告白再論

どうも、先週は、仕事が忙しくて、疲れていたのでしょう。ちょっと、風邪ぎみだったのか、喉が痛く、頭がぼーっとしていた。ちょっと薬を飲んだら、楽になった。
映画「告白」は、おそらく、今年の問題作の一つになるのでしょうけど、とにかく、なかなか評価が難しい作品だなあ、というのが、一夜明けた印象だ。
とにかく、若い人が、たくさん見に来ていることをよく考えた方がいいんじゃないか、と思った。大人がこの映画を無視するのはいいんだけど、少なくとも、非常に多くの子どもたちが見ていることを考えた方がいいのではないか。
つまり、見てみた方がいいんじゃないですかね。
なんというか、なかなか、私には評価が難しいのかなあ。
なんというか、自分もいろいろな作品を見ているわけじゃないので、比較して発言できない、という面があるんですよね(私もただのシロートですから、こうやって印象批評しかできない。いつもそうだ)。たとえば、映画の監督が、文庫の最後にインタビューがあるんだけど、以下のように言ってるんですね。

中島 とにかく、脚本を書き始めてみると、それぞれの登場人物がどういう人間なのかがまるで、わからなくなりました。そして、撮り終えた今も実はよくわかっていません。監督としては無責任ですが、各人物のキモの部分がどこにあるのという結論は結局出ませんでした。まあ、出すつもりもないんです。それは、本を読んだり、映画を観た人が自分で出せばいい。僕がこの作品をおもしろいと思ったのは、読んだ後に書かれていない部分をいろいろ想像できる点にあったんです。

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)

これが、芸術なんでしょうね。ちょっとサイエンスと違いますよね。正直、だとするなら、なんで監督はこの映画を撮ったのか、その監督自身「にとっての」動機が、そもそもあるのかな。古くさい言葉ですけど、あったとしてそれって、「主体」的なものなのか。そういう面では、興業的に成功しそうな可能性をいろいろ考慮して、こういう映画にした、というくらいのマーケティング的なメッセージしか感じないんですよね。
今週の、videonews.com で、宮台さんが、マーケティングの話をしていますが、つまり、マーケティングの現場における、調査って、実は、調査じゃないんだ、と。たとえば、新聞各社が世論調査をする。ところがそれって、さんざん、自社の新聞でキャンペーンしていた内容じゃないのか。どこまで、自分たちのプロパガンダが成功したのかを確認している印象なんですね。マーケティングでの調査も同じで、調査をすることで、実は、世間にこの商品の印象を変えさせる、いい印象をもってもらえるような、「調査」の仕方を戦略することが「調査」なんだ、という、なんとも「世直し」色くさい考えなわけですね。
なんか、世の中、なにもかもが、マインドコントロールなんだ、というメッセージなんですね。
まあ、実際にその通りなんでしょう。そういったことが、ある意味、「文系」の感覚なんじゃないですかね。
ただ、そうなると、人々が発する、一切のメッセージは「預言者」や「巫女」として、ふるまっていることを自覚しろ、ってことになりますよね。
だんだん、各メッセージの実体が曖昧になっていきますね。なにが真偽の意味での真なのかを考えようとすると、その時点で、「純粋真っ直ぐ」ちゃんと、嘲笑の対象になる。でも、実際に現場においては、さまざまな、格差や日本の地位低下が起きているのに、あいかわらず、国内はこういった預言者ゲームで、大切なことを言ったつもりになっていて、国内のさまざまな権力の均衡のゲームばかりやってる。そもそも、生産的な議論じゃない。
(あまり、世間向けの啓蒙書ばっかり読んでないで、ちゃんと、レフェリーによるジャッジを受けた、論文をベースに考えた方が、いいということなんでしょうか。)
宮台さんの言う、最小幸福論も、社会、という言葉を、「現場」と呼び直せば、それほど、私の感覚と違う感じはしなかった。
でも、ちょっと疑問に思うのは、映画のウェルテルのようなメッセージが管さんの所信表明にあったのかな、というところでした。この映画「告白」では、どこまでも、ウェルテルはバカな道化師として描かれますが、はっきり言って、この映画でまともなのは、彼だけじゃないんでしょうか。だって、実際に、彼は知らないんですから、彼の慣習的な作法として、あのように振る舞ってしまいかねない、ことはしょうがない部分はあるわけでしょう。あまりに、ナイーヴなんでしょうけどね。でも、そういう、まとも、になると、ばかを見ますよ、というプロパガンダにも見えるわけですね。たしかに、ここの部分は映画としては難しいところでしたけど。
でも少なくとも、管さんの就任会見のようなところでは、もうちょっと、未来に夢があるような、前向きなことも言ってほしいんじゃないですかね(庶民派政治の強調は重要なのでしょうが)。科学の発展や、人々の知識が深まることが、人生をより深みのあるものにしていく、みたいな。しかし出てくる言葉はどこか、(どうやったら昔のように日本が経済商品をたくさん売れる時代に戻れるのかの話題も含めて)どうやって社会の秩序を保てるのか、みたいな話に聞こえて(少なくとも、宮台さんの最小幸福論はそうですね)、美人投票じゃないけど、おもしろくないんですね。
それって人それぞれの印象なんじゃないかと。人が自律的にやりたいようにやっていく中で、でもそれなりに、各自が自分を律することが重要だということを「気付いて」いき、そして、それなりの秩序が自然にできていく、って、どうして言えないのかな。どうも、コントロールくさいんですね。預言者くさいんですね。
いずれにしても、もう少し、基礎研究やサイエンスの理論の話、そういうものが「おもしろい」という話をしてほしいんですけど、あんまり、興味はないんでしょうね。そういう底辺のベースを鍛えて、内発的に、というメッセージについては、管さんの就任会見では、少なかったかなあ。