ちょっとそこまで論

人々は、なにか、行動を行おうとすることを、億劫がる。
メンドーだw。
そうやって、みんな、休日は、寝て過す。
おいおいw。
お前は、会社に行って、帰ってくるだけの、ロボットか。
しかし、この、なにもやる気の起きなさ加減は、どーしよーもないだろー。
しょうがない。
これこそ、しょーがない。しょーがない論。
どんなに日本人は、サッカーがヘタで、守るしかできないとバカにされて悔しくても悔しくても、自分が休日、なにもやる気にならないのは、事の必定。しょーがない。世の中はそーできてる。
しかし、そーだろーか。
考えすぎなのではないか。
「どこ行くの?」「ちょっとそこまで」
人がディプレッシブになるのは、自分がやることに、反証可能性まで含めて、完膚なきまでに、反論の余地なく、理論武装して「勝たないといけない」と思っているからではないか。
しかし、いーのである。負けるのも。負けるとは負けてやる、ということだ。勝つとは勝たせてもらう、ということだ。どっちも、プラスサムゲームに決まってる。
もっと言えば、そこまで思い込んで、深刻に考えなくていいのだろう。みんな、自分がやることが、バカでマヌケだと言われることが耐えられない。だから、なにをするにも、反論の余地を残してから、始めたい。そんなとこですかね。村上春樹の小説みたいなものだ。やたら理屈っぽい。いーんじゃない? もーちょっと、イラショナルに振る舞って。
相手に突っ込まれて言い返せないことがディプレッシブなら、それ用の「答え」(作法)を用意すればいい。それが、
「ちょっとそこまで」論
だ。この、ほとんど、なんの意味のない、慣用的なフレーズは、さまざまな日常的に行われている、あいさつ、の一つだ。会話の流れで、これがでてくると、たいてい、そこから、先に深く掘り進めることを「慣用的に」やらない(もちろん、やらないことに意味などないのだが...)。
意外と、こういった、慣用的なフレーズの威力というのは、意識されていないものなのかもしれない。実際、形式論理上は、ただの、それだけの意味しかない。しかし、さまざまな慣用的なフレーズには、さまざまに、人々の日常会話が、円滑に回るための、仕掛けに満ちている。
会話というのは、一つの、人間関係を円滑に回すための、潤滑油のようなところがある。形式論理上、ほとんど意味不明のフレーズが、その中では、連発するが、全体として、そういった表現が、ところどころ連発している方が、ストレスの少なく、ハッピーな会話になっているケースが多い。
会話の応酬というのが、ライプニッツ的「窓のない部屋」に住む、人間の孤独の傷を舐めてくれる、一つの慣習的なスキンシップなのだろう。この、内的に閉じた、人間個々の生活圏において、毎日ほとんど変わらない生活スタイルを反復する、我々人間のその、生活作法は、その日常において、毎日同じことをすることが「重要なのだ」。そのことで、同じ反応を確かめ、日常が「変わりない」ことに「安心し」、今日も「私の太陽」が同じように昇ることを噛みしめるのだろう。
ただし、そういった意味だけでなく、掲題の表現には、実際に、人々を行動に導くヒントがあるように思える。「ちょっとそこまで」という表現の中のその「そこ」というのは、普通、非常に近い場所を指示する表現(矢印)であるだろう。
しかし、その表現が、休日に、ちょっと遠出して、いろいろ冒険してこよう、という、かなりおおがかりな話にまで、適用されることの意味とはなんなのだろうか。
つまり、大事なことは、そういった「冒険」が大仰なものに思われるのは、「最後から見た」からだということなのだ。結果として、大変にトラブルの多い、考えるだけでも気苦労のする、他人に「なんでそんな疲れるだけのバカなことやっちゃったんだ」と言われ、反論を考えなきゃならなくなるような、そんなディプレッシブに襲われるアイデアになるのは、要するに、結果から考えるからだとも言える。
しかし、いつもいつも、そんなふうに考えていたら、恐らく、ほとんどのことは、なんの足の一歩も踏み出せなくなるだろう。例えば、今日、自分がやることの可能な可能性を「全て」列挙して、それらを、「分類」していく(社会学者が好きそーですね。まさに、デカルト的分割)。地球上には、何科の動物が、どれくらいいて、こいつは、その中のどれに属するのかを全部割当てて、...(そういや、イルカって、魚でしたっけ? スイカは果物なのかなー)。そうすると、世界の確率空間が決定する。じゃあ、その中から、「最適解」を見つけよう。ポートフォリオを計算して、っと...。
やった。今日、俺が何をやればいいのかが「分かった」。
メンドくさっwww。
いーんじゃない? とりあえず、思いついた方向に、とりあえず、足を進めてみたら(イルカや、スイカも、とりあえず、まわりの人がどっちが納得いってそーかで、倒しておけば)。いろいろ、めんどーそーだと思ったら、その思った時点で、考えれば。
こういった考えを、「確率過程」と言う。確率過程の特徴は、最初は、その確率空間の情報量が圧倒的に少なくて「いい」、ということである。この確率空間は、四次元ベクトルとして、「時間軸」をもっている。つまり、時間が進むごとに、その確率空間の情報量が、少しずつ増えていく、という考えである。しかし、こういった世界観は、私たちの日常と矛盾しない。時間が進み、いろいろなことが分かっていくことで、経験値が上がり、さまざまな判断の質が上がる。なにごとも、経験だったりする。
マーケティングなどでも、なにからなにまで、「戦略」がどーこーという話をしたがる。でも、やってみないと、よく分かんないことって、多いものでしょう。
まず、最初に、非常にアバウトな、「矢印」を引いてみる。その、なんとなくーな目標に。
ちょっとそこまで、コロンブスの世界一周して、アメリカ大陸発見してくるわー。
www
ちょっとそこまで、南アで4強に入ってくるわー。
wwwwww
すると、どうだろう。なんか、別に、まったくもって、すかっすかの、情報量の確率空間なんだけど、「とりあえず、足が前に進まない?」
人間の体の構造からして、人がすくっと立ち上がれば、自然と足が前に進み始める、歩き始めるものなのだ。じゃあ、なにがその邪魔をしているか。ディプレッシブなその人の思考が、なんでしょーね。
でも、案外、難しく考えなくても、いいのかもしれない。なぜなら、「歩きながら、後で、考えたって、いいんだから」。実際、運動は、人の健康によかったりもする。また、歩いていれば、予測もしない、いろいろな現場に居合わせて、さまざまな人生経験を積むことにもなるかもしれない。そもそも、散歩がそうであるように、歩くことこそ、人の思考を活発に「健康に」する。
矢印型思考において、もちろん、「今ここ」における選択肢(つまり、儒教で言う「道」)は、まさに、360度、いろいろあって、どれを選ぶか悩むものだろうが、そういった、多様な「矢印」はあるとしても、とりあえず、遠くまで、一本、ずいぶーんな、あばうとーな、のを引いてしまうわけだ。
そうすると、気が楽になる。
上記の、今何をやるのかの、その360度、ほとんど無限に思える選択肢の中から、なんとなーくでも「選べないだろうか」。だって、なんとなくでも、その同じ方向を向いてそーな、矢印の中からてきとーでも選んでおけば、「それほど間違ってない」って感じはしないっすかね。
矢印型思考は、ようするに、モノ的思考に比べ、(言語そのものが余計な寄り道をすることなく)世界に直接アクセスする、強引に、世界のデバイドに「ハック」していく、そういった、ダイレクト感、つまり、思考の「速度」をもっているように思われる。もっと、どんどん、「直接に」世界をハックしていってもいいのかもしれない。
アニメ「Angel Beats!」第10話は、ゆいにゃんの人生が描かれる。それは、
感謝
の物語であった。彼女が生きていた頃、ずっと、体を動かせない毎日であった。ほとんど毎日を、ベットに横になって過す。彼女の唯一の「世界」は、テレビの中にあった。毎日、テレビを見続ける日々。でも、彼女はそのテレビの中の人たちのように、自分の体を動かすことはできない。彼女は毎日、想像する。自分が、そういった人たちのように体を動かせたら。バンドのボーカルができたら。野球のホームランが打てたら。マラドーナの5人抜きができたら。プロレスのジャーマンスープレックスができたら。(女の子ならだれでも夢みる)こんな自分を好きになり結婚してくれる人に出会えたら。
「おまえと結婚してやんよ」
でも、彼女が最後に成仏を「選ぶ」イメージは、そんな自分を好きになり、そんな自分と結婚してくれると言ってくれる相手の、自分に毎日、お世話をして、人生のかなりの時間を費してくれた、母親への心残りに対する一言であった...。
「私のお母さん、楽にしてあげてね」「まかせろ」「よかった...」