斎藤環『戦闘美少女の精神分析』

2000年の出版であるが、私は最近、この本を読んで、あまりの「感覚」の違いにびっくりした。大事なことは、2000年から、このゼロ年代を介して、
まったく変ってしまった
ということではないだろうか。しかし、それに気付いている若者と、ある程度、上の年代とのギャップにこそ、その根深さはあるのかもしれない。
ネットがなにもかも変えてしまった。
今は、YouTube などで、少なくとも、最近、テレビでやってるようなのは、ことごとく見れる。サーセン・タイム、ってやつで、最初に法律違反だとかやってるけど、実際に見てるわけでね。たとえば、これによって「も」、BDとか売れてますよね。少なくともアニメについては。だったら、説得力がないですよね。
今じゃ、みんなアニメを見てる。アニメ「けいおん」が、新潟で40%でしたっけ?(ちょっと苦しいかな)。
つまり、少し前まで、アニメを見るということは、高い機材を買って、VHSやDVDの、高いコンテンツをお店で買って、そこまでして、わざわざ見る人たち、
だから、
なんで「そこまでして」見てんの? ってことだったんじゃないだろうか。ところが、今は、ネットの時代。もう、かまえるもなにも、YouTube のホームページに来れば、目の前に、ボタンがありますからねー。あと押すだけなんですよねー。
今この本を読んで、ぎょっ、とするのは、つまり、アニメ美少女オタクを、「病気」ととらえ、整理していることである。もちろん、当時、そういった分類が必ずしても、正当性がなかった、ということが言いたいわけではない。あきらかに、コンテンツの消費ということだけでは、敷居が下がっている。だとすると、その最初にあった、オタク=病気、というカテゴリーが、あまりに異様に思えるわけです。ただ、この本でもそのことは最初から意識されていて、例えば、

宮崎勤事件でおたく擁護論を全面展開した評論家、大塚英志氏は『仮想現実批評』で興味深い調査結果を公表している。

「おたくは異性の友人の数が一般より多く、また友人の数も多い。社交的である」。
「おたくは総じて金持ちである。エンジニアや医師が多い」。
「収入に占める遊びへの東夷率が高い」。
「テレビの試聴時間が異常に短い」。
「趣味の数が多い」。
「『堕落』というコトバが嫌い」。

おたくとは、知のデバイドのことでしかないし、それは、当時の金銭的な余裕のことでしかなかったわけだ。なんのことはない。著者自身、ずっと自覚的だということなのでしょう。ですから、問題は最初から、それを病気と呼ぶことの方にあったはずなんですね(スーザン・ソンタグもそんなことを言っていたような)。
たとえば、ある外国人の方の日本アニメやアジア文化への情熱を語ったメールを紹介した後、著者は、言う。

これほどまでに率直な個人的告白を、もはや私は「分析」しようとは思わない。彼はもちろん典型例ではないが、おそらく特異すぎる例でもないだろう。私はただ、日本のアニメの侵略によって全世界がオタク化するといった単純な誤解を免れるためにも、「アニメ・ファン」の多様性を強調しておきたかったのだ。

だったら、最初から、病気うんぬんの議論をやめたらどうだろう。つまり、もっと、記号論でやっていいはずなわけだ。私は、この辺りから、東さんの『動物化するポストモダン』の動機を考えるのだが。
この文庫の解説を東さんが書いているのだが、そこで、東さんは、この二つの本は、兄妹関係になっている、ことを断っている。
じゃあ、そうだとして、この本は読む価値がないか。そんなことはない。この本には、ある真実が反映している。
それが、戦闘美少女、の問題なのだろう。実際、世の中には、なんだか意味不明なまでに、とにかく、

  • 美少女 --> 戦う

といったアニメばかりだ。この事態を考えるとき、大事なことは、むしろ、戦う、ということが重要なのではなくて、

  • 美少女 = 英雄

という、巫女信仰的な崇拝意識が大きいのではないだろうか。
たとえば、掲題の本で、過去のアニメの歴史が紹介されているが、その中に、「当然のように」、テレビドラマ「スケ番刑事」という、当時の女性アイドル、のドラマが同列で紹介れている。ということは、最初から、これは、「2次元空間」の話ではなかったのではないか、と思わせる。
つまり、アニメとは「音声中心主義(フォネセントリズム)」だと、私は言いたいわけです。というか、人間は最初から、そうなのではないのか。人類は長い間、文字が読めなかった。みんな、会話を楽しんでいたのですから。(宮崎駿が言うように)画面の記号をこすってこすって、オナニーみたいなのは、気持ち悪いんですね。
テレビだって、ずっと画面を凝視しているのなんて、疲れるし、たいてい、耳だけ、そっちに残しておけば、ストーリーは分かる。
たとえば、東さんの上記の本の続編は、ライトノベルのテキストクリティークから始まっている。

つぎの二つの文章は、谷川流の二〇〇三年の小説、『涼宮ハルヒの憂鬱』からの引用である。引用箇所は、それぞれ、主要キャラクターの「長門有希」「朝比奈みくる」が最初に小説のなかに登場する場面だ。

俺はあらためてその変わり者の文芸部員を観察した。
白い肌に感情の欠落した顔、機械のように動く指。ボブカットをさらに短くしたような髪がそれなりに整った顔を覆っている。出来れば眼鏡を外したところも見てみたい感じだ。どこか人形めいた雰囲気が存在感を希薄なものにしていた。身も蓋もない言い方をすれば、早い話がいわゆる神秘的な無表情系ってやつ。

思わず俺は朝比奈みくるさんを見た。小柄である。ついでに童顔である。なるほど、下手をすれば小学生と間違ってしまいそうでもあった。微妙にウェーブした栗色の髪が柔らかく襟元を隠し、子犬のようにこちえあを見上げる瞳が守ってください光線を発しつつ半開きの唇から覗く白磁の歯が小ぶりの顔に絶妙なハーモニーを醸し出し、光る玉の付いたステッキでも持たせたらたちどころに魔女っ娘にでも変身しそうな、って俺は何を言ってるんだろうね?

これらの文章は、一般に人物描写として想像されるものとは大きく異なっている。というのも、そこではもともと、描写対象の人間がまず存在し、それを作家が描写し、読者がそれを読むという、一般的な(のちに「自然主義的な」と呼ぶことになる)描写の順序が機能していないからである。

多くの人がどう思われるかは知らないが、まず、なぜ、ライトノベルから入るのだろう、という感想がどうしても先に立つ。ライトノベルが最初から、さまざまな、メディアミックスを意識した形態であることは、「今から考えれば」自明に思えるし、アニメしか見ていない人だって、多いだろう。つまり、なぜ、この本の分析が、ライトノベルという
シナリオ
から入るのかが、今一歩なわけだ(ただ、ここの部分の側面が、ゼロ年代本の方に継承されているのだろうが)。
たとえば、掲題の著者は、ある論文で、次のように言う。

ここでは東さんと同様に、『デ・ジ・キャラット』の「でじこ」を取り上げてみましょう。このキャラクターについては、猫耳だのメイド服だの鈴だのが凝縮された究極の萌えデザインということが良く言われます。それでは「でじこ」の人気は、単に萌え要素が多いという「量的問題」なのでしょうか?私にはそうは思われません。あえて例は出しませんが、こうした要素を詰め込みすぎて失敗しているキャラクターの例なども考えるなら、これはそういう単純な問題ではない。おそらく秘密を解く鍵は、でじこの口癖である、あの「〜にょ」という語尾にある。そう、この特異な語尾を発端として、ひとはでじこのデザイン的魅力を、あくまでも事後的に見出すのではないでしょうか。

でじこ」に限らず、名作といわれるアニメやゲームのヒロインは、ちょっと独特の口癖を持っていることが多い。その起源となったのは、おそらく『うる星やつら』のラムちゃんが言う「〜だっちゃ」でしょう。宇宙人がなんの断りもなく仙台弁を喋るという設定は、私たちに強烈な印象を残したものです。こうした「萌え語」の導入は、近年いっそう加速がかかっていますね。「あんたバカぁ?」(『新世紀エヴァンゲリオン惣流・アスカ・ラングレー)とか、「はにゃ〜ん」(『CCさくら木之本桜)、「はわわ〜」(『ToHeart』マルチ)、「が、がお...」「にはは」(『AIR』神尾観鈴)、「うぐぅ」(『KANON』涼宮あゆ)、「あんですと〜」(『君が望む永遠大空寺あゆ)など、いずれも有名すぎる例で恐縮ですが。

斎藤環「「萌え」の象徴的身分」

著者は、非常にいい点に気付いている。ところが、これを著者は、フェチシズムの問題にしてしまう(つまり、また、病気の話になる)。しかし、それはおかしい。それは、
事後的
に見出されるものにすぎない。むしろ、最初にあるのは、各声優たちの、固有性、なんじゃないのだろうか。彼女たちは、各地方から、この東京に来て、声優となり、アフレコする。たしかに、声を付けるまでは、アニメ監督のファシズムの世界である。このキャラには、この人の声が合いそうだ。ところが、実際の、表現の場においては、監督は無力である。そこは、彼女たちの表現の場なのだ。しかし、それは、当然なのである。それこそが、漫画「ガラスの仮面」の主要テーマであったはずではないか。むしろ、アニメという2次元空間は、この作成過程の最後の最後の場であてられる、声優の声を
想起
させるための「記号」なんだ、と考える方が自然のように思える。
こうやって考えると、アニメとは、日本に昔からある、アイドル、とまったく「同型」であることが分かる(中森明夫の理論が、使えるってことです。そもそも、男の子は女の子の、おしゃべりや、その声に、興奮するのだ)。
では、この日本アニメを、フォネセントリズムから考えたとき、どういった特徴が今後の傾向として、指摘できるだろう。よく言われたのが、日本のアニメのキャラの、幼形成熟ネオテニー)でした。キャラの顔が、どんどん、子供のようになっていく。こういったところから、最近話題だった、東京都非実在青年規制の話がありました。しかしこれは、つまりは、ネオテニー的傾向性を言っているにすぎず、進化学者のグールドが言っていたように、一つの洗練の形態にすぎない。
だとするなら、その「可能性の中心」をどこに見るべきなのか。
私はそれを、たとえば、アニメ「キディ・グレイド」の、ヴァイオラちゃんや、アニメ「ストライクウィッチーズ」のルッキーニちゃん、のようなものをイメージしている。
おそらく、私が知らないだけで、こういった傾向がオーバーラップするキャラは多いだろう。その特徴は、確かに幼いのだが、一言で言えば、
自由
なのだ。なんでも、好き勝手な思ったことを言う。いっつも、やりたいことをやっている。こういったイメージは、
先進的
である。おそらく、日本の過保護すぎるまで過保護な、子育て文化が生みだした、鬼子であり(どこか、兄弟っ子の特徴のようにも思え)、まるで、「無頼化」そのものである(

無頼化する女たち (新書y)

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)。私はこれを否定しているのではなく、むしろ、日本の先進的文化として、徹底することが重要だと思っている、ということである。なぜなら、これが、
自由
だからである。カントの言う「目的の王国」における、価値とは自由のことであった。だとするなら、文化は全て、それを体現する表現の方に解放していくのだろう。
他方において、こういった方向「だけ」が、どこまでも突き進むことだけが答え、だと思っているわけではない。以前に私が書いたことであるが、アニメ「コードギアス」の、ヒロイン殺し、に私は批判的であった。マルキ・ド・サドが言っているように、ある、「社会的な」価値、は、その破壊への価値(=意味=幻想)を生み出してしまう。サカキバラ事件において、犯行を犯した少年は、その犯行内容と似たような行為を、動物に対して行なっていた、という。芸術がやってきたことは、この二つを絶えず繰り返すことだったのだろう。映画「告白」においても、残酷に生物を殺すことから、殺人への敷居が下がっていく。ですから、東京都非実在青年規制には、それなりの根拠がある。しかし、それを今この日本がサブカルチャーを世界に売っていこうとするときに、国家による検閲で、毒抜きするような、焚書坑儒のようなものが、どこまでKYだったか、ということなのだろう。
たとえば、

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にしても、ここには、簡単に感情移入を許さないような、他者性が描かれている。いろいろ書いたが、だとするなら、どういうことになるのか。もう一つしかないわけです。私たち、読者、コンテンツ視聴者のリテラシーを上げていき、なるべく、サカキラ的な子供の暴走を手当てしていけるような、そういった、文化へのリテラシーを上げていくしかない。
そういった意味で、東さんの本が、「AIR」の話で終わっていることは、象徴的に読んだ。こういったゲームが、まさに、声優の王国であることは、遊んでみれば、すぐに分かるし、「泣きゲー」という、なかなか考えさせられるものだったことは、少し意外でもある。
いずれにしろ、たんなる、二項対立でないような、そういった民度が要求され続けることには変わらないのだろう。
最後は余談ですが、この前の、東さんと佐々木さんの ust での対談は、なかなかおもしろかった。東さんが、プライバシーは、基本的に、解放していくのがいいんじゃないか、と言っていたことについては、私は条件付きで賛成だ。たとえば、ある人が、ネットで、発言したとき、その人が、どういう人なのか。たとえば、

  • いくら稼いで、今、どれだけ資産があるか。

を公開するだけでなく、この人は、今まで、

  • どういった分野に、いつ、いくら、寄付や、募金したか。
  • どういったNGOを含めた、ボランティア活動にコミットしているか。

も公開する。結局、プライバシーのうさんくさい点とは、自分の公開したいことだけ、公開して、隠したいことは隠していることで、言ってる人が、みんな自分の都合で、レベルを語っていることなんだと思う(現場にしてみれば、つねに、提示される、インフラの上で踊ったり踊らなかったりするだけで、それ以上の意味など最初からないわけだ)。
市販の本もそうですね。電子書籍の話でいえば、基本的に安く売って、読んでもらって、おもしろかったら、後から、各自にボランティアで評価を募金してもらう。そして、大事なのは、各自がその本にボランティアでいくら払ったのかを「公開」する。そのことで、その人のリテラシーを「公開」する。

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

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