見る人

アニメ「Angel Beats!」 の前回の内容は、私には、ある意味、かなり、重要に思えたのだが、ツイッターの反応も、それなりに分かったような反応ではなかったか。
あるクリエーターの方が、ゆいにゃんに日向が、子供が産めなくても結婚してもいい、みたいな発言をしているところをとりあげられて、一種のPCではないか、とつぶやいて、とげったーで人気記事になっていたと思ったら、ブログの方の記事は、その部分が削除されていたということらしかった。そうなると、どういった文脈でそういったことを発言されたのかが分からず、逆の言論弾圧でもあったのかと心配になってくる。しかし、このネット上のブログ文化においては(ツイッターはブログの一種ですね)、一度公開したコンテンツがいつのまにかなくなっているのは、いつものことだ。
この前のアニメ「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」もそうであったが、どうも、作品のさまざまな場面が、「文脈として」つながっていかない。その場面が、なぜ、そこにあるのか、その必然性が多くの場合、よく分からない。ナキオチがいいわるいじゃなくて、作品として、「ちゃんと」描けているのか。
こういった批判はきっと、ごもっともなのだろう。しかし、テキスト・クリティークというのは、読む人それぞれ、いろいろな感想があるのではないだろうか。感想の種類は、読む人の数だけある。私は、原則としては、そういう考えだが、それでは、科学にならない。そこで、科学では、それらを、いくつかに、グループ分けして、なに系なに系と、レッテル貼りをしていく。それが悪いといっているのではないけど、だからといって、だれもがその分類を受け入れなきゃならないということではないのだろう。
私が、あの回を見た印象は、ただ一点、現世で生きていた頃、毎日毎日、ゆいにゃんは、朝起きて寝るまで、テレビを見続ける、そういう
イメージ
であった。そんなこと現実にあるわけないと思われるかもしれないが、私にはそういうイメージで読解していた。体が動かないといっても、それなりに動いたのだろう。テレビも見たくないときは、消しただろう。そうなんでしょうが、私のイメージは、朝起きたら、ずっと、なにも考えず、テレビを無表情に「見続ける」そういったイメージであった。
そうしたときに、これこそ、さまざまな文学作品などでも描かれてきた、「見る人」の一つの形なのかもしれないとは、ちょっと思った。この世界を見つづけ、決して、自分から、この世界に働きかけることはない。ただただ、観察する人(アニメ「戦う司書」にもいましたね)。
ゆいにゃんの世界。
突然、明らかになったこの世界が衝撃的だったのは、その前の回まで、あれほど、この黄泉の世界では、元気活発だったから、ですね。だからこの回を見たとき、なにかそれは、
あってはならない
ものを見させられているように思うわけですね。
彼女は、来る日も来る日も、ただただ、テレビを見続ける。ただただ、無表情に。
ああ、あいつが笑った。
こいつがこんなこと言った。
次は、こんな場面だ。
...
そして、あるとき、
ふっと
頭をよぎる思うわけです。あんなふうに、バンドのヴォーカルがやれたら...。あんなふうに、野球のホームランが打てたら...。あんなふうに、マラドーナの5人抜きがでいたら...。こういったことを、世話をしてくれている、母親などに話していたかどうかは分かりませんけど、一つだけはっきりしていることは、
彼女が現世において、「決して」それらの思いがかなうことはなかった
ということですね。この、どこまでも、
静的な世界
を私たちが想像してみる、ということは、どういうことなのか、と、ちょっと考えたわけですね。そうやって、ゆいにゃんの視点でずっと考えたときその、最後、というのはなんなのだろうか? そう思ったとき、自分の死の最後のその日まで、
ずっと
自分のために多くの時間をさいて、世話をしてくれた、母親への日向の言葉に、安堵を覚えたというのは、実に、自然に思えたんですけどね(どうですかね。そもそも、ゆいにゃんの視線になって考えてみよう、という態度が、ダメですかね)。
もちろん、今も、多くの方々が、さまざまな病気に苦しまれている(そういえば、なんのつながりもないですけど、ishikawa-kz さんのツイッターがたくさん、つぶやかれていて、ご病気がちょっと気になってたところもあったんですけどね)。病気ということでいうなら、現代人は、なんらかの病気を少なからず、幼少から係わってこなかった人はいないくらいに、「現代的」なのかもしれない。病気こそ、この21世紀においても変わらず、一貫して人間を代表する、人間の存在形態、
ホモ・ホスピタルス(造語)
ということなのだろうか。
ここのところ、

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

を読んでいる。桐野さんは、「OUT」をたしか読んだ記憶があるが、忘れてしまった。2ch で、ニュース記事を見かけてなのだが、例の、東電OL事件を題材にした小説である。私がこれについて書きたいなと思ったのは、

クール・ジャパン 世界が買いたがる日本

クール・ジャパン 世界が買いたがる日本

という本があって、とにかく、日本のサブカルチャーは「クール」だ、と。売れる、という話が書いてあるようなのだが、私は、あまりそういうものに、いい印象がなかった。クールという表現は、スラングで、なんに対しても使われる、若者用語みたいなのなのだろうが、あまり、こういうものを必要以上に、礼賛するのは違うんじゃないかと思ったところもあったから、である。
日本のサブカルチャーは一方で、クール・ジャパンなんでしょうけど、それは、他方での、桐野さんが描くような、バルザック的とでもいいましょうか、「普通の」人たちが、普通に「醜く」ふるまってしまう、その性(さが)、と相補的になって、ある種の、アニミズム的なエネルギーとなっているんじゃないだろうか。
日本が冷戦時代に先進国だったということは、いずれ、東アジアの国々は「日本のアポリア」を追認していく、ということなのではないだろうか。だとするなら、その「答」も、もしかしたら、日本に「こそ」あるのかもしれない(ちょっと、ヘーゲルみたいに、歴史的使命、とか言ってみたりして)。
今回、管さんが総理になられまして、そういえばと、この前、小野理論、について書いたことが気になり、ちょっとブログをみてたら、小島さんが稲葉さんに、けちょんけちょんに怒られているのを見かけ、あらあら、とちょっと思った。それで、小島さんのブログの最初の指摘の記事も、修正されたようで、いやはや、すごいな、と。お互い学者なんだから、研究論文で競われれば、とは思わなくはないのだが、稲葉さんの小島さんへの、(どっちかと言うと人格レベルの)説教が止まらない。

それでも原則的には、誰かが自分の魂よりも祖国を優先してくれているからこそ、我々凡夫は己の魂に汲々としていられるのであり、そういう人への感謝を忘れてはならないし、いざというときには自分もそうやって祖国に奉仕する運命に襲われてしまうかもしれない、くらいのことは考えておくべきだ。(この辺の物言いは田島正樹先生や永井均先生を念頭に置いている。)
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そういった面はあるのでしょう(だから、公務員は厳然として、いる)。とにかくも、もともと、つもる、不信感があったということなのでしょうか。お互い実名で、アカデミックな世界の住人なのですから、そう「自分を売る機会」などと肩肘はらず、冷静に議論されればいかがか、と(ちょっと、学生の印象が恐くならないですかね。私は、科学とは無限の未来への裁判だと思ってますので、気長に結果を出されてもらえば)。
それにしても、稲葉さんは、けっこう思っていることを、素直に書かれていますね。
たとえば、以下の記事は、自分のような、だめだめには耳が痛い。

ある種の都会的リバタリアンは、差別が嫌いであるにもかかわらず、人が私生活においては差別を行う権利を認める。ただ、広い世間ではそういう了見の狭いイケてない奴らは、嫌われ疎まれ相手にされない(競争に勝てない)だろう、と本音では思っているのだ。
以上の理論はしかし、アナルコキャピタリズムにはどの程度当てはまるか、定かではない。
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ただ、以下のような、おもしろいことも言っている。たとえば、以下の、小玉さんという方の発言

正直言って、何の芸もないくせに偉そうに能書きだけ垂れるような類の人間を大量生産することが教育のもっとも崇高な目的であるといった議論が堂々と展開されていることに、いささかの驚きを禁じ得ません。
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に対するレスが以下になるわけですね。

まず現に我々が既に遂行している抜け道を見てみよう。「無能」もまたこの世においては、別種の「能」として解釈されなおすことなくしては、存在することさえできないのではないだろうか。「無能なくせに偉そうに能書きたれる」という「能」として。これはもちろん「完全」で「善」なる「無能」からの堕落に他なるまいが、それは不可避であろう。「奴隷一揆」「価値転倒」によって「有能なる者たち」の優位に立とうとするのではなく、こっそりと裏口から「有能なる者たち」の仲間入りするという戦略。現実に「無能なる者たち」がとっているのは、このような道ではあるまいか。
あるいはまた、「有能」概念の転換の可能性について考えてみるべきだろう。田崎自身、「(少なくともある時期まで)ドゥルーズ生の哲学は受け入れがたかった」と述べているが、ドゥルーズ唯物論は、おのれの不完全を恥じない、それゆえに「無能な者たち」を追い回すことなく放置する(それゆえに「無能な者たち」も超然としていられる)「有能な者たち」の可能性の余地を残していると思われる。
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こうやって見ると、稲葉さんも、おもしろい人だな、と思うのだが、どうなのだろうか。
ところで、以前の指摘の記事

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には、例のヒマジナリーさんのエントリーが追記で、リンクされている。この方のブログも、毎回、おもしろく読ませてもらってますが、その記事では、数理物理系出身の経済学者のマクロ経済学の理解が不充分なのではないか、ということを指摘しているものになっている。おそらく、その指摘は、往々にして、正しいだろう。だから、上記のような、稲葉さんのいらだちがあるのだろう。でも、そうだとしても、研究者としてなら、問題は、論文の質なのですから、お互い切磋琢磨してもらえばいいわけですね。
ただ、おもしろいことに、最近、ヒマジナリーさんはちょっとしたことを指摘している。

過去数十年間に経済学が発達してきた際、技術的な要求水準、特に数学の要求水準は、非常に高くなった。こうした新しい数学のツールや技法を大学院課程にはめ込み、必要とされるだけの労力を注ぎ込むためには、他のカリキュラムを削減する必要があった。
経済学部の当局者は、削減すべきカリキュラムを求めて周りを見回し、真っ先というわけではないにしても、最終的には米国経済史と経済学説史に目を付けた。これは間違いだった。今回の危機を我々が見逃した理由の一つは、危機がどのようなものかを我々が忘れていたことにあったと思う。

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そして、圧倒的に、ネタとして、おもしろいのが以下だ(どうでもいいけど、ヒマジナリーさんは、タグで、ネタ、って使うけど、もし私がそのルールを採用したら、全部のエントリーにつけなきゃならなくなる)。

このイースタリーの考え方を適用すると、経済学は明らかに日本の比較劣位分野なので、そこは上記4ヶ国に任せて撤退し、従来経済学に投入してきた資源を他の得意分野に振り向けるべし、ということになる。構造改革派的な言辞を弄せば、優秀な数学の能力を持つ人々が経済学という日本の比較劣位分野に塩漬けにされているのを解放し、理工系の分野に振り向けるべき、というわけだ。
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私は、もっと人々は、「他人のせい」にしてもいいんじゃないか、と思わないこともない。学校の勉強だってそうだ。自分が成績が悪いのは、「先生の教え方が悪いにきまっている」。生徒が、おちこぼれるのは、教師の敗北でもある、という考えは間違ってますかね。もちろん、その答えをだれかがいつか見つけてほしいとは思うが(こういった、インターネットの技術がその一助となっていくのでしょうか)。
(あと、匿名、ペンネームで、さまざまに記事を投稿されていた方の、実名が誰だったのかを、亡くなられたら、書かなきゃいけないんでしょうかね。それが、生前のその人の意志なのでしょうか)。