海老原嗣生『「若者はかわいそう」論のウソ』

著者は、一貫して、日本の若者の就職難は、実態と合っていない、と主張する。
私も、基本的には、この認識は間違っていないとは思う。今も日本は、過去と変わらず、新卒採用は続いているし、それなりに企業は新卒採用をやめない。去年のリーマンショックでは、大きなインパクトはあったかもしれないが、全般的に、日本も他の国も、大なり小なり、年功序列であるし、企業がこういった仕組みを維持することは、合理的であるという認識は「微動だにしていない」。
著者は、この本で、しつこいまでに、「若者がかわいそう」がまったく普遍性のない議論であることを論破する。そこには、リクルート社に務め、現場を見てきた感覚が、学者の空理空論を実感として受け入れられない、ということなのだろう。
だとすると、どういうことになるのか。著者の分析と、世間の感覚が違うというとき、ある原因があるのだろう。
その一つとして、大量の大学進学率の増加が主張させる。近年、大学がまるでなにかのバブルのように、どんどん作られている。しかし、これは、なんなのだろうか。どう考えればいいのだろうか。

この呼び水になったのが、2001年の文科省による大学設置基準の緩和。地域要件などとともに、「総定員が変わらない中での、学部増設・定員変更」が大幅に要件緩和あれたのだ。資格が取れるから学生を募集しやすい、という理由で、医療/介護・薬学・看護・法律(ロースクール)・教育・心理(臨床心理士)、この6系統の拡充が大学全体の流行となり、その結果、本来こうした資格系を教えていた専門学校や短大の経営不審を招く。そこで、今度は専門学校・短大の大学格上げを認める、という形で、ボタンの掛け違いは続き、2002年から2009年までの7年間で、大学はさらに87も増えた。

私は、つい最近、比較劣位分野に人材が塩付けにされている、という文章を書いたが、これを見るとよく分かる。私は、折角、大学で学ばれるのなら、(フランスのように)基礎科学を徹底的に、研究者レベルで論文を書こうとしてくれると、少し「世界レベルの人材」の底上げができてきて、この世界に自分から乗り込んでいくとき、「自分に自信が持てるようになってくんじゃないか」というような、見通しで、そのブログを書いていたのであるが(とにかく、徹底してやらないと、使いものにならないわけだ)、上記のような、大学の増設は、なんのことはない、文系研究者たちの就職先、「天下り」みたいなものであって、生徒たちとは、資格という「調教」のトレーニング相手として見ていない、ということで、私のようなみつくろいからも、かなりかけ離れている印象は、どうしても拭えないように思える。
では、百歩譲って、彼らが、だったら、ホワイトカラーの仕事ができるようになるのだろうか。ちょっと、じっくり考えてみたいが、実は、著者も、以下の点は、あっさり認めるのである。

要は、かつての高卒・短大卒就労者の職場が喪失されている。このことに「若者かわいそう」論が力点を置くのであれば、私はあえて大反論はしない(小反論はするだろう)。

(やっぱり「若者はかわいそう」って、あっさり認めるって、どーなんでしょうね。私は、どーもこういった、文系的、マーケティング的なマインド・コントロールについていけないのだが...)。
ブルーカラーの労働のパイの低下(海外への生産拠点、流通拠点の移動)は、単純に言えば、以下の事態がもたらした、ほとんど不可避の事態と言える。

1985年のプラザ合意前の数年は、1ドル220〜250円のレンジで為替レートは推移していた。ところが、その後の3年で1ドル120円近辺まで円高が進む。さらにそこから円高はまだまだ進行し、95年に79円台をつけるまでになる。

この変化が、いかに、この日本のさまざまな構造の変化を強いたかを、一体、どれだけの人が考えてきたのかは、著者も言うように疑問であろう。ここで、日本は、まったく
違う国
になったんですね。
若者ブルーカラーの仕事が減ったからといって、若者ホワイトカラーの仕事が同じように減るわけではない。しかし、だからといって、これだけ、大学が増えて、その分の需要が「同じように増える」と考えるほど、御都合主義の話もないだろう。子供たちのスキルアップの傾向の変化が、企業の需要に反映されるわけがない。つまり、大学生の就職難は、ある意味、分かりきった事態と言えなくもないわけですね。こういった傾向にあることを、(ゼロ年代がどーのこーの言っていた人のように)「サバイバル」と呼ぶことに本当に意味があるのか、は問われるべきなのかもしれない(そういう「プロパガンダ」が一番話を混乱させ、困るのだ)。
ではなぜ、若者は就職難を主張するのか。著者も言うように、むしろ、ここには、ある「普遍的な」法則が働いていると考えるべきなのだろう。

  • 年寄の多い昔からある企業は、若者の採用が少なく、年寄のいないこれからの企業はより若い人を求めている。

多くの人が知っているような大企業が、若者の採用をそれほど増やそうとしないのは、言わば、当然と言えば当然なのである。それを、問題だと言ってみてもしょうがないわけで、むしろ、若者が(多少給料が少なくても)これからのベンチャーにチャレンジしようとしないことこそ、今の「新卒」就職活動の「限界」があるのだろう。
著者も言うように、私もそれほど、若者問題を「問題」とは思わないが(むしろ、ちゃんとアカデミズムを若者がやれるような環境になっていないことの方が、残念という方が強い)、では、著者の立場からむしろ、強調されるべき論点とは、本来どこにあるべきだったのか。

  • 高齢者世帯は年間約30万件弱増え続け、25年で700万件も増加した。
  • 高齢者世帯は所得が低く、中央値で240万円、200万円未満が約4割となる。
  • 上記から試算すると、年間約7万〜8万件、高齢者の貧困世帯が増加している。
  • この「高齢貧困世帯の増加」により、年間0・2%弱、貧困率は上昇し続けている。

著者はここについては、一切の弁解をしていない。日本は、少しも変わらず、若者有利社会であり、新卒採用至上主義であることは、微動だにしていない。むしろ、相変わらず問われるべきは、こちらなのでしょう。
そう考えてくると、むしろ、気になるものこそ、「派遣」社員問題だったのではないか、となる。派遣の何が問題だったのか。

なぜ企業は派遣を利用するのか。包み隠さず正直に書こう。
最大の理由は、明らかに「解雇が容易だから」に他ならない。だからこそ、安くない費用を支払ってまで企業は派遣を利用している。この部分が就労者にとって、最大のデメリットであることも認める。ならば、ここに最大の焦点を当てて、改善策を考えるべきではないか。

これについては、以前、伊東光晴さんの記事を紹介しましたが、問題は、一にも二にも、セーフティネットなんでしょう。
民主党は、簡単に、派遣禁止に梶を切るわけですが、ここには、どこか、労働組合系政党による、正社員保護の臭いがしなくもない。結局、守られるのは、大企業の正社員の待遇だとするなら、それ自体には、さまざまな貧困層への「セーフティネット」への具体的な対応策とは、なんの関係もないわけですね。
そこから、著者は、この本の最後で、以下のような、(リクルート社という)「現場の実感をかなり反映したような」かなり「大胆な」提案を行う。

  • 派遣の入り口をすべて、ハローワークにする。
  • すべての派遣会社は、ハローワークの作った派遣登録者DB(データベース)にアクセスして仕事を紹介する。
  • 各種給付や能力アップ研修など、求職者保護・育成はハローワークの専管事項とする。
  • 派遣基金の創設。派遣を長期利用する企業には、基金への拠出を義務化。

この最初の指摘の点こそ、伊東さんが最も強調されていたところですよね(あと、基金という考えは、もっと重要視していいのではないだろうか。私にはこれが、ほとんど「セーフティネット」と同義語に聞こえるんですけどね)。

「若者はかわいそう」論のウソ (扶桑社新書)

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