野口悠紀雄『世界経済が回復するなか、なぜ日本だけが取り残されるのか』

ハイエクの自生的秩序というアイデアがある。ようするに、経済を自由にやらせれば、それなりの秩序が生まれて、それなりにバランスする、ということらしい。ここで大事なことは、いずれにしろ、こういう方法「だけ」が長期的にみて効率的なのだ、という考えである。
ところが、以前書いたように、ここには一つの背理がある。自由であったはずなのに、国家がどこまでも肥大化していく。つまり、「規制」である。なるほど確かに、自由に選択してもらう、まではいい。ところが、当然、ずるをする人たちが現れる。ここで、二つに分かれる。やっぱり、ずるはいけないから、このずるだけは、例外的に、とりしまらなければいけない。ではどうするか。なにが「正しい」かのルールを山のように作ることになる。そしてそのルールを破るものを、巨大な行政機構で監視・処罰していく、という流れになる。
少しも小さい政府にならない。むしろ、どこまでも巨大になる。しかし、ここまでの議論で、だれもが思うことは一つだろう。これの、どこが、自生的なのだ?
そういったところから、自由主義とは、本当に「人々が自由になるための条件を維持すること」の実現を目指してるのか、の疑問が提示され続ける。実際に、ハイエクや自生的秩序を主張する人々は、等しなみに、保守主義的である。
今、ある人が自由にふるまうことがその後において、自由な社会の条件が維持されていくことと、排他的でありえるとは、十分に考えられるだろう。ヒットラーは民主的な手続きで政権を奪取した後、民主的プロセスを否定する(無記名投票から、拍手による、満場一致の決定プロセスに変えるわけですね)。
例えば、上記の自生的秩序プログラムが、走り出してから、それなりの期間が経過するまでの光景を通時的に見てみるといい。たしかに、初期の頃の、段階では、人々はまさに「自由」だ。自由な発想で、会社を起業して、うまくいけば、どんどん成長する。ところが、ある期間を過ぎると、システムは次第に、「金属疲労を起こす」。
まず、社会は、そうやって、企業が苛烈な競争を行ったがゆえの、さまざまな問題に気付く。こういうずるを行う奴が一方にいて、他方は、それによって、ずいぶん損害を受けている。では、どうするか。
規制を「その時点で」開始する。
しかし、たったこれだけのことでも、事態は重大です。だって、「前提条件が変わってるんですよ」。
もしこの、一見人権尊重的な変更によって、起業や新規参入が難しくなったとしたら、どうだろう。ただ、その内容はどう考えても、「最初から適用されているべき規制であり、やらないという選択肢はありえないように思える」。ということは、どういうことか。この規制が「なかった」ことによって、さまざまな市場の独占に成功した、既存企業は「勝ち逃げ」を実現したといえないだろうか。
一度、そういった社会的ステータスが築かれたという存在は、やはりその影響力は絶大である。こういった「大企業」のリーダーたちが、集まり、政治を「カルテル」的に、コントロールしていくという形こそ、近代政治学の基本形なのだろう。
今の日本の民主党は、完全に「大企業の」労働組合に、支配されている(小さな子供は知らないかもしれないが、労働組合など、大企業にしかないし、そこで一緒に働いている、契約社員の人たちとは、なんの関係もない、自分たちの権利を守ることにしか関心のない連中である)。ということはどういうことか。民主党政権が続く限り、より強力な、「新規企業の起業や新規参入を徹底的に邪魔する」政策を民主党は実行してくるであろう。
もちろん、こういったことを、露骨にやることはないだろう。彼らだって、パブリックな発言には一定の見識を求められる。隠微に、そういった政策を一見「無意識に」遅らせる、といったような形で進むのだろう。
いずれにしろ、国家の中枢は、未来永劫、「大企業のリーダー」にクーデターされっぱなし、というふうに、考えると、実体と合っているのかもしれない(しかし、こんなことは今さら何を言っている、というものだろう。マルクスの資本主義批判から、認識はなに一つ変わっていない。変わっていないのに、なにか新しい時代が始まっているという、口先の発言ばかりが先走っている、ということなのでしょう)。
おそらく、自由主義的な論陣をはっている人はこの状況に竿刺したいのだろう。むしろ、国家がやるべきことは、できるだけ、「初期条件に近く」、つまり、国家が最初にできた頃、最初の企業が生まれた頃のような条件で、人々が起業できる条件を揃えることではないか、ということなのではないか。
どう考えても、時間がたてばたつほど、昔からある企業の方が、政治に影響を与えやすいし、カルテル的な新規参入を村八分で排除する力も起きやすい。だとするなら、政府がやることは、時間がたてばたつほど、どうやったら、人々が起業しやすくするか、新規参入をしやすくするか、を整備するとなるのだろう。
つまり、露骨に、「新規企業優遇」をやらないと、起業は起きないわけだ。
しかしそれは、既存の企業にとって、おもしろくない。自分たちが新規勢力に駆逐されていくのを指を加えて待っているようなものだ。
ようするに何が言いたいか。どっちにしろ、一つの国家の国家内部の論理による自己展開を「どんなに続けても」、保守的に流れてしまう、ということなのではないか。ということは、どういうことか。既存企業は確かに、自国内のパワーバランスで、新規企業の芽をかたっぱしから、潰し続けることで、自企業の存命に成功するかもしれないが、そんなことに力を使えば使うほど、「海外企業との競争に駆逐されていく」。実体として、問題は、その企業の提供するサービスが、他者に比べて優秀かどうか、のはずなのに、相手企業の企業活動の邪魔をすれば、自分のところが勝てるということでは、自分のところの品質が上がる、ということではないのだから、長期的には、競争力のない企業に向かっていることを意味しているだろう。
もともと、企業とは、一つのアイデアから始まっているはずである。自分たちの考えた、ビジネスモデルが成功したから、こうやって、上場できて、大企業になって、今があるのだろう。ところが、問題は、そのアイデアが長期的に、競争力のある企業である条件を保証しない、ことである。多くの競争相手は、そのモデルを真似てくることによって、そこにおける、違いがなくなっていく。だとするなら、定期的なモデルチェンジに成功しない限り、長期的に衰退に向うと言えないだろうか。しかし、そのようなモデルチェンジが何度も成功するだろうか。まず、モデルの選択ということでは、新規企業と同じ出発点から始めることと違いがないだろう。しかし、もちろんだが、既存企業には、さまざまな過去の遺産がある。こういったものをうまく活用できるなら、有利な条件かもしれないが、逆にそういったものが重しになるかもしれない。言いたいことは、そういったものがなければ実現できないモデルチェンジなら、それはモデルチェンジのうちには入らないのかもしれない、ということである。
アメリカの企業風土をみても、大事なことは、常に、競争力の強い、企業が、生まれては、残る。そういった、企業そのものの、「実際の強さ」(=その企業が提供するサービスの優秀さ)だけを尺度にして、徹底して「新陳代謝を活発にさせる」ということに尽きるのではないだろうか。
ところが、こういったシステムを構築する、ということは、どういうことか。問題は、人々がそういったシステムを望むかどうかの一点にかかっている、ということなのでしょう。
多くの日本人は、今自分が日本人であるという理由だけで、受けられる、さまざまな特権を利用して生きています。一番の典型は「コネ」でしょう。さまざまなコネによって、企業に入社し、その特権を享受している、日本人にとって、上記のようなシステムによって、真っ先に排除されるのは、自分たちでしょう。だとするなら、予想されることは、徹底してこういったシステムの導入を邪魔し続けることをオルグするだろう、ということです。
結局、だとするなら、どういった人たちが上記のようなシステムに、適応的に生きることになるか。最初から、上記のような大企業から排除されているような人たち、ということになるでしょう。
おもしろいですね。よく考えてみましょう。そういった人って、どういう人のこと? まず、どういった人が、そういった大企業「の一部」になることに、抵抗を覚えるでしょうか。それは唯一点じゃないでしょうか。
その企業の企業文化に馴染めない人。
企業とはなんでしょうか。企業とは、ようするに、その企業を起業した人「そのもの」のようなところがあります。多くの理論がそうですが、経済理論も「勝者の理論」です。あるサバイバルした企業の背後には、無数の敗者の屍があります。つまり、サバイバルして今に至る企業とは「成功した範例」だということです。ところが、他方において、その企業には「今の実力」があります。いろいろな経緯があったけど、今、これだけのマンパワーをもっている。これだけを考えるなら、これからの戦略にささまざまなオプションがあるように思えます。ところが、多くの場合、その企業の戦略は、抑制的傾向をみせます。なぜなら、「成功した範例」の延長で、どうしても考えざるをえないからです。なぜなら、それが一番、正当性(=正統性)の獲得に成功しやすいから(つまり、みんなを納得させやすいから)、合理的なんですね。そういう意味でも、企業も国家と同様、どうしても保守的になる傾向を拭えないようです。
ある企業は、その創業者のポリシーを反映した、ある傾向を示しているとする。すると、その企業のメンバーに採用されようとする、新入社員にとっての最初の踏み絵は、その企業文化を血肉とするか、になるだろう。ところが、この活動に最初から非適応的な人々がいる。つまり、外国人である。彼らは、最初から、文化を共有していない。
この問題に、非常に似た、同型の問題を、私は以前からこのブログで考察してきたように思う。つまり、これは、日本国家における、天皇制と非常に似ている、ということである。企業にとって、創業者や、経営者は、その企業という村国家の天皇のような存在に、どうしても祭り上げられてしまう面がある。しかし、言うまでもないことだが、ある種の偶像崇拝は、思考の抑圧として働く。
そうやって考えたとき、はたして、企業というパブリックスペースとは、どこまで、自由な思考空間なのだろうか、という疑問がわいてくる。私たちは、ただでさえ、この複雑な現代社会においての「最適解」を探さなければいけないのに、上記の意味で、企業の中では、さまざまな偶像崇拝に邪魔され、自由な思考の翼を広げることができない。かといって、大学も、政府の中も、あまり開放的ではないようだ。
かといっても、上記に書いた意味で、どのみち、国家は最終的には「自分の国家の国際競争力を強くする」ことを目指さざるをえないはずではないか。つまり、ここに背理がある。そういったポジションを競って、目指してくれるのは誰か。どうしても、そういった中心を担ってくれる可能性のある人たちとは、外国人を中心とした人たちになってしまう、ということなのである。
彼らにとって、この地で成功するには、自分の知恵をフル活用して、自力で活路を見出すしかない。コネなどこの国にないからである。しかし、そうやって起業をしてくれる企業の中にしか、国際競争力を競える、アイデアは生まれにくい。しかし、そうやって生まれ続ける新規企業のほとんどはゴミのように淘汰され消えていく。たまたま、ゴキブリのようにタフなビジネスモデルを採用し、成長できたスズメの泪の数の企業「だけ」が、この国の将来を担ってくれる可能性を与える、企業として、国際競争力を獲得して、この国に税金を収めてくれることになる、というわけである。
そう考えたとき、この起業論において、そもそも何が最も重要なのだろう。言うまでもない、アイデアなのである。そのアイデアが一等優秀じゃないと、どうしようもないというわけである。どっちにしろ、そうでなければ、ダメダメ。
でも、アイデアと一言で言われてもね。
イデアとは、さまざまな作法の「差異」と言ってもいいかもしれない。すると、日本においては、外国人の違和感こそ、新規ビジネスの原点となる可能性がある。日本のこういった慣習は、自分の国では自明であった、こんな変更を加えることで、ずっと生きやすくなるかもしれない。もちろん、その多くは不発に終わるだろうが、ビジネスとは、勝者の論理ですから、一個、なんでも成功させられるかが重要なんですね。
ということは、どういうことか。最初から、国家の活力は、外国人にある、ということである。ところが、こういった認識は、民主主義と相性が悪い。民主主義とは、ようするに、自国民中心主義でしょう。自国民の権利のパイをどのように分けるかを決定するプロセスなのですから。民主主義が長期的に継続すればするほど、上記のような政策は取れなくなる。つまり、どうしても、外国人排除に向かう。もっと言えば、新規企業文化の抹殺のオルグに向かう。
掲題の本ですが、1940年体制という言葉の生みの親である著者による、この現代日本の経済分析となっているが、その内容は非常に常識的と言っていいだろう。
日本は今のままでは、ジリ貧だ。
しかし、この認識は、日本がどうこうというより、日本のようなビジネスモデルの国、つまり、日本と最もよく似た、ドイツも同じような問題に悩んでいる、ということなんですね。
ヨーロッパの大陸系は、ほとんど、日本と同じジレンマであがき続けている。掲題の著者は、日本はイギリスとアメリカに学べ、と言うわけです。
しかし、少し考えたら分かりますけど、それができたら、ヨーロッパの大陸系が、まっさきにやってますよね。
じゃあ、なぜ、日本とヨーロッパはこういった長期的にジリ貧の政策を転換できないのか。
...なんか、ずっと同じような問いの周りを、行ったり来たりしてますね。
それって、どういうことなのでしょうか。
そういう場合、普通、どう考えるでしょうか。
もしかしたら、「問いが」間違ってるのかもしれませんね。
つまり、国家とは自律的にチェンジできるのでしょうかね? デッドロックにおちいった国家が、本当に自分の力で自分の困難を切開けるのでしょうか?
だれもが、短期的な合理性に基いて行動する限り、このデッドロックから抜け出せないことが分かっているのに、だれもその困難を思考しない。なぜなら、その解決を目指した時点で、短期的な自分の生活の不安定が待っているから。
この、どこまでも高く続くバベルの搭が、いつか、崩壊するその日まで、結局は、だれもなにもしない。
ここで、最初の、自由の問題に戻ってみましょう。ある企業があったとします。その企業が、社員に、ある月の給料が払えなかったとします。しかし、その企業は、その月を乗り越えられたら、急成長に乗れるかもしれません。そうしたとき、社員は、バーターとして、出世払いでいいよ、と会社に言うことが、契約として、成立したっていいんじゃないか、とも考えられます。ところが、国が規制によって、ちゃんと社員には、毎月最低限度の給料を払わなければ、逮捕する、となっていたとしましょう。たいへん立派なことですが、それができるのは、もしかしたら、資本金の潤沢な大企業だけかもしれません。つまり、ということは、「大企業しか会社になっちゃダメ」と言っているのと変わらない可能性があるということです。
なぜ、こういう問題になるのでしょうか。それは、各個人が信用を獲得するのに、国家の権威に頼っているからですね。あらゆることがそうですが、あらゆる人間関係は、自分が相手を信用するかどうか、に尽きるはずなのです。自分が相手を信じたから、自分は働く。そこに国家が、お前はそいつのためにこれをやんなきゃなんない、みたいなさまざまな「規制」を網の目のように、コントロールしてくる。そういったものは一見、人権的にすばらしく思えるけど、そういった一個一個の「規制=大きな政府」が、さまざまなデッドロックになっていく部分もあるわけですね。
国家というのは、どうしても、保守的になる。だって、その国家システムが動きだして長い年月が経つほど、さまざまな、権利義務の案件が蓄積する。一個一個、権利の分配を決めていかなければならない。エントロピーはどこまでも増大し、より、複雑な
連立方程式
になる。もう、だれも解けないくらいに複雑になるわけですね(みなさんは、連立方程式というと、中学や高校で習った、素朴なものを思い浮べるかもしれない。ところが、このコンピュータ数学において、例えば、変数や式の数が、1万や、100万のものだって、「計算に乗せられる」。しかし、ちょっと考えてください。こんなもの、紙の上で計算できるわけないでしょ。ということは、どういうこと? なんか分かんないけど、コンピュータが計算した結果って、これ何? どうやって、これが正しいのかどうかを考えればいいの? つまり、これが、コンピュータなんですね)。
そうすると、どうしてもでてくるのが、「終末論」です。
いつか、カタストロフィーが来るんじゃないか。いや、そうならない限り、だれも、行動作法を変えることを、潔しとしないのではないか。みんが先の光が見えないビジネスモデルの転換ができないのを、国のせいにして、国にたかり、国の借金がうなぎ昇りになり、国債を海外に売るようになって、最後には、インフレになる...。
あまりにも使い古された有名な一節を引用してみよう。

けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。麹町のあらゆる大邸宅が嘘のように消え失せて余燼をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に座っている。片側に余燼をあげる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変るところがない。ここも消え失せて茫々たただ余燼をたてている道玄坂では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されていた。行く者、帰る者、罹災者達の蜿蜒たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすりぬけて行き交い、路上の鮮血にも気づく者すら居らず、たまさか気づく者があっても、捨てられた紙屑を見るほどの関心しか示さに。米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直ん運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘たちは未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。
坂口安吾堕落論

坂口安吾全集〈14〉 (ちくま文庫)

坂口安吾全集〈14〉 (ちくま文庫)

終戦直前の焼け野原で、安吾は、この破壊の精神的な解放に注目していたわけですね。もちろん、さまざまな文化や美しいもの、そして当然、人命、が失われることは悲劇なのですが、そこにはある「解放感」があったことを強調する。それが、高校生くらいの少女たちの、笑い声に、象徴的に見る。
偉大なる破壊が、起きない限り、人々の保守性が変わることもない。人々は今までやっていた仕事が死ぬまで意味のある産業であり続ける保証などあるわけないのに、その「日常性」にしがみつく。実際、どう行動するか。国にさまざまな「援助」をしてもらう。表現がキレイすぎますね。国にたかって、国からお金をまきあげて、自分たちの給料にするわけだ。だって、俺が今もうからないのは、国が悪いからに決まってるんだから、国が俺の面倒を見るのは当然だろ? じゃあ、国はどうするか。この民主主義の世界で、声の大きい存在を無視できる存在などありうるわけがない。くれと言われて、あげないわけにはいかない、というわけだ。
こうやって、日本の産業構造の変換も起きないとするなら、今のこの日本の、「経済戦争」の現状を、終戦直前の、安吾が「美しい」と言ったこの光景と比較してみたくなるということだろうか。
最後に少し、この本の議論を追ってみたい。

しかし、需要を増大したり物価を押し上げたりする効果は、もともと金融対策には期待できなかったものである。なぜなら、現状では、貨幣に対する需要が無限大になってしっているため、流動性の増加が経済活動を刺激する効果を持たないからである。つまり、日本経済は、ケインズが言う「流動性トラップ」に落ち込んでいるわけだ。
金融政策の無効性は、物価についてとくに顕著である。08年にプラスであった消費者物価上昇率はマイナスになったが、これは主として原油価格下落の影響であり、金融政策とは無関係なものだ。

こうした結果になるのは、可処分所得が一時的に増えても、長期的な所得(恒常所得)が増加する見通しがないからである。所得の先行きについて悲観的な見通しが支配的な現状では、可処分所得を増大さえて消費を喚起しようとする政策は機能しない。したがって、子ども手当や農家への戸別所得補償が行なわれても、あるいは減税が行なわれても、消費拡大策としては効果がないだろう。
現状の日本経済の経済条件を考えたとき、本来行なわれるべき財政政策は、公共事業の増加である。

私には、こういった議論は非常に常識的に思えるのだが、では、なにがこういった議論を認めることに人々を躊躇させるのか。もちろん、公共事業に対する不信である。ということは、この質をどうやって担保すればいいのか、となるのだが、どう考えても、このだれもリスクをとろうとしない、この国の政治システムで、国がさまざまに市場にちょっかいを出していいことなどあるのか、という議論になる。実際、今、事業仕分けとかいってやってるが、官僚に経済対策を考えさせてでてくるものは、官僚自身の天下り先ポスト確保のための特殊法人の新設だけ、でしょう。
でも、だれが考えても、都市基盤のインフラなどちゃんとやってもらわないと困りませんかね。とういことは、どういうことなんでしょうか。公共事業のなにを行うのかの、決定プロセスが、この民主主義社会においては、絶望的に品質が悪い、ということなのでしょうか。
著者は内需主導型経済に日本は移行すべきだ、という。その意味は以下だ。

「日本は資源に乏しいので、海外から輸入しなければならない。その購入資金として外貨を稼ぐ必要があり、そのためには輸出をしなればならない」と多くの人が考えている。たしかに、高度成長時代にはそうだった。
しかし、現在の日本は225兆円という巨額の対外純資産(2008年末)を保有しており、それからの収入である所得収支が巨額になっている。09年7月では、1兆2468億円の黒字で、これは自動車輸出額のほぼ2倍だ。海外から資源その他を購入するための資金は、これによって賄うことができるのである。巨額の対外資産をより適切に運用することができれば、現在の純資産でより多くの所得をあげることもできる(実は、いまの日本で本当に必要なことは、このような能力を高めることなのだ)。もし所得収支の黒字で不足するなら、対外資産を取り崩せばよい。輸出がさらに減って貿易収支が年2兆円の赤字になっても、あと100年はもつだろう。

そういったところから、日本はもっと、介護や農業に労働力がシフトすべき、と著者は言う。実際、介護の分野はどう考えても、これからさまざまな需要が増えるだろう。しかし、受給ギャップが埋まらない。労働者の給料がどうしても安いから。だったら、どうするか。著者の提案は、製造業から移転できないか、ということになる。
こういったことが必要だという理屈は分からなくないが、これだけでは、日本はどこまでも、ジリ貧、弱くなるだけではないのか、という疑問となる。そこで、高付加価値産業の登場が必要となる。どのみち、製造業では、中国に長期的に勝てない。だったら、そういった中国に部品を作らせたものをパッケージして売るような(ただし重要な部分の技術はその企業内から一歩も出さない)、そういった高次元の産業の育成を行えばいいのではないか。たとえば、サービス業、情報産業、それも、かなり高度な先進性をもつ(彼らのイメージには、googleapple 社のようなものがイメージされているんですかね)。
そこで、前半の話とつながる。それって、非常に高いスキルとアイデアがいるんですよねー。とにかく、そういった人材にとって、魅力のある国にするところから始めないと、どうしようもないという話のようだ(日本の教育水準も、海外へ行く留学生の激減など、非常にレベルが落ちていて、心配されてる昨今ですけどね)。
ようするに、著者の結論はすべて、ここに尽きているわけでしょう。今だって、日本企業は、なにからなにまで、アウトソーシングですよ。さんざん「合理化」したんですら。でもそういった、競争力のある高度にスキルのある、企業が次々生まれる様子はない。また、そういったものが生まれても、そういった企業でさえ、中国と戦えるのか。
ようするにこの問題も、言うは易し行うは難し、みたいなところがありますね。
以下最後になります。この本で、著者は、さまざまな統計的数値を紹介する。「著者は」これらの統計的事実から、このように推論した、ということが書いてある、ということである。
ですから、読む人によっては、また、違った読み方をするかもしれない。違った統計上の「特異点」を評価し、違った結論に至るのかもしれない。
学問とは、そういうものである。
これが答えだ!
ぷっ。違うでしょ。
これが「俺にとって都合のいい」答えだ!
でしょ。こうだったら、いいなー。やばい。あんまり、自分の理想ばかり書くと、露骨すぎちゃう。いい塩梅に統計結果から自然に思えるように、かつ、この専門分野の常識にそったように「虚飾」しておかないとね。しかし、これが人間なんだ、というのが心理学の結論であった。人間は「自分に」嘘をつく。なぜか。
生きるため。
困ったな。自分とは、その嘘を言ったお前のはずだ。じゃあ、お前に嘘をつかせた「お前」は誰なんだ?
いずれにしろ、そんなことで頭を悩ませることはない。そいつがどんなに「これが答えだ」とわめこうが、そんな奴に「今この目の前の現場」の何が分かる。そいつは、そう言うしかなかったのだ。そう言わずにいられなかったのだ。
自分に怒られるから。
問題は、お前がそれに同意するかどうかではない。そんなものに、なんの価値もない。なにか価値と呼べるものがあるとするならそれは、同じように、そいつが考察した前提条件から、自分で推論してみる中にしかないだろう。そして違うなら違うし、同じなら同じ。それ以上でもそれ以下でもない。
ところが、多くの場合、そういう経路を辿ることはない。
どうなるか。それが、美人投票、である。
あのこ、かわいい。うん(肯定)。かわいい。あんなに自分に心配そうに話しかけてくれた。みんなはえーって変人扱いするけど...。そうだ! みんなにはあのこのよさがわかってないんだ。そーだ、そーに決まってる。絶対だ。もー間違いない。天使ちゃんマジ天使。
...。
あー。自分はなんて、「やってはいけないこと」をやってたんだー(頭を抱える)。
かわいいこを選んでは「いけなかった」んだ。
「多くの人にとって」かわいいこを選ばなければならなかったんだ。
とすると...。まずは、だれからも反感をもたれてそーになくて、だいたい、みんなにとって違和感をもたれない感じで、あたりさわりのない角が立たない平均な感じで...。おい。なんか...。やればやるほど、
つまんないんだけど。
いや、選ばれていくこが、どうこうじゃなくて、この方法で選ぶことそのものが猛烈に、「どーでもいい」。まったく、やる気が起きない。やる気なくなった。あーあ。やめたやめた。
こうやって、みんな人生がつまらなくなる。