原田泰『日本はなぜ貧しい人が多いのか』

この本も、多くの統計資料が掲載されていて、なかなか楽しい内容になっている。
掲題の本の議論は、大きく二つに別れるのではないか。

  • なぜ日本人は貧しい人が多いのか
  • なにが原因で日本は不況(デフレ)になったのか(なぜ抜け出せないのか)

ほとんど今の問題というのは、この二つに収斂するという整理のようだ。
しかし、思うことは、そんなに国内経済というのは、脆弱なのだろうか。ちょっとのことでは、国内経済のファンダメンタルが揺らぐことはないように思える。しかし、この何十年かの日本の経済は、いろいろな意味で、あまり未来を明るく考える人々が少なくなってきているように思える。
まず、前者の質問であるが、これについては、明確な根拠がある。

要するに、日本の一人あたり公的扶助給付額は主要先進国の中で際立って高いが、公的扶助を実際に与えられている人は少ないということになる。これは極めて奇妙な制度である。日本に貧しい人が少ないわけではない。同志社大学の橘俊昭教授は、生活保護水準以下の所得で来らしている人は人口の13%と推計している。ところが、実際に生活保護を受けている人はわずか0.7%である。

実は、日本のほとんどの問題はここにあるのではないだろうか。なぜ貧しい人たちが、公的な援助を受けていないのか。まず、基本的に日本の公的援助が、申請主義であるという面がある。そういう資格がありながら、多くの人たちが申請していないのだろう。次に、申請しても、その審査が厳しいのか、なんなのか分からないが、かなりの割合で受理されていない現実もあるのだろう。結局、認めた時点で、援助する額が多額になるため、本来援助することが仕事のはずなのに、そこでのハードルをもうけることが、財政のコスト削減という、意味をもってしまっている。最後に、そういった風潮を受容する世間の感覚があるのではないだろうか。
貧乏人がなぜ、貧しいのか。巷のエライ人たちに議論をさせると、まず、言われるのが、貧乏人の生活力がないことは、本人たちのせいだ、となる。本人たちが、ニートだから、競馬などのギャンブルで、お金をすってしまうから、生活力がつかないんだ、と。仕事が見つからないのも、本人たちのやる気がないからだろう。仕事だったら、選ばなければなんだってあるじゃないか。文句言わずに、我慢してやれ。
非常に典型的なのではないか。結局、
経済自由主義者
は、一方で、お金儲けの何が悪いと開き直って、道徳など糞食らえと言っておきながら、他方で、貧乏人が気のゆるみから、貧困に陥ると、なに怠けてんだ、そんな奴らにやるお金はねえ、と急に、
道徳主義者
になる。
こういうものを何と言えばいいのだろうか。つまり、
基本的人権
結局、日本人は今だに、基本的人権の感覚をもっていないのではないか。非常に人権意識が希薄なのではないか。
どんな堕落した大人であろうと、その人には、生まれながらなに存在する、基本的人権が備わっている。
ところが、逆の面については、むしろ、やりすぎなくらいに、人権重視なのである。つまり、大企業の正社員になると、まず、失業した時点で、途端に、ものすごい金額の失業保険が払われる。
しかし、そのお金が必要なのは、むしろ、新卒学生たちなのかもしれない、とは思わないだろうか。
もちろん、こういうことを言うと、とたんに、ベーシック・インカムと話が飛ぶ。もちろん、それもいいのだが、もっと単純に、たんに、世界標準並みに、福祉をやればいいだけなのではないか。稼ぎが少なく困っている人には、その理由がなんであれ、少しのお金だけでも援助してやればずいぶん助かるわけだ。そして、広く、極端に貧乏な人が、この日本にいないようにすればいい。ちょっとだけ、お金をあげればいいだけだ。なんにも難しくない。
つまり、日本人は、なぜ、基本的人権の意識が希薄なのか。なぜ今、「堕落」という存在形態にあるニートたちが、ここまでバッシングされるのか。
そこに、天皇制、一般に王政の問題を並列させてもいい。ヨーロッパの歴史にしても、王政が絶対的な権力をもっていたときほど、王のために役に立たない市民は、むしろ自ら、命を断ち、王の繁栄に資するべきだ、という発言が、文献のそこら中にあらわれる。王とは、一つの道徳の源泉になっているんですね。王の態度が人々の行動規範になる。そういう意味で日本は明治以降、典型的な道徳国家だと言えるでしょう。オウム真理教のときもありましたけど、王のコピーとなることが、道徳の完成であり、そのようにならないものたちとの、差別となる。
最近読んでいるある本に、ちょっと、気になった記述を見かけた。

さらにケルト社会は、祭司階級が戦士階級より上位の支配的な階級であった。ケルト社会の祭司はドルイドと呼ばれた。ドルイドになるためには、ときに20年に及ぶ修練が必要であったと伝えられている。つまりかなりの専門知識を必要とした。ちょうどケイリスト教の司祭が多くの修練を要求され、専門知識を必要としたのと同じである。

したがって、中世のヨーロッパがキリスト教の支配に服したのは、もともとケルト社会が一般的に祭司階級を支配階級に仰ぐ社会であっったから、ということが基本にある。

西ヨーロッパにおけるキリスト教の布教は、結局のところ、この祭司階級をドルイド教の祭司からキリスト教の祭司に置き換えることだったともいえる。

天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡

天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡

マックス・ウェーバーは、その精神性をプロテスタンティズムと言ったが、私には、それは「ケルト祭司階級支配国家」と呼ぶ方が正しいように思う。原始キリスト教に対して、中世以降のヨーロッパ・キリスト教の著しい特徴は、その、支配階級の精神性=支配の精神性、ではないだろうか。人々を支配していく手段として、基本的に支配階級(教皇)の、精神的偉大さが強調される。しかし、ギリシアなどを見ても、そういった文化はそれほど、一般的ではないように思える。むしろ、これは、ケルト社会の特徴と見る方が正しいのだろう。
しかし、この相似性は、ことこの日本においても言えないだろうか。
日本の仏教伝来以前においても、日本は、やはり、卑弥呼などの祭司支配階級国家であったはずだ。だから、日本誕生、つまり、大化の改新、を中心とした、その一連の日本国家の形成過程における、仏教の受容においても、上記にあるような、「世界宗教による祭司支配階級の乗っ取り」が起きていたとは考えられないだろうか。
仏教が、なぜ、あのように日本に、あっというまに受容されたのか。そこには、既存勢力の反発が本来ならば、考えられるはずなのに、ほとんど目立つことなく、「交代」が起きている。
ということはどういうことなのか。日本の国家体制は、基本的に、「連続」していた、ということだ。たんに、トップをすげ代えるだけで、それ以降も同じような、祭司支配階級を維持した。仏教が卑弥呼神道の位置に、すげ代えられただけだったということだ。
たしかに、日本とヨーロッパは似ているんですかね。こういった、精神性は一方で、ローカルな社会の保守性や安定をもたらすとしても、他方で、人々の自由な思考を拘束していく面もあるだろう。
いずれにしろ、前者の問題が、こういった感じで、簡単に思える面があると整理できるのだが(もちろん、実際の解決はより高齢化が進むことを考えても困難な面が多々あることは言うまでもないが)、後者の質問はなかなか難しい。
なぜ、不況か。もちろん、不況ではない、という考えもある。こういう事態を、ケインズ経済学では、流動性の罠と言うそうであるが、これをデフレと言ってしまうことに抵抗していたのが、この前紹介した、野口さんの本であった。
そこでは、冷戦時代の終焉とともに、社会主義国という、優秀な人材が、資本主義市場に流れ込んできて、日本の強かった産業は強烈な競争にさらされている、という整理だっただろうか。
しかし、それならそれで、自由な経済活動なのだから、さまざまに、変体していけばいいのでしょう。
むしろ、この流動性の罠が、なぜ起きているのか。なぜ、「自生的秩序」は、いつまでも、ここから抜け出せないのか、こういったかなりチャレンジングな質問をしてみたくなる。ということは結局、原因はなんなのか、ということなのだが。
なぜ、日本の企業の経済活動がシュリンクしてしまったのか。それを、石油価格の高騰と、ほとんど対応している、という人もいる。
しかし、ここまで、新卒採用が減ると、たんに、ゆとり教育で、使えない人材ばかりだから、とは言えないだろう。
たとえば、 掲題の本には、1970年代の不況を分析したある論文に注目する。

増田論文は、70年代以降、「国土の均衡ある発展」政策のよって地方に公共事業が投下され、人々が効率の悪い産業(別の表現をするなら、より高い賃金を得られる業種)を求めて都市へ移動するのではなくて、効率の低い産業の下でも暮らせるようになったことが成長率屈折の理由であるという。

著者は、実は、この本の最初において、ある意味、答えのようなことを書いている。地方に富裕層を中心とした、高級住宅地域がないことと、日本の東京一極集中の因果関係を考える。豪邸街とは、おぼっちゃんたちの、競争を意味する。

アメリカでは御坊ちゃま同士の競争があるが、日本の地方にはそれがない。二世政治家の実家を見ると、豪邸の場合にはその周りに家来のような家が並んでいる。それが、日本の政治家のレベルを引き下げているのではないだろうか。イタリアの都市国家ベネチアジェノバには豪邸街がある。豪邸街に住む貴族同士の競争のなかから共和国の指導者が生まれ、彼らが700年から800年続いたイタリア都市国家の繁栄をもたらした。

彼らが、この国の経済を牽引していくとするなら、彼らにとっての、競争の地盤となるはずの、豪邸街が生まれてこない(東京にしかない)ことに、日本の衰退のある種の、象徴を見ようとする。問題は、おぼっちゃんたち同士の競争が、そもそも最初からない、つまり、おぼっちゃんたちにとっての成長のモチベーションがないことなのではないか、と。
この問題は(ここでも、何回か書いたことにつながるが)、名古屋の市長や、九州の阿久根市の竹原という市長が言っていることともつながるだろうか。地方というのはある意味、公務員というか、なんらかの意味で、公的なバラマキに依存して生きている人が多い。しかし、そういった公的セクターがどこまで、自分たちの身のたけに合ったものか。それは疑問だろう。もちろん、名古屋のように、さまざまな減税などの改革によって、産業成長自治都市(国家)を目指すというのもありうるのだろうが、いずれにしろ、身のたけというのはある。
さて、本当のところ、一体、何が起きているのだろうか、と問うてきたわけだが、いつもそうだが、問題が煮詰るときは、往々にして、その質問が間違っているのかもしれない。
本当のところは、日本人は、「知らない」のではないか。知識が足りないのではないか。
不況とは何か、について。

デフレは実質賃金を引き上げるだけでなく、さまざまな経路を通じて経済を停滞させる。物価がいくら下がっても金利はゼロ以下にはなりえない。したがって、実質金利は上昇する。デフレが起きるような不況期に実質金利が上昇すれば、それは不況をさらに悪化させるだろう。また、過去に決めた債務契約は、物価が下がってもそのままである。物価が10%下落したのだから、1000万円の借金を900万円の借金に代えくれと言っても、応じてくれる銀行はない。債務者は、借金返済のために支出を減らし、資産を売ることになる。これは、資産価格と一般物価の両方を引き下げる。これは不況を長引かせることになる。

問題は、自分たちの「まだやれる」という予測の感覚が、合理的でない、という、非常に古典的な、いつもの理性問題という、いつもの話なだけのような気さえしてくる....。

新潮選書 日本はなぜ貧しい人が多いのか 「意外な事実」の経済学

新潮選書 日本はなぜ貧しい人が多いのか 「意外な事実」の経済学