国家と各国民の間のお金の分布

池田さんの、消費税は逆進的でない、という議論

screenshot

は、リンクされている、論文の結論から主張されている形になっている。
ようするに、「生涯に渡って」自分が稼ぐお金のうちの消費税の比率で考えれば、逆進じゃなく、たんに「比例的」になってますよ、という議論のようだ。
しかし、この論文の議論にしても笑えるのは、そこまでして、消費税の逆進性の議論を相対化しても、所得税の累進性に「比べて」、消費税の累進性は、「圧倒的に低い」となっていることだ。
消費税増税がなぜ日本の政治において認められてこなかったのかは、日本にとっての最も「庶民感情的に影響力の大きかった」サラリーマン家庭の主婦たちが、毎月、夫からもらう給料のうち、消費税で引かれる割合が、定率で増えれば、定率で、「買えるサービス」の割合が定率で減るから、その「分かりやすさ」にこそ、まったく政治家の誰も手を付けようとしない、強力さがあるわけですね。母親たちは、その重税感覚を子供たちへのサービスの低下の「言い訳」にも使うでしょうから、世代を超えて、影響は絶大となる、ということでしょうか。
ところが、むしろ、逆進性の大きいモノで、各個人がさまざまに国家によって「収奪されている」お金なんて、いっぱいあるわけでしょう。もちろん、その一番の例が、年金ですよね。これは、国民強制皆加入になっているわけで、「どんなに貧しい人でも」だれでも、「一律」同じお金を徴収される。これも、国が徴収するわけですから「一種の税金」なんですね。
つまり、リテラルには、消費税は逆進的でない、という主張には正しい面があるとしても、あまり全体のバランスを考えた主張ではない、ということなのだろう。
結局のところ、国家というのは、一方で、税金の徴収を行いながら、他方で、福祉を行っている。さらに、インフラの整備も行っているし、メキシコ湾原油流出のように、企業の有限責任の「補填」のような、活動も行っている。
もちろん、各個人の活動の自由が認められている限り、各個人はいくらでも稼ぐことが認められている。だとするなら、いつ、どれくらい、各個人は、国家に税金を徴収され、いつ、どれくらい、国家による福祉のサービスを受けられるべきか、という全体のバランスの問題で考えない限り、話は一向に前に進まないわけだ。
また、人々が「自分のお金」と考えるとき、むしろ、生涯に渡って、ある種の不公平感を持たされるのは、むしろ、「自分のお金」に対してではなく、「親のお金」に対して、という方が実態に合っているのでしょう。実際、子供の多感な頃に、親の貯蓄によって、自分が買ってもらえる、おもちゃの「質」が変わる。相続税というのは日本でもあることはあるが、別にそれは、こういった「不公平の解消を目指した」制度ではない。親は子に資産を継承するのが、少なくとも「今までの日本人の生き方」であったし、そしてそれを、イエ制度と呼んできたわけだ。
親と子はそれによって、イエの連続性を実感する。自分が貧しいのは、「貧しいイエの子」に生まれたからであって、恨むなら運命を恨めよ。ところが、日本のイエ制度にしても、このイエというのは、一種の「一子相伝」、天皇制のようなものだ。天皇の子供はたくさんいるのに、その中の長男だけが、「継承する」。じゃあ、ほかの子供たちの人生って何なのか。最近は、比較的、財産を均等に分けるという考えが一般的になったので、比較的、こういったストレスは低下しているのかもしれないが、そもそも、全然スタートラインのところで、「平等」になっていない、ということなのだ。こんなことで、貧乏人は統計的に「頭が悪い」のだから、進化論は正しいので、いいとこの子だけに、教育をしてればいい、という、「ゆとり教育=エリート教育」は効率的かつ合理的だ、となるのだから、いやはや、なんにせよ、貧乏の星の下に生まれた人は、それだけで、人間として扱ってもらえず、家畜として生きることを受け入れろ、ということなのか。
しかし、これらとまったく反対の議論もある。そもそも、自分が稼いだお金は「自分のもの」じゃないか。これを、国家に簒奪されるということは、一種の「国家による盗み」を正当化しているようなものだ。「俺のものは俺のもの」なんだから、そんな「多数決」で俺のものを奪っていくような、制度がどこまで、人間の制度として、健康的なのか。
こういった議論は、完全に間違っている、とまでは言えないのかもしれないと思うこともある。たとえば、貧しい人たちがいたとして、国が彼らを見捨てていたとしたら、どうなるだろうか。「健全な」状態なら、だれか、比較的に余裕のある人たちが、そんな非人間的な状況を見捨てておけないと、彼らに援助を始めないだろうか。それが、人間の情ってものでしょう。寄付してもらえばいい、と言えなくもない。しかし、こういった活動は、言わば、福祉国家にとっては、ある意味、「競争相手」という側面も帯びてくる。人々はどっちのサービスを享受し、恩義を感じるか、の選択肢があるということなのだから、国家がそういった善意の寄付に「多額の税金」をかけて、こういった寄付を「規制」するのには、そういった理由もあるのかもしれない。
たとえば、宗教団体にとって、貧しい人々が街にあふれた方が、信者の獲得に成功しやすいかもしれない。すると、彼らのモチベーションがむしろ、さまざまな不安定を求めることに往々にして、ならないだろうか(オウムの事件を思い出してしまった)。
国家というものがなんなのかは、一向に明確になっていかないが、いずれにしろ、今の国家がさまざまな公共サービスの提供を機能としていることを考えると、そのトレードオフとして、国民からの税金などによる簒奪が常態化する。
どうして、あいかわらず、消費税が逆進的かそうでないか、のような、「プロパガンダ」が続くのか。早い話、

  • お金:国家 --> 国民
  • お金:国民 --> 国家
  • サービス:国家 --> 国民
  • サービス:国民 --> 国家

この四つの、矢印的働きの全体を現わすような、「総体的」なモデル、をだれも提示し議論をしようとしないから、と言えるだろう。
ということは、みんな、お金に色を付けて議論するのが好きなのである。消費税はどうこう、所得税はどうこう、年金はどうこう、...。
しかし、そういった一切を区別することに、なんの意味があるのか。

  • いくらのお金が、いつ、どれくらい、どちらに移動するか。
  • いくらのお金が、いつ、どれくらい、自分の分が増減するか。

もちろん、これ以外に、その通貨の価値の増減もあるが、とにかく、社会福祉的には、極端に貧困に陥り、飢えて死ぬ人だけは出さないようにはしたい、というコンセンサスくらいは見出せるのだろうか。
なんにせよ、同じである。まず、専門家は、上記のお金の今の流れをまず「正確に」数学的モデル化を提示して、人々が全体をイメージできるようにしてほしいのだが、(そんな能力すらない専門家ばかりなのか)あいかわらず、瑣末な末端の神学論争の「めくらまし」で、金持ち優遇税制を実現することしか興味がないようだ。