杉山正明『遊牧民から見た世界史』

(この前の福嶋さんが、紀伊国屋新宿店で紹介している本。)
それにしても、いろいろ考えさせられた。一般にどのように考えられているのだろうか。
以前から疑問であったのだが、日本では、縄文時代の次は、弥生時代になる。でも、あれっと思うわけです。なんで? つまり、なぜ、そういう時代分類が「連続」になるのか、ということです。弥生時代ということが、農業について言っているのなら、別に弥生時代だろうと、縄文人がいてもいいのではないか。つまり、縄文時代と同じ生活をしている人たちが、共存していてもいいのではないか。
それは、具体的には、遊牧民のことを言っている(遊牧民とは、遊牧の途中で、狩猟も行う人たちのことを言う)。一般にこのことは、それだけ、日本の温暖湿潤で、適度に温かい環境が農業に向いていたことを意味するのだろう。
そういった視点で考えると、世界中を見渡しても、農業に向いている地域というのは、意外に狭い。ロシアにしても、やはり寒いのではないだろうか(今は、地球温暖化で、逆に、よく育っているのかもしれないが)。
よく、地球4大文明、などと言う。つまり、大河流域の地域のことで、そこでは、農業が盛んに行われた。農業には、天文学や天候の記録が重要だったりするので、文字が発達するのだろうか。また、定着して生きているのだから、そういった図書館が定着もするのだろうか。
しかし、上記で言った話と同じことで、じゃあ、それ以外の地域に人間はいないのか。そんなわけないでしょー。しかし、変なんですよねー。

ここで、ヘロドトスの記述を松平訳によって見てみたい。かれはこう語る。なお、記述は西から東へとすすむ。

「ポリュステネス[現ドニエプル]湖畔の住民たちの通商地を起点とすれば----この港がスキュティア全土の沿海地域のちょうど中央部に当るからである----まずカリピダイというギリシア系スキュタイ人が住んでおり、その向うにはアリゾネスという名の民族が住む。このアリゾネス人もカリピダイ人も、大体においてスキュタイ人とその風俗習慣を同じくするが、ただ彼らは穀物を栽培し食用にしており、穀物のほかに玉葱、ニラ、扁豆、粟なども作る。
アリゾネス人の向こうには、「農耕スキュタイ人」が住むが、彼らが穀物を栽培するのは、自分たちの食用のためではなく、他に売却するのが目的なのである。その向うにはネウロイ人が住むが、ネウロイ以北はわれわれの知る限りでは無人の境である。
以上がボリュステネス河以西、ヒュパニス[現ブグ河。ドニエプル河の西側を並行して流れる]湖畔に住む諸民族である。
しかしボリュステネス河を[東方に]渡って、海辺から北上すれば、まずヒュライア(「森林地帯」)があり、ここからさらに上れば「農民スキュタイ人」が住む。ヒュパニス河畔に住むギリシア人はこれをボリュステネイタイ(ボリュステネス人)と呼ぶが、彼ら自身はオルビオポリタイ(オルビア市民)と称している。この農民スキュタイ人は東方に向っては三日間の旅程を要する地域にわたって住居しており、パンティカペスという河[該当する河はないとされる]に至る。また北方には、ボリュステネス河を遡航して十一日間を要する地域にわたっている。
この先には広漠たる無人の荒野がつづいているが、この無人地帯を過ぎたところにアンドロパゴイ人(「食人種」)が住んでいる。これは特異な民族で、スキュティア系では全くない。これより先は正に無人の地で、われわれの知る限りでは、もはやいかなる人間の種族も棲息していない。
農民スキュタイ人の居住地から東に向い、パンティカペスを渡河すれば、そこははや「遊牧スキュタイ人」の世界で、彼らは種も蒔かねば耕す術も知らない。そしてヒュライア地方以外は、全土に一本の樹木もないのである。この遊牧スキュティア人は、東方に向って十四日の旅程にわたる地域に住み、ゲロス[該当する河川なし]河畔に至る。
ゲロス河以遠は、前にもふれた王領のスキュティアで、このスキュタイ人は最も勇敢で数も多く、他のスキュタイ人を自分の隷属民と見做している」(『歴史』ヘロドトス著、松平千秋訳、岩波文庫・中、十六--十八頁)

さて、文中に見える「スキュティア」とは、「スキタイ人の地」という意味である。ここで歴然としているように、さまざまなスキタイ人がいたということである。

こうやって、古代ギリシアから、東のほーに向かって、
なんか
いるんですよねー。なんとなーく、な。これってなに? っていうと、それが、つまりは、
ユーラシア
ってやつなんですねー。なんか分かんない、いろんな人たちがいる、その、主には、遊牧をやっているような人たち。ですよねー。
じゃーこれ。ちょっと、
反対
から見てみましょーか。

新しい「時代」のにない手は、匈奴の「太子」だったという冒頓(ぼくとつ)であった。冒頓が、まず匈奴部内の権力をにぎるいきさつ、そして高原の諸勢力をとりまとめて、一気に遊牧帝国を出現せしめる過程について、司馬遷の筆はとくに躍動感にみち、じつにドラマチックである。おそらく、『史記』の全篇を通じても、胸おどらせる叙述となっている。

人はともすれば、項羽と劉邦という最終の敗者となった悲劇の英雄と愚直で幸運な最終の勝者との対比をよろこんで、楚漢の攻防ばかりに目をそそぎがちである。しかし、ときは、それだけでは全然なかった。秦の統一と崩壊のはざまにあって、項羽と劉邦、そして冒頓の三人が、草原と中華をこえて浮上してきたのである。すくなくとも司馬遷の時代までは、ずっと最終の勝者は冒頓とされていたはずなのであった。
司馬遷は、ちゃんと事態をこころえていて、注意して読めばそれとわかるように書いている。わからなかったのは、後世の読者である。それは、あきらかに当時、現実にはまだとてもあるはずもなかった「中華」という仮想された意識の世界(もちろん、その意識は司馬遷も明確にもってはいるが)だけに、おそらくあらかじめ視野を限定して眺めるからである。歴史の逆立ちといわざるをえない。

中国の歴史は、ほとんど、匈奴とのいざこざの歴史である。というか、そればっかりである。それしか書いていないと言ってもいいくらいでしょう。逆にこう言ってみればいいのである。
その「境(さかい)」って、あったのかな。
著者も言うように、中国内だって、ずっと、「遊牧」やってたはずなのだ。どうも変なのである。遊牧民ってなんなんだろう?
たとえば、これを、戦争というアイデアから考えてみる。

モンゴル拡大の核心は、仲間づくりのうまさにあるといってもいい。戦争といってもよほどの例外をのぞき、じつはモンゴルはほとんど戦っていない。むしろ本当に戦ったときは、モンゴルは負けることが多かった。
モンゴルは戦わない軍隊であった。戦争は、かれらにとって他者を接収・吸収する「キャンペーン」か「デモンステレイション」(示威運動)にちかかった。
つまるところ、「モンゴル」とは、人間組織の巨大な渦である。そのなかに身を置けば、すくなくとも、身の保全はえることができた。それを現代風に表現うるならば、モンゴルにくわわることで、最低限、安全保障はえられたのである。

なぜ、匈奴帝国から、モンゴル帝国が、生まれ、あれほどの、世界征服ができたのか。当然、
平和
的にやったからである。実際、元は中国人の中華思想をとことんまで尊重したし、儒教を奨励もした。むしろ、残酷な戦争をしたがるのは、常に、農耕民族なのかもしれない。

匈奴--漢戦争」という、まことに尋常ならざる長期戦を実現せしめた最大の原因は、武帝そのひとにあった。武帝は、匈奴打倒を生涯のテーマとし、そのためにはあらゆる犠牲をもいとわなかった。
というよりも、いかなる流血、負担、不幸も気にしなかった。かれ自身は、都である長安に居つづけて、けっして前線に赴き、戦塵の苦しさを味おうとはしなかった。純然たる命令者でありつづけた。
「銃後」にあたる民衆は、れの目にも耳にもとどかなかった。というより、見ようとも聞こうともしなかった。それどころか、身のまわりにいる軍将や臣僚など、なじみの者たちさえも使い捨てにして、いささかもためらわず、かまわなかった。
おそるべき帝王であった。李陵やその妻子・一族、そして司馬遷自身の不幸も、そこにある。ところが、かれらがあった惨禍(その直接のきっかけが、李陵の匈奴の投降そのものにあったか、投降後に李陵が漢の情報を流したと誤解されたことにあったか、そのいずれにせよ、李陵の一家眷属処刑されたとこには変わりない)について、それは武帝の責任ではなく、漢という法治国家の体制がしからしめた当然の法制上の結果だなどと、いうむきがある。

遊牧民の特徴って何かといえば、ようするに、「首都」が、移動するんですね。皇帝が、どんどん、民草を連れて、移動していく。移動すると、そこが、ある意味、首都になっちゃうんですよね。つまり、戦場の第一線が、常に「首都」になる、ようなイメージなんだと思います。
軍隊の指導者がもし、戦場の第一線にいたら、どういうことになるだろうか。おそらく、戦争自体をやらないんじゃないですかね。だって、死体が転がって、死肉が腐れば、疫病もはやるでしょうし、なによりも、現場で見てるわけですからね。悲惨な思いに苦しんでる民草を見捨てられないでしょう。
しかし、これ。ですね。日本は、完全に、中国のコピーでできた国ですから(ちょっと、自虐ってみた)、おんなじようなことを言うわけですね。昭和天皇は、「一つも」悪くなかった。私は、この議論に参戦したいとは、毛頭思いませんけど、その口ぶりが、完全に、中国人のコピーだということに、擁護している本人がどこまで自覚的なのかな、ってことなんですね。まるでそれが、
普遍的
なことであるかのように、自信満々でご主張されるんですけど、どうみても、「中国ローカル」なご主張にみえませんですかね。グローバル社会モンゴルの側から、考えてみたらもう少しひかえめくらいには、なりませんでしょうかね。
人類の歴史において、その舞台とは、ずっと長い間、ユーラシア(それと、アフリカ)のことでした。つい最近まで、そうでした。その「中心」こそ、モンゴルであったのでしょう。その象徴的な意味は重要です。ロシアでさえ、モンゴルから生まれた、という話まであります。
この事態を変えたのが、大航海時代ですね。大型の巨大エンジンを積んだ船が、大量の人々を乗せて移動するようになる(時代は「群島」に変わるわけですね)。
そして、今のモンゴルは、草原の砂漠化もあり、少数民族へと変わっていく。その中にあって、こういった、遊牧民族とは、どのように考えたらいいのだろうか。
たとえば、ルソーは人間不平等起源論で、自然人というアイデアをもってくる。他方に、現代の私たちのような農耕民族がいる。すると、その「間」のような存在として、遊牧民族を考えたらいいのだろうか。
たとえば、現代人を考えてみるといい。私たちのほとんどは、今、農業をやっていない。ということは、やろう思えば、「遊牧民的生活」をやれる、ということではないのか。今情報は、クラウド化の時代。すべて、雲の中に置いちゃえば、部屋に本棚はいりませんよね。その調子で、自分の部屋っているのか。ストックを持たず、すべての財産がフロー的になっていく。すると人々はどうなるか。あまり、定住というアイデアをもなくなるのかもしれない。いつだって、仕事場の近くで、寝れば、会社にもすぐに行けて、その分、遊べる時間も増える。そんな、住む場所もないなんて考えられない。そういうのは、今の現状をイメージしすぎなのではないか。そういった「遊牧的なライフスタイル」を選ぶ人々が増えていけば、需要と供給に応じて、需給曲線は、下がって、こういったライフスタイルが「経済的」な生き方になっていくことだって考えられる。
しかし、私たちが、遊牧民的ライフスタイルを見直すとは、どういうことなのか。なんのことはない。縄文ダイバーシティに戻る、ということなのでしょう。