森和昭『日本のクラウド化はなぜ遅れているのか?』

コンピュータというのが、チューリングノイマンの時代に生み出されて、さて、このアイデアは、
どこまで行くのだろうか。
この実に、単純なアイデア。ほとんど、数えるくらしかない、ルールの繰り返しだけ。ところが、これが、この21世紀の現在まで、ここまで発展した。さて、この思考実験、どこまで行くのだろう。
最近話題の、クラウドも、そういった延長で考えられる。
コンピュータの能力は、CPUに尽きている、と言っていい。ここを、どれだけ、高速で回転させるか。どれだけ多くの情報を、どれだけ早く処理できるか。そう考えると、そういった能力を私たちの手近な場所に求めることは、不適当なのかもしれない。なぜなら、それほど大規模な設備を、ただただ、「自分のために」求めるというのは、効率的でないからである。そんな大仰なものを一家に一台スーパーコンピュータとか言っても、
自分の手に余る。
日々の日常で、それほどの計算速度は、ほとんど、不要だからだ。たまに、ちょっと、いるのである。たまに、勉強させてくれる(キッコねーさん、教えてくださいwww)。
だとすると、どうなるか。いつものことである。「インフラ化」だ。みんなが必要。だけど、みんなが一家に一台、そろえるには大仰。だったら、みんなで共有すればいいのだ。まさに、日本人。天子様のお子として、日本、一国「家」に一台。水道だって電気だって道路だって鉄道だって空港だって学校だって役所だって通貨発行だって「一家に一台」はいらねーよな。

つまり、ここではICT(Information and Communication Technology:情報通信技術)そのものがガス・水道・電気などと同様に社会インフラ化して、ユーザーは「必要なときに、必要なだけ」の各種サービスやリソースを利用できるのです。すると、従来のようなICTシステムへの高額な投資(パソコン、サーバー、アプリケーションなどの資産所有とそれらの運用・保守費用)を必要としない、全く新しいICT利用環境が実現します。すなわち、ICT資産の「所有」から「利用」の時代へと大きく転換することになるのです。

極端に言えば、それでいーのである。コンピュータなんて国に一台あればジューブン。みんなのトラブル対応は、ぜんぶ、そん中でやってもらえばいーのだ。
しかし、これは、どういう事態なのか?
まず、私が今、なんかサービス欲しい、と思ったとする。次に起きるのは、その自分のサービス取得要求メッセージが、日本に一台の国コンピュータ(以下、略して、国コン(ゼネコンみたい))に、できるだけ早く、伝達される必要がある。そして、計算してもらった結果を、私の需要に対する供給、つまり、サービス結果応答が、自分の元に、できるだけ早く、運んでくれればいい。
これだけ。
ようするに、国が整備すべきことは、簡単だった、

  • 自分が要求したり応答することを可能にする、(G)UI層。
  • 自分と、国コンの、メッセージを「できるだけ早く」伝達するインフラ。
  • やたら計算が早いだけがとりえの、国コン(日本に一台の国コンピュータ)。

しかし、このイメージは、私たちの常識を
破壊する。
企業は、自社の販売サービスを回していくための、社員情報から、販売情報から、一切を「自社内でもたなくていい」。そーである。電気だって道路だって...みんな自分じゃもってない。同じように、そういったものも全て、国にもっててもらえばいーのだ。いーのである。「全部国にやらせれば」。
ということはどういうことか。もちろん、各社のサービスを全て、一台のサーバーにやらせるのは、どだい無理だが、もしそれを、何社かをまとめて、一台で動かしても、各社のサービスがそれほど激しいものでなければ、問題なく動くだろう。また、各企業のサービスといっても、各社それほど違っているわけじゃない。同じように、課長がいて、部長がいて、社長がいて平社員がいて、営業でモノを売って、必要なら、モノをレンタルするなり購買するなり。場合によっては、自社で開発もいいが、多くの場合はそれは、アッセンブリング。組み立てがメイン。つまり、物流管理と部品管理だ(一部、研究所があればいーんでしょう)。
ようするに、その中の「効率」化など、好きなだけやってもらえばいい。こっちは、ユーザー満足度が満たされれば、中でなにやってようと知ったこっちゃない。そんなに違いやせん。何個かのパターンで同じプログラム動かして、一部、各社ごとの、需要があるところは、それはそれで、パッチを当てる。各社の情報を同じプログラムで動かして処理できれば、もしかしたら、いっくらでも、「効率化」できるのかもしれないが、いずれにしろ、そんなことは、
自分には関係ない(自分の会社のことなのに)。
そんだけ。
しかし、これは、それだけに、とどまらない。
一切の、人間活動
について、私は言っているのだ。子供が、宿題をやらなきゃ。「国コン、今日の宿題なに?」。おばあちゃんが、今日のゲートボール大会の道順が分かんなくて困ってるみたい。「教えて、国コン」。ママ、こんど産まれる赤ちゃんの名前なににしよーか。「教えて、国コン」。あっ、言うの忘れてた。「ありがと、国コン」。もしかして、どらえもん、って、実は、そーゆー奴(3次元GUI)だったのかもね(ついでに、長門有希、も)。
もちろん、人によってはこう言うだろう。それじゃあ、お前は公共工事至上主義者か。族議員にたかる、パンピーか。私はそんなことを言いたいわけじゃない。今は、
大航海時代
なのだ。各企業が自らこそ、「世界の覇権を握ろう」と、切磋琢磨している。私たちが、当たり前のように、検索サービスを使うとすると、グーグルやヤフーを使い、ミニブログでみんなとつながりたい、となると、当たり前のように、ツイッター国家の国民に入れてもらう。もちろん、そこに競争があるという表現は正しい。しかし、その競争とは、ほとんど、独占と紙一重のところがある。市場をほぼ独占する競合他社は常に数えるほどしかない。私たちは、果して、こういったものを、「競争」と呼ぶのだろうか。実際は、彼らは、そのように考えていないのかもしれない。今、は、大航海時代。先に、世界中を「植民地」にした、企業こそが、大英帝国のように、その後の、繁栄を約束される。
おそらく、そういう「可能性が十分にある」、と思っているんじゃないですかね。そういった特徴があるじゃないんですね、コンピュータには。
(実際は、現在においても、起きている現象ですが、こういった動きにも、バックラッシュはある。情報は各企業にとって、死活問題であるから、だ。企業秘密が外部に洩れたら、それは、将来に渡っての負けを意味するだろう。各企業は、そこを、簡単に他人に預けたりはしない。そういう意味で、掲題の本では、むしろ、将来に渡って必要な人材とは、セキュリティ・スキルをもった人間となるだろう、と言うが、セキュリティとは、どこか、背理のようなところがある。暗号がそうだが、人間があるルールで暗号を作れば、比喩的に言えば、逆アセンブリング、してしまえば、解凍されちゃう、ってことだ。しょせん、人間が作ったものでしかないのだから、人間なら元に戻せるのだろう。いたちごっこのようなところがある。)
両雄相並び立たず。
神は一人でいい。
いやはや、恐しや、ライプニッツ的世界。

日本のクラウド化はなぜ遅れているのか?

日本のクラウド化はなぜ遅れているのか?