比較劣位分野に塩漬けにされる才能

この前、紹介した、ヒマジナリーさんの「ネタ」について、私はネタでなく、「本気(マジ)」で、人々は考えた方がいいんじゃないか、と思うようになってきた。
その一番のきっかけは、映画「告白」を見てでした。この映画は、徹底して、科学に興味をもち、自分で機械を組み立てて、作ってみようとする、「優秀な」子供を、
頭のおかしい
異常な子供として描きます。もちろん、作者の意図は、むしろ、マザコンの方にあるのでしょうが、このお母さんが、また、学者として忙しい毎日に、子供をスパルタで教育する、
頭のおかしい
母親として描きます。つまり、作者は、科学などという、非人間的なことに興味をもつような人は、
頭のおかしい
連中にきまってる、と言いたいようです。
もちろん、監督としては、明らかに、クラスの子供たちのイジメのエスカレートなどkから(みんな結果としては、おかしくなるわけで)、そんなに簡単に、なにが正常でなにが異常かを区別できない、というところの方に意図があるのでしょうけど、まず、一次的な情報として、そのように読めるわけですね。
別に、私はそれを全否定したいわけではないですけど、逆に、そんなことでいいのか、とも思うんですね。
今回の管総理の、就任会見にしても、日本のさまざまな分野の才能のある人たちに、どうぞ活躍する場を与えますので、好きなだけ、能力を発揮して下さい、というメッセージではなかったですよね。
幸福は人それぞれ。だから、政府の役割は、それを邪魔しないこと。極端に落ちてしまう人を出さないこと。これって、宮台さんが昔から言っている、成熟社会、から、まったり革命の流れですよね。でもその、成熟って、非常に、曖昧な概念ですよね。まずもって、「人それぞれ」と言ってしまうと、じゃあ、人間の基盤となるものは、なにもなかったのか、ということになりますよね。
そんなことはないはずでしょう。だから、子供たちは、学校で基礎的なトレーニングを積むわけですね。読み書きそろばん。でも、これだけでは、複雑な今を生きることはできない。そこから、法律や経済を学ぶ。
そして、立派な、常識人が完成する、ということでしょうか。
しかし、これで、十分なのでしょうか。あきらかに、必要なのは、新しい、世界に「比較優位」な、才能なんじゃないでしょうか。

たとえば、(構造改革派の筆頭である林文夫氏が最近赴任した)一橋大学のキャンパスを1/3くらいに縮小して、残りを山中教授のiPS細胞の研究施設として提供する、というのはいかがだろうか? そこまですれば、世間も、“ああ、経済学者というのは言葉だけでなく自らの学問の結論を実践する人々なんだ、彼らの言うことにもっと真剣に耳を傾けよう”という気になるかもしれない。
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まず、単純に考えましょう。だれもが、なにかを食べなければ生きていけませんよね。だったら、農業は大事でしょう。だから、昔の人は、農家に感謝しながら食べなさい、と言われた。
次に、今度は、日本人が世界で買い物ができるように、日本人が何かを作って、世界の人に買ってもらわないといけませんよね。じゃあ、何を作って売るか。一つ目に思い付くのは、工業製品になるでしょう。
そうすると、まず、日本人が身につけるべき知識は、自然科学だったのではないか、となりませんかね。基礎的なトレーニングによって、人々が正確に、この世界の基盤となっている法則を理解すること。そういった、ベースの上に、世界に通用する、工業製品のアイデアが生まれてくる。
ところが、どうも最近の風潮は、逆なんですよね。理系になるような人たちは、頭がおかしいから、人格的に危険だ、と。
しかし、そんなことでいいのか。逆に、日本の国力を押し下げることをしていませんか、と。今の環境問題だって、そうですよね。こういうことをきっかけにして、徹底して、自然に興味をもつ子供が日本の将来を担ってくれるんじゃないかと思うんですけど、そういう「奇抜」な発想をする子は危険分子。将来が不安なんだそうです。
極論させてもらうなら、そんなに、経済学や法学や政治学や心理学って、大事ですかね。それらって、結局は、自分たちの権利の再配分をどのように実現するか、の発想で、言わば、二次的な需要ですよね。まず、稼がなきゃいけないんじゃないですかね。売れるものを生み出さないと、何も始まらなくないですかね。
あと、すぐに、人格の話にするのも、いい加減にしてもらえないですかね。みんな、真面目に生きてるんですよ。ちょっと、性格の変わった子供がいたとして、むしろ、そういう子供こそ、ノーベル賞とか取ってきたんじゃないですか。たまたま、いろいろな要件が重なって、不幸な事件を起こした子供がいたからって、なにもかもを極論で、牢屋に入れておけば、安心できるというのは、少し後向きすぎないですかね。困っているなら、あなたたちの専門分野である得意の、ルールってやつでどうにかしてくださいよ。つまり、それだけのことでしょ。まず、最初に人格問題ありき、ってどーなんでしょうか。例えば、自分がある研究を任されたとしましょう。そしたら、どうしますか。詳しい人に、まず、サポートしてほしいんじゃないでしょうか。明らかにオタクが一番「使えるんでしょ」。ドゥルーズガタリ、じゃないけど、まったく違った才能の二人が一緒に活動することで、あなたの才能も開化するのでしょう。荻生徂徠まではこんなこと常識だったはずですけど、どうも日本人は(成熟じゃなくて)退化してしまっているようです。
そう考えると、もっと、自然科学への基礎的な体力を普及させる重要さを感じなくないんですよね。そういった、国民的な底辺の地力が生まれて、共通の話題となることで、始めて、国家レベルでの、重点産業への投資への国民的なコンセンサスを調達できるようになるんじゃないか。
まずもって、経済学や政治学や心理学をやっている方々自体が、そういった自覚をどこまでされているのか、という部分から、コンセンサスがいるのでしょうか。