日本の庶民文化において、祈るという行為が、日常的に行われていることは、私のような人間には、驚きをもって、実感させられる。それを一番感じたのは、法隆寺に行ったときであった。百済観音像は、ある小さな最近できたばかりの博物館のようなところに、ガラスケースに入っていた。前から興味があったので、そこに留まり、少しの間眺めていたのだが、私を感動させたのはむしろ、ここを訪れる日本の庶民が、百済観音像の前で、手を合わせ、お祈りを始めることであった。見ると、年寄だけでなく、30代、40代くらいの女性も行っている。比較的、この辺りの出身の方なのだろうか。
こういう光景は、さまざまなところで出喰わす。神社やお寺の前を通ると、日常的な行為のように、軽く手を合わせてお祈りをしてからその場を離れる人をよく見かける。
これだけ、近代科学が完成した現代において、この精神性というのはなんなのだろうかと思うわけである。
もちろん私は、彼らの前近代的、土俗的、土民的慣習を、侮蔑し、啓蒙してやろうなどという考えで、こんなことを書いているわけではない。むしろ、まったくの「逆」である。その「現象学的」意味を考え、真摯に学びたいわけである。
BUMP の歌には、ある「超越性」がある。それが、最も典型的にあらわれているのは、「ランプ」であろう。
小さく震える手にはマッチ 今にもランプに火を灯す
BUMP OF CHICKEN「ランプ」
主人公はある、絶望、日々の挫折に遭遇したとき、「ある声を聞く」。そいつは自分を「情熱のランプ」だと言う。そいつは心の底、つまり、見えないくらいに深く隠れた奥底から、お前に語りかけていたという。俺はお前が気付いてくれるのをずっとずっと待っていた。ずっとずっと呼びかけ続けていた。そして、そいつは、さらに奇妙なことを言う。
自分はお前じゃないか。
こいつはいったい、誰なのだろう?
闇にこごえるこの身を救う 最後の術は この身の中に
ようやく聞こえた やっと気付いた 泪を乾かすチカラ
僕の中の情熱のランプ 今にもマッチは芯に触れる
BUMP OF CHICKEN「ランプ」
実は、BUMP の歌において、このランプは、何度も何度も登場する。もちろん、そこでは自らを「情熱のランプ」と名乗ることはないが、何度も何度もこの構造、この形式が反復されていると言っていい。
一体、「情熱のランプ」とは誰なのだろうか? それを考える前に、いろいろと寄り道をしていこうではないか。
例えば、KOKIAの以下のヒット曲の以下のフレーズは、最初に聞いたとき奇妙に思えた。
新しい力をください わき上がる笑顔 あなたにあげたいの
KOKIA「The Power of Smile」
私が奇妙に思えたのは、一体、これは誰に向けて言っているんだろう? ということであった。もちろん、この文脈から考えれば、彼女の彼なのだろう。しかし、彼に「ください」と呼びかけるというのは、あまりしっくりこない。まあ、いずれにしろ、それを受け入れたとして、じゃあ、この「新しい」とは何なんなのだろう? なぜ新しいなどと言うのか。
私はこのフレーズをあえて、「新しい翼(つばさ)」と読み変える。
アニメ「とある科学の超電磁砲」最終回において、佐天涙子は、いつもは助けてもらってばかりの友達3人が敵に痛めつけられている姿を物陰からただ、眺めていることしかできなかった。ただ悔しい思いでいると、彼らを救う唯一の手段があることを彼らの会話から示唆され、気付く。自分たちがさっきまでいた管理室、この建物の心臓部の敵の武器を破壊すればいいことに。しかし、それは奇妙なことであった。彼女は、たしかにいつもみんなといた。しかしそれは、「遊び」としてであった。いつも、パブリックに戦っていたのは、彼らであって、彼女ではなかった。彼女は、常に助けられる立場であった。その彼女が、今、この場から、一歩を踏み出して、さっきまでみんなといた、管理室に向かうには、今までの彼女の村作法、遊びの欲望、そういったものとは、まったく別の、「新しい力」が必要になる。
彼女は向かう。その約束の地へ。そう踏み出すには、「新しい翼」が必要なのだ。その新しい翼で、一歩を踏み出すんだ。
さて、私が、BUMP の原点と考える以下の曲においては、野球こそがそのアナロジーとなっている。
ボクになにがのこるんだろう?
臆病なボクにナニガデキルンダロウ?この手よ今は震えないで この足よちゃんと
ボクをささえて
みんなには、へらず口で、ニヤッと笑ってみせる。「まかせとけよ」。しかし、思っていることは逆である。もし、ここでヒットが打てなかったら...。そのとき、そんなボクはなんなんだろう。そんなボクになにがのこっているんだろう...。
野球というスポーツは、チームプレーということを考えるとき、まず、最初に日本人に浸透したスポーツであったわけである。
野球というスポーツは非常に、おもしろい特徴がある。それは、「エリートチーム」が一番強いとは必ずしも言えない、というところにある。どんなに野球スパルタで小さい頃から、調教されてきた猛者を何十人集めたチームであっても、ごろつきの寄せ集めチームが勝つことがありうる。
一人、優秀なピッチャーが、彼が前に飛ばさせなければいいのである。しかし、ここに背理がある。どんなに優秀なピッチャーが一人いても、野球には勝てない。つまり、「9人」が揃うことがまず前提だからである。
このことが、野球を究極的におもしろくする。この部分を理解しない限り、野球の真のおもしろさに気付くことはない。アニメ「Angel Beats!」第4話において、日向(ひなた)は、学校主催の野球の球技大会に飛び入りゲリラ参戦するために、選手集めを、始める。彼がいつも友達だと思っていた、仲間一人一人に、声をかける。「野球やらないか」。
この光景は、私たちに強烈なデジャブを起こさせる。「涼宮ハルヒの憂鬱」にも、この選手集めの光景が再現されていたが、この光景は、もっとも根源的な姿である。つまり、私たちが、何度も読み返した、三国志の光景そのものなのである。劉備玄徳は、二人の勇猛な猛者と、真の兄弟の契り、桃園の誓いを結ぶ。彼らは、死の最後まで、その絆の捨てることはない。劉備は天下をとるためにはまだ、自分たちにはなにかが足りないことを自覚している。そして、諸葛孔明に会う。彼は三顧の礼を尽し、彼に自分たちの力になってもらうよう頼む。孔明もその契りを無二のものとして、彼も自らの死を迎える最後まで、劉備の思いを叶えるためだけに、生を全うするわけである。
野球がおもしろいのは、むしろ、その「最初の」選手集めの段階なのだ。実は、そこで全ては終わっている、と言ってもいい。なぜ、みんなが彼の元に集まってくれたのか。それを見るだけで、もう全てが分かるのである。なぜ甲子園がこれほどの、熱狂をもって、日本で迎えられてきたのか。観客が見ているものが「違うのである」。
もちろん、そんな寄せ集め集団が本当に、エリートチームに勝てるのだろうか。ここでも、野球はおもしろい構造になっている。攻撃、つまり、バッティングは完全な平等原則が支配する。つまり、どんなに優秀な選手もだめな奴も、平等に一打席が回ってくる。ところが、守備は、完全な「専門分業化」が実現している。草野球においては、あまり右側に強い打球は飛ばない。普通、みんな右利きで、右打ちの技術もないから、引っぱるだけなんで、レフト方面にしか、飛ばないからだ。しかし、そのほとんど飛ばないライト方面に打球が飛んだときこそ、ドラマが生まれる。運動オンチで、みんなの足をひっぱっていたあいつが、その打球に飛びつく。しかし、取れない。そんなの分かってる。でも納得するんですね。いつも臆病だったあいつが「みんなのために」勇気をだして、向かって行ってくれた姿にですね。もう、試合に勝つとか、どっちが強かったかとか、そういったことはどうだってよくなるわけです。彼らが見たかったのは、これなんですから。
(日向(ひなた)は最終回、相手が打ったフライが、夏の日差しの陰となって、自分に向かってくる光景から、強烈なデジャブに襲われる。あの日、俺はこのボールが取れなくて、チームが甲子園を逃して、自分は自分の人生をあきらめたんだったな...。
ところが、彼は「成仏」しなかった。岩沢(いわさわ)さんのように。いつもプロレス技でいためつけられて、いつか仕返しをするチャンスを伺っていた、ユイが、この「大事な場面で」隙ありと、邪魔したからである。これで、ボールを落とし、点々としている間に、相手に点が入り、日向(ひなた)の弱小チームは負ける...。
これは喜劇であるが、ある意味で、人生の真実を描けているのだろう。こんなものなのである。自分にとって、深刻に考えることは、案外、他人にとって、どうでもいいことである。甲子園に行くことがなんだというんだ。あの一瞬の価値に比べたら、どうでもいいことではないか。)
しかし、BUMP においては、もう少し違う気付きの構造になっている。たとえば、最も重要な曲「続・くだらない唄」において、主人公は、なぜ昔来たこの、桜の木の下で、自殺のやるそぶり、の悪ふざけをしたとき、「どっと涙がこぼれたのか」。
そこには、ある、断絶があるんですね。自分があの日から、つっ走ってきたその日々の間に、「自分は変わった」。
それは、ある「忘却」という形になっていることが、何度も強調される。自分がその間に、さまざまなものを捨ててしまった。もう、あの頃の自分ではない。でも、まったく違うわけでもない。だから、何度も自分に問いかけることになるわけですね。
他方、KOKIA の最も重要な曲といえば、なんだろう。私は、一曲あげるとするなら、以下であろう。
あなたまるで木洩れ日のように
私に生きる希望をくれた 幸せが笑ったあなたを愛して生まれた歌を歌おう 私の愛の証に
これは、あるメロディが生まれた歌である。なぜ、そのメロディが生まれたのか。それは彼女が彼を「愛した」からである。ところが、それは、彼女が別れを選ぶことと同一のこととして歌われる。
絡みあった心の糸を
解きほぐす前に別れた 辛くても望んだ「この愛を貫こう」 独り言のように
永久(とわ)に誓いをたてるその瞳に見えない大切なものを見せよう 溢れる愛の泉に
またである。彼女はその「大切」なものを誰に見せようとしているのだろう? 一体、誰に向って語りかけているのだ? この不思議な愛のメロディには、また、上記にある BUMP とは違ったある「超越」を第三項として絶えず示唆し続ける。
実は、BUMP にも、非常に重要な、ある「メロディ」を歌った歌がある。
響く鐘の音の様なあのメロディーはなんだっけ
生きてきた分だけ増えた世界が作る迷路
その中で僕らは目印を深く突き刺した風に揺れる旗の様なあのメロディー思い出して
遠い約束の歌深く刺した旗
全てが形を変えて消えても
その耳を澄ましておくれ
涙目を凝らしておくれ
響く鐘の音の様な
ホラ
風に揺れる旗の様なBUMP OF CHICKEN「メロディーフラッグ」
このメロディは、むしろ「忘却」の彼方のことを言っている。自分が、あの桜の木の下に返ってくるまでの、なにもかもを捨てて、「大人になった」自分が、自分からひきちぎって、自分からもぎ放した、なにか。しかし、そのメロディは、何度も何度も、自分に返ってくる。あの日、決して忘れることのないように誓い、突き刺したフラッグ。この旗がたなびきを止めることはなかったのだ。なにもかもを捨てた彼の元にそのメロディーフラッグが、忘却から思い出すことを求め、流れてくる。そして、彼もその聞き覚えのある、なつかしいメロディーに耳をすますわけですね。
BUMP における、この「超越性」が、自分の忘却と絶えず切り離せない構造になっている一方で、KOKIA における「超越性」がもっとも行くところまで、つき進んだものこそ、掲題の曲だろう。
(歌詞を削除しました。。2015/01/07)
KOKIA「私の太陽」
ここで、やっと神様という言葉があらわれる。しかし、その問いは奇妙である。彼女にとっての祈りは、祈り「たい」こと、なんですね。つまり、どこまでも「私の太陽」のことなんですね。「私の太陽」がまた昇るのか...。
祈りを忘れ、愛を忘れた、BUMP のセカイにおいては、むしろ、その忘却の彼方こそが、「超越性」つまり、メロディーフラッグであり、桜の木の下であり、情熱のランプ、となり絶えずそこが他者性として自分をエンゲージする(自分がエンゲージされる)形になっている。他方の、KOKIA のセカイにおいて、むしろその「超越性」は別れと同一的に現れる。つらくても、自分から望むその別れに対して、その先にあるはずの忘却の日々を彼女が「拒否」するとき、その絶望、つまりフラッグは、祈りや愛をその「超越性」と同一視するわけです。
つまり、この二者は、ある種の、ヤヌスの双鏡のような、対照的な関係になっていると言えるのではないでしょうか。
ただ、私は、こういった考察だけでは満足しない。それは、この「超越性」の問題を考える上で、非常に重要と思える小説を以前に読んでいるからである。
あたしは...。
男の子になりたい、と願い始めていた。
解がうらやましかった。解は男の子だった。男の子は、強い。そのはずだ。強いから、いざとなったらおかあさんを守れる。解は大人になったら、おかあさんの騎士になれるのだ。
だけどあたしは......。
このままおおきくなっても......。
だめだ......。
あたしはできることなら凛々しい男の子に生まれ変わって、か弱いママを守ってあげたかった!
自分に満足できない、自分を恥じる、誇れない、自信を持って人に差しだせない、そういう気持ちが混ざりあって涙になって一粒、乾いた道路に落ちた。
小走りで家に帰りながら、心の中でこっそり男の子に変身して、中世の庭で、決闘をした。あたしの剣が唸って、屈強な大人の男を倒していく。ママは荒縄で柱にくくりつけられていて、蒼白な顔でもってこっちを凝視している。破れかけたドレスが風になびく。あたしは騎士。あたしは強い。けっして負けない。つぎつぎに男たちを倒して、ママをくくった荒縄を、剣を一振りして落とす。白馬にまたがるとママを横抱きにし、悪漢の蔓延る城からすたこらと逃げていく。
「勇敢な方! お名前は?」
ママは愛と感謝をこめて、あたしに聞く。
「コマコと申します!」
「コマ、コ......」
ママが繰りかえす。なんとうつくしいその横顔! まこと姫君の君の名にふさわしい! 諸国を旅してもこんなにも素晴らしい姫はいなかった。あぁ、野に咲く一輪の花の如く、可憐にして汚れなき乙女よ。白馬は山道を蹴り、どこまでも進んでいく......。
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マコという女は、私たちにはよくいる、だらしのない、ちょっと困った女性にしか思えない。ところが、マコの娘である、コマコにとってはどうだろうか。どう見えているだろうか。言うまでもない。
神
そのものである(この作品を理解するとは、ただただ、ひたすら、コマコの視点になって読めるかにかかっているのだろう)。コマコはあの図書館の帰り道、マコを救うために「勇者になったのだ」。あの日から、彼女の生きる意味とは、ただ、彼女の母を救うことだけになった。
しかし、驚くべきことに、これは、作品の「半分」にすぎない。彼女は、母親の自殺を、「自分も一緒に連れて行ってもらえなかった」と解釈する(ここの部分は、「私の男」の腐野花と同型と言っていいだろう)。彼女は、母親の死と「同時に」父親との再会を果たし、父親の戸籍として、その後、生きていくことになる。
それにしても、この後半はなんなのだろうか。
ここには非常に不思議なセカイが描かれる。コマコは確かに、その高校生くらいの頃の母親の死の後も生きる。ところが、そのセカイは異常である。彼女はいつまでも、どこまでも、あの日、母親を「救う」ことだけを自分の意味と誓った「勇者」のままなのだ。ところが、「だれもその彼女を理解することはない」。
もちろん、周りの人々は、彼女の境遇を履歴としては知っている。ところが、彼らは、彼女にとってそれがどういう意味なのかを「まったく理解できない」。彼女がここまで深刻であることが、まったく想像を超えた世界になっていて、ただただ「あんまり深刻にならないで」といったような、まったく、彼女を理解していない、楽天的な空理空論をしゃべり始める。
彼女も、30歳近くになって、自分を好いてくれる男性も現れる。彼はどこまでも優しい。自分のことをどこまでも理解してくれる。しかし、そんな彼も、変わらない。彼女にとっての母親がどんな存在だったのかを想像することを期待することは、絶望的であることが、何度も何度も描かれる。
そして、いつか、彼女も、自分の子供をお腹にやどすことになっての、ある日。彼女は「母親に出会う」。いや、
「自分に」。
それこそ、マコとコマコの「最初」であることに彼女が気付いたとき、彼女はもはや、自分が一歩も足を前に進めることができなくなっていることに気付く。膝をつき、その場に崩れ、泣き続けることしかできなくなっていることに。
作者は、女性の生。母親と自分、そして、自分と自分の子供。その双対性をこの作品の最後に、鋭く描くわけですね。
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