森毅「集合のカテゴリー」

このブログにおいて、哲学の大物と言ったら、もちろん、
ドゥルーズ
である。20世紀最大の哲学者故ドゥルーズは、多くの問題を考察したが、彼の思考の中心線になったものこそ、「当然」
ベルグソン
であっただろう。

しかしこの見方はジル・ドゥルーズの出現によって変更を余儀なくされることになる。思想の継承者とは、その思想の透徹した理解者であるとともに、たんなる解説者やエピゴーネンにとどまることなく予想もしえない別の領域に思考の本質を広げていく者であるならば、ドゥルーズはほとんど唯一といってもよいベルグソンの継承者である。

ベルクソンの哲学―生成する実在の肯定

ベルクソンの哲学―生成する実在の肯定

ドゥルーズとは、「差異」の哲学と呼ばれる。彼の視点は絶えず、その視差に向けて、語られる。近代哲学、つまり、ヘーゲル哲学が「同一性」の哲学と呼ばれるのと対称的に、彼は、それら相互が微妙に見せる齟齬、ストレス、つまり、微妙な違いを次々と取り上げ、独特の世界観を構築する。
しかし、言うまでもなく、そのネタ元は、ベルグソンであった。そのことは、多くの人々に奇妙な感情を抱かせる。なぜなら、ベルグソンこそ、近代の哲学者が、「前時代の遺物」として無視していた古典であったからだ。
近代哲学とは、フッサール現象学のことにすぎない。ではフッサールとは何をやっていたのであろうか。彼の世界把握が、人間の赤ん坊の感覚が自己展開し、子供、大人の世界把握へと進化していくという視点を含んでいるという意味では、心理学的ともヘーゲル的とも言えるだろうが、ようするに、フッサールの手法は「数学」だろう。現象学的還元とは、まあ、カントで言えば、「世界への形式の投げ入れ」、や、真善美の、「専門化(カテゴリーの区別)」とか、いろいろ、ネタ元はあるんでしょうけど、ようするに、数学で言えば、それって、
数学的モデル
のこと、そのものでしょ。数学的対象とは、この世界のある特徴を、「形式」として、とりだすわけですよね。数学においては、それを(無定義用語と)「公理」(という二つのロジックのツール)で、十全に記述してしまうわけですね。すると、なにがおきるか。

  • 本来の対象がもっていたはずの、さまざまなその他の特徴が、「括弧に入れられる」。
  • その形式を満たすと考えられるものであれば、「どんなものでも」同様に「正しい」(逆に言えば、その形式を満たす、ある一つの対象で起きないと分かっていることは、ほかの全ての、その形式を満たす対象においても、起きえないっていう、「かなり強力な」事態を意味するんですね)。

もう、完全に現象学的還元、そのものじゃないですかね。
例えば、芸術家が、芸術を作るとき、道徳や真実を一旦、「カッコに入れる」。そのことで、その芸術が「美しい」のか違うのか、その形式的な考察を行えるようになる。他の二つも同じである。こういった態度が、不純であると思おうが、これにはこれの「利点がある」。そして、これこそ、近代的なカント以降の作法と言えるだろう。
(そして、デリダはこの認識を再度辿り直したのであろうし、ハイデッガーからなにから、この延長でしか議論していない。)
こういった視点で振り返ったとき、ベルグソンはあまりに、時代遅れ、つまり、思弁的に見える。しかし、そのベルグソンドゥルーズが完全なバックボーンとするとは、どういうことなのだろう。
そうしたとき、ベルグソンには、「持続と同時性」という、非常に重要な文献が、あることが気になってくる。ここで、ベルグソンは、アインシュタイン相対性理論を彼の若い頃の、思弁的哲学から、再構成を目指す議論をしている。なかなか、スリリングな議論であるが、多くの人が思う通り、哲学が物理学に物申すって、なに、それ、ってところであろう。

この著作はもっぱら自分のために企てられたものである。われわれの持続概念が時間についてのアインシュタインの所見とどれほど両立しうるものかを知りたいと思っていた。

ベルグソン全集〈3〉笑い 持続と同時性

ベルグソン全集〈3〉笑い 持続と同時性

物理学は、自然実験科学として、ある意味、完結している。そこに、ベルグソンがかかんに挑む。一体、この議論が成功している、と言えるのかどうなのか...。ところが、ドゥルーズの思考は、どうもこの「持続と同時性」をひたすら巡るように思えてならないのだが、どうだろう...。
しかし、この事情には、ちょっと、おもしろい余談がある。ご存知の方には、蛇足でしかないだろうが、このベルグソンの「持続と同時性」を巡って、非常に長い考察をした人がいる。もちろん、日本の文芸批評家、
小林秀雄
である。ところが、おもしろいことに、彼は自ら「失敗」を認めるんですね。

連載中断理由の一端は、昭和40年8月に行われた岡潔氏との対話「人間の建設」において、次のように伸べられている。(ベルグソン論は)失敗しました、力尽きて、やめてしまった、無学を乗りきることが出来なかったからです、大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません......。そして後年、著者は親族ならびに弊社に対し、将来ともに「感想」を上梓すること、全集類に収録すること、そのいずれをも厳禁する旨言明された。

小林秀雄全作品〈別巻1〉感想(上)

小林秀雄全作品〈別巻1〉感想(上)

つい最近まで、これは、小林秀雄全集にも入っていなく、読めなかった。だれもが知っているのに読めなかった。じゃあ、どうやって人々は読んでいたか。雑誌のバックナンバーをかき集めて、である。
言うまでもないことであるが、小林秀雄こそ、戦後日本のさまざまな思想的雰囲気を決定付けた、最も影響力のあった批評家であることは言うまでもない。彼が、さまざまにとりあげた、本居宣長から、ドストエフスキーポール・ヴァレリーアンドレ・ジッドなどなど、さまざまな議論は、今でも、十分な強度をもつものであって、今のある程度上の世代にとっての、橋頭堡になっていることは言うまでもない。
(この辺りの考察をした本があるが、

小林秀雄とベルクソン―「感想」を読む

小林秀雄とベルクソン―「感想」を読む

著者の最近のブログは、完全に政治ネタばっかりになってますねw)。
そういう意味では、ベルグソンとは、日本の戦前、旧制高校のようなところのエリート学生たちが、一般に読んでいた、常識的な哲学者であった。日本の戦前において、そういったエリート坊ちゃん学生たちは、流行として、世界文学全集などと同様に、こういった、幾つかの哲学が流行する。ニーチェベルグソンが典型だが、以前紹介した、橘孝三郎、などもそうですね。
なぜ、ベルグソンが流行したのか。そういったことは、寡聞にして知らないが、ただ、一つ思うことは、江戸から明治に移行し、近代学校制度が成立していく過程において、間違いなく、ある一定の上流階級において、学問の継承的な過程があったのだろう、ということだ。
江戸において、もちろん、学問とは儒学のことである。もちろん、医学などの洋学が流行り始めるのだろうが、それは、どちらかというと、実学、経済学などと同じように、技術、つまり、朱子学で言えば、理気二元論の「気」の部分の話と考えられる。ところが、明治の近代学校制度において、哲学はドイツの特にカントの哲学を中心に、日本では流行する。なぜ、カントだったのか。それは、カントの主著を「理」性と「翻訳」したことによく現れている。まったくもって、
朱子学
の一種として、カントを読んだのだろう(朱子学が理と気の学問であることは言うまでもない)。実際、そういうふうな読み方において、カントほど、スリリングな哲学はないかもしれませんね。
そういった延長で考えると、ニーチェベルグソンが当時流行するというのは、実に自然な気もしてくる。ベルグソンの議論は、まったくもって、朱子学っぽくないだろうか。この事物が生成流転して、流れていく感じが、問題意識として、「彼らが親しんでいた、朱子学的な、あるいは、禅的な教養から、非常に入りやすかったんじゃないだろうか」。
(いずれにしろ、今の日本の若者に、こういった「伝統」が伝わって行ってない、というのは、どういうふうに考えればいいのでしょうね?)
私は、別に、ベルグソニアンでも、小林秀雄信者でもないのだが、今回、上記の二つは眺めてみた。思ったのは、なぜ、特殊相対性理論なのかな、ということであった。もちろん、哲学からこういった、古典力学の延長を野望する、特殊相対性理論に挑んでいくことは、当然の気もするが、そういうことではなくて、物理学の両翼を担うもう一つ、
量子力学
はどうしたのだろう? 時代的な制約なのだろうか。なにか、この議論、バランスが悪くないだろうか。ベルグソンの世界観と、量子力学は相性が悪いのだろうか?
ただ、ここのところ、何度も言っていることであるが、ベルグソンがこうやって、物理学に挑戦していく(そして、それを真似る、小林秀雄の)姿は、
好感がもてる。
その内容が合っているとか合っていないとか、間違っているとか、嘘だとか、そんなこと「全て」どうでもいいのだ。やったその内容だけが真実なのであり、それ以上もそれ以下もない。実際、科学とは、錬金術そのものであり、つまり、失敗の歴史そのものだ。ゴミの研究の山が、うず高く積上げられ、私たちは、その上澄みを
科学=常識
と言っているにすぎない。しかし、それら失敗は、たんなる失敗ではない。失敗することで、これがゴミだと分かった、ということだ。
ドゥルーズが、ベルグソンをホームベースにして、彼の豊穣な哲学体系が生まれていくとき、なぜ、彼にそのようなモチベーションが生まれたか。当然、ベルグソンが「失敗」しているからだ。だからこそ、完成の可能性がある。実際、哲学がやっていることは、常に、過去の哲学の瑕疵を補填することだとも言える。哲学が極端に、論争的と言うとき、そこに、今のさまざまな、アノミーの見通しを与えるアイデアが眠っている。
まさに、失敗学。つまり、失敗だけが、「真実」なのだ。ドゥルーズの独特の世界観がこういったモチベーションに覆われていことは、興味深い。
ところで、ドゥルーズが差異と言うとき、それは、「微分」的な、世界観、と同一視される。
私には、こういった観点こそ、おもしろい。
ご存知のように、近代数学は、集合論のベースの上に、構成される。ところでは、この集合論とは、どういった世界観なのか。その辺りの啓蒙書とては、

新装版 集合とはなにか―はじめて学ぶ人のために (ブルーバックス)

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なんかが分かりやすいのだろうか。ようするに、いつものやつである。
最初に神あり。
つまり、空集合、という「神」が。そこから、世界は、生まれる。次々と。つまり、なんでもいいから、「ここから作ればいい」。
例えば、空集合を、数字のゼロと考えれば、「次の」数、1、が生まれる。同じように、どんどん、これを繰り返せる。2、3、4、...。でも、これで終わりだね。だって、これをいつまでもやってくしかないじゃん。
とんでもない。
次がある。次とはなにか。こうやって、作られた、自然数「全体」だ。つまり、内包的に、次の「数」を定義する。たとえばそれを、N、としよう。でも、これで終わりでしょ。
とんでもない。
その「次」があるじゃないか。つまり、N+1、だ。そして、これも、繰り返す。N+2、N+3、N+4、...。これも、上記のように、考えれば、N+N = N^2、が作られて、また、これを繰り返して、...。
ちょっと待ってよ。これって、もしかして、
「終わんないの?」
0、1、2、...、N、N+1、...、N^2、...、N^N=W(このWで、以下、同じことを繰り返して、...)、...
えっと。
まー、こーいう世界ってことですね。いずれにしても、この世界のイメージは、非常に、静的なことでしょう。もちろん、この、一個一個、生まれていくイメージは、なかなか、壮観で、迫力があるが、いずれにしろ、そういう物の世界、ということだ。好きなだけ、デカルト的分割が通用しそうだ。
たとえば、ここでは、関数、というものが「定義できる」。つまり、小中学校のころよくやった、「グラフ」として、である。始点を、x軸、終点を、y軸、というように、二つの値をペアにしたものの、集合を考えれば、それが、関数、だと言っても、言われてみれば、確かに、そうなっている。
しかし、関数というのは、私たちは、普通、そんなふうには考えない。ブラックボックスの箱がそうであるように、入力の引数になにかを入れると、なんかが、でてくる。子どもがよく、駄菓子屋の前で買う、ガチャガチャ、のようなものだ。そこには、ある種の、
タイムラグ
がある。じゃあ、さっきのグラフとは、なんなのだろう。言わば、さっきの、ガチャガチャ、を全部やり終わった、「最後において」世界を眺めるようなところがある。最後において眺めれば、このガチャガチャは、一回目には、何が出て、二回目には、何がでる、...ものであったと、十全に記述できるように思われる。
しかし、なにか変な気がしないでもない。なんか、思考の順番が不自然なように思える。なんで、最後になってから、こいつがなんであったかが、分からなきゃいけないんだ。こいつは、こうだと、最初に、定義したくないか。
そこで、こう考えてみよう。こいつは、ある値からある値を生成する、「関数」なんだ、とまず定義してしまう。いや、もっと、根源的に定義してしまおうじゃないか。
この世の中の最初に、神がいた、のではないのだ。
最初にあったものは、神ではなく、神の声だった、と考える。
生きよ
という、神の命令(働き)があったのだ、と。
考えてみれば、ある意味、こういう考えは自然である。世界は、モノで構成されているのではなく、働き(関数)によって、構成されているのではないのか。この世界には、関数があるだけで、モノなどないのではないだろうか。
こういった考えで、数学を始めるものが、圏論(カテゴリー論)と呼ばれる、数学の分野である。ここにおいては、まず存在するものは、
矢印
である。この矢印は、ある始点から終点に向かって引かれる、のであるが、いずれにしろ、その始点と終点は、単独では存在しない。矢印とこの二つをペアにしてしか考えない。こういうものしかない、世界を考えるわけだ。
こうすると、どう思うだろうか。人によっては、あまり、自然な感じがしないだろうか。
そういう人は、「優等生」すぎる。学校で、デカルト的分割を勉強しすぎだ。
もっと、「堕落」しよう。真面目に考えるのをやめよう。世の中にあるのは、あんたの口から、ころげ出てくる冗談しかない、と考えてみよう。そのジョークは、すくなくとも、ある君が笑ってほしいと思った相手に向かって、飛んでいくって話で、それだけが存在する世界をイメージしてみるんだ。
ちょうど、これは、力学空間の、「ベクトル場」のようなイメージが合っているかもしれない。世界にあるのは、
矢印
だけ。あらゆる空間上の点、質点は、ある「方向」を持っている。その傾きだけがある世界。つまり、
微分
だけが存在する世界。なにをふざけた、と思われるだろうか。しかし、どうして、世界がそうでないと言える。むしろ、世界がそうなっている、という考えの方が自然ではないだろうか。
こういった世界観は、たとえば、ベルグソンが何度も言及し、考察した、アキレスと亀の問題にも、応用できるかもしれない。
アキレスは亀との、徒競走に、亀にハンデをくれてやる。ちょっと前から走り始めていーよ。よーいどん。困ったな。俺が、亀が前にいたところに辿り着いたところに到着したら、もう亀は、そこよりは前に進んでる。これを、何度やっても、あいつより前には、行くことは、ないじゃないか。
しかし、こう考えてみよう。ある瞬間に存在するのは、同じ方向に向かっている、ある、二つの速度(微分)、だけだと考えるのだ。つまり、
二つの微分
が「存在する」。この二つの微分が変わらないなら、この二つの微分はあとどのくらいの時間の後には、どこにいるだろう? 当然、いつか前後の位置が変わってそーですね。
そんだけ。
この世界には、モノなどないのだ。あるのは、関数、だけ。働きだけ。つまり、自分の幸せなどというものが定性的にあるわけじゃない。あるのは、常に、ほかの人に働きかけている自分がやってる何かだけ。その親切や優しさがナイスでグッドかどうか、だけなんじゃねーの?
私たちには、デカルト分割論以降、世界とは、「モノの集まり」なんだ、という考え方が一般的であるようだ。それに対する一つの問題提起が(以前書いたが)、世界とは、

なんじゃないか、というものだった。それは、相対性理論における、光の粒子性と波性の対立を思わせて、なかなか、スリリングに感じさせる。
実は、今回提示した、世界とは、
働き
そのものだ、という考えは、これに似ていなくはない。ただし、こっちは、どっちかと言うと、「量子力学」的なんじゃないかな。波には、流れがあるように、こちらは、そもそも最初から、流れ、つまり、方向があるだけ。そういう意味で、相対性理論とは、「線形」性の力学と言えるだろう。
他方、量子力学とは、なにか。これは、私たちの、日常的な感覚が通用しない世界である。ただし、私たちの日常世界に比べ、「あまりに小さなところで起きている現象であるのだが」ということが、この理論のバランスされている部分であろう。
つまり、ヒルベルト空間で記述される、この量子力学の世界においては、ある部分が、非決定的になっている。つまり、
確率が支配している。
これを、どう考えればいいのか。この、ドゥルーズ的世界における、微分の、方向が、「見えない」。というか、なんと言うか、その微分が、まさに、
ブラウン運動
をしている、と言えばいいのだろうか(ドゥルーズの世界イメージがどういったものだったのかは、私は、あまりいい読者じゃないのであれですけど。たとえば、彼の晩年の著作、「シネマ1」「シネマ2」、こういったものをどう考えたらいいんですかね...)。
しかし、こうやって考えてきた場合に、私たちを強烈に、襲う考えは、
さっきの、関数だけの世界って、そこでの「集合論」ってなんのこと?
おもしろいですね。
実は、それについて、紹介したものが、掲題の、森さんが、ずいぶん昔に書いたエッセイになる。ここでは、1964年の Lawvere の「An elementary theory of the category of set」という、わずか、6ページの論文の内容の紹介なのだが、なかなか、いつもの森さん節になっていて、味わい深い文章だ。
(ちなみに、この論文だが、例の、グーグル スカラーで、ぐぐってもらえば、簡単に誰でも、手に入りますよ。本当に、いい時代になりましたね)。
ただ、これについては、以前に、ここでも、ちょっと紹介した記憶がある。

圏論による論理学―高階論理とトポス

圏論による論理学―高階論理とトポス

実は、この本の最終章では、上記の「集合論的なアイデア」の考えだけは、紹介されている。この清水さんの本がおもしろいのは、より「普遍的な」数学、つまり、普遍言語、を求めていくとき、こういった、関数というアイデアから(それを、圏論においては、「トポス」というアイデアで呼び代えられるのだが)、考え始めることは、実に自然であり、表現においても、十分だということなのだ。
こういった事態は、実際、最近の私たちは、実は、かなり、慣れ始めている、と言えなくもない。
つまり、コンピュータ、である。
一般的なコンピュータ言語は、大抵、最近のロジックで言えば、関数型古典論理、と言って大丈夫だろう(扱いやすいように、数値や文字といった、タイプ(型)付きの項、によって表現される)。この本にもあるが、関数型古典論理の便利なところは、もう少し、メタな議論が、そのロジックの中で行えるということらしい。

この一階の述語論理が万全なものでないこおは、日常の自然言語の言明においても、科学上の言明においても頻出する「----であること」(i.e. that 節)の処理一つとっても、明らかである。たとえば、「ジョンがメアリーを殴ったことが原因で、メアリーは失明した」を、一階の述語論理で P(a,b) -> Q(b) (ただし、a:ジョン、b:メアリー、P(x,y):x が y を殴った、Q(y): y は失明した、とする)と形式化して捉えることは、明らかに的確さを欠いている。すなわち -> で現わされる条件法(i.e. ならば)によって因果関係を捉えることは無理である。しかしそうかといって、自称(i.e.----であること)と事象(i.e.----であること)との因果関係を現わす述語(i.e. R(x,y): x は y の原因である)を導入して、例文を R(P(a,b),Q(b)) と形式化した場合、この形式化は明らかに一階の述語論理を逸脱している。
圏論による論理学―高階論理とトポス

これこそ、オブジェクト志向言語で言う、「クラス(class)」そのものではないか。実際、かなり自然な論理であり、コンピュータそのものと言っていいのだろう。じゃあ、なぜ、数学が、こういった論理を採用してこなかったのか。必要がなかった、かつ、本質的に数学に、新しい知見を与えるような変更じゃないから、だろう。
ところで、この言語は、この前、古典論理直観主義論理の「代数モデル」を考えましたけど、こっちは、完全に、「トポス」によって、表現されると、上記の本で、証明されている。
つまり、
トポス・モデル
が存在する。そして、このトポスこそ、集合論でない、関数だけが存在する世界、を表現する数学であった。
関数だけが存在する、とは、どういう意味か。
まず、次の、2種類の、「無定義変数(ターム)」を用意する。

  • f, g, h, ...: mappings
  • X, Y, Z, ...: objects

そこで、次のようにする。

  • 任意の f: a mapping に対しては、常に、二つの objects がそれぞれ一つずつ、ペアで存在する。つまり、X:a domain of f, Y:a codomain of f. そしてこれを、以下のように記述する。f:X -> Y。

なんだ、いつもの、関数じゃん。
と思うだろうが、大事なことは、この世界には「関数しかない」。じゃあ、ここにでてくる、X とか、Y とかって何? x軸、や、y軸(つまり、実数などの集合)じゃねーの?
そんなことは「誰も言ってない」。上記を見てもらえば分かるように、なんか、そーゆーもんがある、としか言ってない。それどころか、関数がなんなのか、なんて、まったく決めてない。
とにかく、大事なことは、関数を考えるときには、domain と、codomain と呼ばれる、なんだか分かんねーものと、セットじゃねーといけねーってことだ。
これは、人間の文法とも、相性がいい。動詞には、主語と目的語がある。ない場合とは、ある意味、省略されている場合なんでしょうね。ドイツ語なんかだと、簡単に、動詞が、名詞化、してしまうが(英語なら、末尾に、なんとネス(-ness)、日本語ならなんとか「化」とか付きますね)、そうした場合、その名詞化したそれの「意味」とは何か、みたいな議論が始まる(現象学で言えば、本質直観ですね)。しかし、そもそも、その動詞には、domain と、codomain があったことが忘れられる。それで、禅問答的な話が始まるというわけだ。
こういった考えを、関係の哲学とか、繋がりの哲学とか言ってみようがなんだろうがいいけど、この動的な感じですよね(キリスト教神学だって、三位一体論といって、トリロジーが支配してるしね)。
上記の関数を、f : A -> B と表現しましょう。もう一つ、g:B -> C があったとき、次の関数が生まれる。fg:A -> C。こうやって、どんどん、矢印がつながっていくイメージが生まれますね(そうなると、この関係が、アソシエーティブであってほしいですね)。
さて、ここから、どうやって集合論を生みだそうか。とりあえず、

  • 0 :ゼロ(始端)
  • 1 :最初(終端)

は欲しいよね。
そして、

  • x は A の元

というのを、

  • x: 1 -> A

と表現してみる。自然数集合は、

  • 1 -> N -> N

という感じだろうか。こういった何かが存在しうるような、帰納法的な公理が必要そうですね。
その他、当然、
部分集合、包含関係、外延性、内包性、選択公理ドモルガンの法則、同値類、...。
こういった、集合論で、いつもやってる対象が作れなきゃ話になりませんよね。

まず、端 P と余端 φ というものがある。端というのは、すべての E から E -> P が一意的にあるような集合、余端の方は、φ -> E が一意的にあるような集合である。これはタネアカシをすると、P というのは一者集合であって、古典的に「集合とはヒトマトメにされたもの」という、ヒトマトメを意味する。「一」とはなによりもまずイレモノとてあるのであって、宇宙こそ一なりとはインド哲学風ではないか。始原の方の φ は、これまた空集合すなわち「無」であって、万物に無は偏在するという、空集合をすべての集合は含む事実に対応している。

要素の外延性は、「集合論公理」でも、もっとも基礎的な意味を持つわけで、この体系でも、それは重要な意味を持つ。このことは、一者で集合は生成される、という原理になっている。生成というのは、任意の f:X -> Y, g:X -> Y について、f ≠ g ならば、xf ≠ xg となる P -> X が作れる、ということである。つまり、f と g の識別は P を基礎として行ないうる、ということを意味している。これにたいして、Y -> I によって fδ ≠ gδ とできる方を余生成というが、この場合は普通の形だと
I = {0, 1}
という「判断」の集合をとることができて、識別は I に照射して可能なのである。
ここで、0 と 1 と 2、すなわち「無」φ と「一者」P と「判断」I、そしてそれから世界の構築される原理によって、「集合論の公理系」を作ろう、というのがローヴェルの「集合論」なのである。

そういったものがどうやって作られるかは、上記の原典にあたるなり、いろいろ自分で確認してみてくださいな。
プログラミング言語で、毎日、プログラムを書いているプログラマーは、その「速度」に魅了される。これは、毎日、やってるやつらにしか分からない。ライプニッツ的世界が「動きだす」。ものすごいスピードで。
サッカーの日本代表が、イングランドにかかんに、挑んでいく。屈強な、奴らのディフェンスは、鉄壁だ。隙がない。油断をしていれば、すぐ、奪われてしまう。この鉄壁の暗号、鉄壁の「未来」を打ち破るには、今までの、私たちの「思考」では、足りない。どうしても、迂遠な議論は、思考が反射を遅らせ、相手の予測を許す時間を相手に与えてしまう。
私たちにもっと必要なものは、より直接に、「世界」に向かう。そういう、ロジックだ。
相手の反応の一枚上、一つ上の動きで、相手にしかけ、フェイントで相手の動きを幻惑し、相手の動きを「支配する」。相手は、お前の動きについていけない。常に、一歩先を行くお前の「速度」が、いつの間にか、相手を追いてけぼりにし、
ぶっちぎる。
ゴールは、もう目の前だ。