでも、十分食べられることを聞き、その場で、もいで、心配して探してくれている村の人たちの所に戻るわけですね。