都市国家論

日本の歴史において、なんにしても決定的だったのは、江戸から明治に変わるときだったのではないか、と思う。それは、いいわるいの話ではなく、当時の人たちが、こういった変更をやらないわけないはいけない、と思っていたことが重要だったのではないだろうか。
実際に、その分析は、それなりに合理的だったわけで、戦後の日本の政治も、言ってみれば、その変革の延長で、不完全だった部分を徹底して行ったというのが実情のようにも思える。
その明治の一番の特徴は、その「東京主義」と言えないだろうか。とにかく、東京という都市「国家」を、「世界のレベル」にすることが目指された。世界と比較して足りないところが東京にあれば、それを足す。そして、「世界レベル」に必要十分にする。とにかく、目指されたことは、東京の世界都市との均衡の維持だった。
そうやって考えると、今の日本の国家構造は、完全に、東京だけが、特別である。政府機関のほとんどが東京に集中し、実際、天皇家は「東京を作るために東京に来た」。あらゆる政府機関が東京に集中するため、企業も必ず本社を東京に置く。テレビ局も「東京の情報」を日本の情報と称して地方に発信する。つまり、以下の構造になっているわけである。

  • 東京(目的) - 地方(手段)

事実、地方自治や、連邦制といっても、どうも、もりあがらない。それは、なぜかと言えば、地方が、まったくもって、
独立自治都市
の様相を示さないからなのだろう。地方は、行政組織からなにから、まず、東京都市を維持するための、「補助機関」の様相を示している。東京に人が足りなければ、地方から「補充」される。地方とは、そのための、バックアップ機関の傾向を示す。
日本の表玄関、日本の顔、である、東京さえ、人様に見せて恥かしくない、国家機構を備えていれば、あとは、
どうだっていい
のである。よく、規制緩和ということを言うが、これは、そもそも「中央」組織が持っている権限を人民に移譲する、という意味のはずだ。ということは、まず、中央政府が死んでも話さないさまざまな地方政府に対する規制を止めさせることによって、始めて、民間の規制緩和が生まれるのではないかと思うのだが、巷の有識者にこういった問題意識は感じられない。
自分の会社には、さんざん儲けるための「手段」をよこせ。でも、「地方」は関係ない。そっちは、どうだっていいよ。
しかし、なぜそうなるのか。もともと、地方が東京の「手段」と考えられているからだろう。東京さえ住みやすい「国家機構」が維持できるなら、地方などどうなってもいいのである。
東京さえなんとかなれば、なんとかなる。
しかし、世界を見渡してみても、こういった傾向をもっていない国というのは、探すのが難しいくらいに、どの国もこういった傾向をもっているように思えなくもない。アメリカにしても、まるで、ニューヨークだけが、アメリカだとでもいうように、ニューヨークの情報しか、日本に来ない。
韓国もソウル以外になんかあったかな、という感じだし、中国もこの傾向を近年極めてきている。香港を中心として、幾つかの海岸部の都市は、物価も上昇し、ほとんど、世界の主要都市と変わらなくなってきた。
こういった傾向を、どのように考えればいいのか。
ここのところの、NHK のニュースで、中国の賃上げ交渉が、全国に広がっている事態が報道されている。ニュースを見ていると、相当に全国的な広がりをみせているようだ(テレビにそういった光景が写されていたが、文化大革命紅衛兵を思い出してしまった)。この光景を見ていると、マルクス資本論の論理を考えさせられる。
安い労働力を求めて、中国に工場を移転した、日本企業は、間違いなく「足元を見られる」ことになるだろう。
しかし、この事態を、深刻視することも、楽観視することも、適当ではない。
そもそも、中国には、労働者のスト権がないのだそうだ。じゃあ、今の事態とはなんなのかとなるだろうが、ようするに、中国共産党政府は見て見ぬふり、ということらしい。それだけ大衆の不満にどこの国家も最後は「無力」ということなのだろう。政府は、中国の国内向けのマスコミに、ストの報道を一切行なわせていないのだそうだ。
では、多くの日本企業が、中国からの撤退を決断するのだろうか。今のこの雰囲気に嫌気がさして、他の国に工場を移動していくケースは、それなりにはあるかもしれないが、一般的には、この国にとどまることは、間違いないだろう。なぜか。明らかに、そこに
中国市場
が見えているからだ。こういった過程は、中国市民の旺盛な購買力の自然な帰結のように思える。彼らは、したたかだ。一瞬の隙を見逃がさず、徹底した機会を伺って、賃上げを実現してくるであろう(そういう意味では、日本の労働者は従順なのだろう。そういう意味で、いずれ、日本の通貨価値の落ち着きとともに、国内労働力を再評価する日本の企業人が増えていくこともあるのかもしれない)。
なによりも、明らかなことは、この中国市場の「底無し」感である。いったい、彼らが買い始めたら、
いくら売れるのか。
こんなことを考え始めたら、今、中国と仲良くしておくこと、恩義を感じてもらえる環境にあることの重大さに気付き始めている、日本の企業にとっては、いかに関係をよくしておくことが重要であるかを考えさせているはずだ。中国の労働者の賃金が、実際に日本の労働者と比べて、ずいぶんと低いなら、彼らの「不公平」感が、伏在することは当然の事態なのだろう。もちろん、物価の違いなどもあり、単純な比較は説得力がないとしても、彼ら労働者にも、日本の労働者と同じように、

がある。あれだけの若者労働者を国内に抱える国が、本気で、物を欲しがり買い始めたとき、一体何が起きるのか(そのとき、好印象をもってもらえる、長期的な関係を育ててきた、日本の企業が感謝とともに、一緒に成長していくことを実感してもらえるなら。そういう意味でも、今進出している日本企業のノブルな態度が重要になるのだろう)。衝撃的な結果を、中国と商売を続けてきた、さまざまな国の企業が、面前にすることになるだろう。
これが、グローバル経済である。生産拠点、販売拠点が、グローバルに世界中を移動する。各地域の物価の差を利用して、どんどん移動していく。そうすることで、国内の生産拠点の空洞化が起きると同時に、相対的な貧困国の富裕化が実現されていく。
タックスヘイブン国の、極端に法人税を低くした国が、こういったグローバル企業のホームベースを与え、BRICs のような、人口の多い国が、低賃金労働者の調達を実現する。
こうやって、それぞれの国々が、それぞれ、「均衡」されていくのではないのか、というのがグローバル経済のアイデアである。しかし、普通に考えるなら、これは、各国のナショナリズムと矛盾しているように思える。なぜ、各国のナショナリズムは、自国の相対的な地位低下を、忍従してまで、グローバル企業の「グローバル」化を言祝ぐのか。
もう一つの疑問は、このようにして、各国の「均衡」が実現されるとするなら、なぜ、その「均衡」は、各国の「都会」と「田舎」において起きず、「他主権国」との間で実現されていくのか、ということである。
そういった視点で見たとき、ヨーロッパのEUというのは、なかなか、おもしろい実験と思える。EUが、ユーロという通貨に統合されるということは、ようするに、ドイツの「帝国」を作ろうとしていると言えるのだろう。ドイツの低賃金労働の調達を、EUという「一国家」つまり、「田舎」から調達する。そうすることで、ドイツ国内の産業の衰退に抵抗していると言えるのかもしれない。
ただ、見ていて思うことは、いずれにせよ、労働者の質と、治安の問題は、そう単純には乗り越えられないのかもしれない、というところか。
カントの言う「目的の王国」においては、各個人は、たんに、手段として、他者を使うことを許されない。たんなる手段だけでなく、同時に(なんらかの意味で)目的として扱うことを求められる。言ってみれば、功利主義は、NGということだ。しかし、こういうことを言うと、驚かれる。古典派経済学は、完全な功利主義じゃないのか。功利主義以外の答などあるものか。人々はもっと自分の利益だけを考えて行動すべきだ。むしろ、そうなっていないから、社会の効率化が進まず、非効率分野の温床が温存され、簡単に「社会主義」という「低競争力」状態が温存され、国家を疲弊させる。
たしかに、そういった面を全否定するつもりはないけど、そんなに単純ではないのだろう。だいたい、今でも、なにかあると、それは「社会主義」「共産主義」「マルクス主義」と批判して、なにかを言った気になっている文章が多いが、こういうのを聞くたびに、戦前の赤狩りを思い出すわけですね。また、それ以前に、日本の戦前の皇国思想の「敵」はずっと、左翼であった。皇国思想を胸に抱く人たちが口を開けば、まず出てくるのが、「社会主義」「共産主義」「マルクス主義」批判だったわけですね。そう考えると、今だになにかあると「社会主義」「共産主義」「マルクス主義」批判な人の言論が、どこまで、戦前の皇国思想から前進しているのかな、みたいには言ってもみたくなる。
今、なぜ、中国がこれほどの経済発展を見せようとしているか。明らかに、社会主義時代から続く、「高度な教育レベル」があるのではないだろうか。一般庶民も含めた、高度な教育制度がここまでの底上げを実現してきているとは言えないのだろうか。ところが、ひるがえって、日本の教育制度って、本当のところ、やる気があるのだろうか。
新古典派経済学的な人たちに言わせれば、本音は、そもそも、なぜ、国民の全員に「皆教育」をやらせなきゃいけないのか、となるのではないだろうか。だって、そんな、
お金の無駄使い
をしてはいけない、となるのだろう。金持ちだけでいーじゃねーか。だって、もったいない。いっくら教えても、「ほとんどの」貧乏人にとっては、無駄なだけに終るのだから。そんな無駄なお金を「ドブに捨てる」くらいなら、お金持ちの、いいとこのボンボンだけ、手厚ーい、サポートをすれば、彼らは、言わば「貴族」みたいなものですから、血統もいいですし(左翼みたいな「天皇制にこそアポリアがある」というような、不遜なことも言いはしないでしょう)。
ところが、こうやって、中国が台頭してくる。そりゃそーだ。あれだけの「分母」で競争して、上がってくるのだから、その分母の割合だけ、優秀な人も現れるんじゃね?、というのが、左翼的なバランス感覚だろうか。ところが、日本の右翼的なエリート主義になると、そんな無駄なことはやめてくれ、となる。
酒屋は酒屋。
産後の肥立ち。
親の七光。
どうせ、全ては「遺伝」で決まっているのに、大衆という「バカでマヌケ」がこの日本を「民主主義によって」支配してやがる「から」日本が「駄目になるんだ」。全ての元凶は「バカでマヌケな」大衆が、この日本の政治に係わろうと画策する、この「民主主義という」制度にあるに決まっている。
係わるのはいいが、問題はお前たちが「自分で考えよう」とすること。結局は、お前たちが自分で考えようとしても、そんな知識もないシロートがやめてくれ。まともな判断なんてできるわけがない。私のようなセンモンカの意見の通りやってれば、すべて、うまくいく。とにかく、頭の悪いシロートがへたにものを考える「マネ」をして、政治をセンドーするな。
しかし、そんな「えらい」センセーの話など、どうでもいい。議論を最初に戻すなら、問題は、日本の政治のなにもかもが、東京化していることであった。地方の役人の方と地元の方々が、この地域をどーしていこーかと話してる。地方役人の方々がニコニコ話を聞いてくれているように思っていた地元の人々。おい、ちょっとおかしいぞ。地方役人のお方。視線が明後日の方向に行っちゃってる。急に目付きが変わっちゃった。どうも、悩の中にビーコンが埋め込まれていて、東京からの指示で、地方の事情は一切無視ってことのようだ。
だって、「しょーがない」。地方の役人の給料を払っているのが、東京にある日本の政府なら、彼らは「いっつも」東京の方を見て仕事をしてしまうだろう。学校の先生も同じように、転勤といって、全国各地に飛ばされる。彼らは、
地元
の人間では最後までなかったのだから。日本の活性化、地方自治というものがありうるとするなら、道州制でもいいのだが、いずれにしろ、それは、各地域に、
自治都市(つまり、各地域の「東京」)
を厳然として、存在させることなのではないだろうか。そうやって、ある程度の人の流動性を、その地域内に固定させ、各個人にその地域への「地元」感を内包させる。そのことによって、自分が、
おらが町
の人間であることに誇りをもてるようになる。カントの言う「目的の王国」とは、そういうことだったはずだ。どうも、保守派の言うことは、「単色」なんですよね。みんな天皇様のお子として、天皇様の「コピー」であればいいんで(むしろ、そうじゃなきゃ不遜)、そんな地域とかいらない、東京があればいい。しかし、そんなに単純じゃないはずだ。たとえば、これだけ、ゆとり教育というプロパガンダをされても、よく勉強する地域もある。そうやって見てみると、その地域の伝統(宮沢賢治の地元なら、鉱物学や、富山の薬売りなら、薬学)が、それなりに「尊敬」をもって見られていたりする。むしろ、各地域の多様な才能が一つの志のもと、一同に介することがその潜在力だったりする(Jリーグのフランチャイズなどは、こういった理念に通じるものを感じなくはないんですけどね)。