きだが見た「ムラ」

前回、きだみのる、について紹介したのだが、彼は、村的な共同体、つまり、部落、を観察し、記述しながら(つまり、そこには、批判的な視点も当然存在する)、他方において、無理解にこういった村を全否定しようとする言説に対して、真っ向から反発する。
このアンビバレントな態度を、どう考えればいいのか。それが、この本で著者によって問われていたことだったわけでした。
私も以前、『気違い部落周游紀行』を読んだことがあっただけに、その問いの意味を2考えることは、興味深く思えました。
なぜ、きだみのる、はこういったアンビバレントな態度をとるのか。
現代においては、こういった、村的な共同体(つまり、部落)は、過去の教養のない、土民の因習として、

  • 否定すべきもの
  • 乗り越えるべきもの

として、ガン無視される対象とされていると思うわけです。特に、

  • 「説教好きな」知識人

にとって、そうですね。
もちろん、きだみのる、も基本的には、そういった視点をふまえている。しかし、他方で、こういったものに対する無理解に直面したとき、一転して擁護に周る。
それはなぜか。
そのモチベーションとして、まず感じるのは、
こういった共同体が、まったくの「(ハイエク的な)自生的秩序」そのものだからですね。この力のバランスは、まったくもって、自然に生まれているわけです。つまりそれだけ、
その中の人たちにとっての、納得の地平線上に形成されてきた秩序
なんですね。だから、逆に言えば、最も、合意形成に成功しやすい、
正統性
を獲得しやすい組織だと言えるんだと思うわけです。
すると、どっかのえらそーな、いーとこの大学を出た、チシキジンが、
こんな土民的なやり方は、過去の因習丸出しの「恥かしい」遅れた田舎者
だっていうことなわけでしょう。それで、どっかから、えらそーなアンチョコ哲学本を引用して、
キョードータイはこーやって作るんだよー。コーキョー的ってこーゆーことだよー。
なんなのこの、
上から目線。
すみませんねー私、右も左もわかんねー、イナカモンで。
日本人で、すみません。
村八分も、たしかに、ひどい話なんですが、じゃあ、村八分にされた人が、簡単にあきらめるかどうかは、また別なわけですね。どうしても、納得できないと、あと何年かは、シカトされても、その土地でがんばってみる、という人もいれば、もうそこにはいれないと、その村を離れていく人もいる。どっちにしろ、納得の問題だとも言えなくないですけど、悪いんですけど、
こんなことって、あらゆる人間集団は、少なからず、あるわけでしょう(まず、学校のイジメがこうでしょうし、会社の窓際族もそうでしょう)。
つまり(前回も書きましたけど)、きだみのる、の描くムラ共同体の姿は、どう見ても、自然発生的に作られていく、人間集団が、
基本的に備えている特性
にしか見えないわけなんですよね。明らかに、ここには、その「形式性」がある。
そう考えてみると、その一つ一つのエピソードが、興味深く、いろいろ学ばさせられるわけです。
たとえば、この村的共同体は、原始共産社会ユートピアのような、「みんな仲良し」ではないんすね。

「私」は製粉機を入れようとヨシサンに話した。当初は乗り気だったが、地域全体の利益のため、村の要人に働きかけるよう勧めると彼の意欲は薄らいだ。近くでK君が効率の良い農業をしているので、サダニイを連れて見学に出かけた。施肥の研究の結果、K君のじゃがいもの大きさはサダニイの二、三倍もあった。サダニイはこれでやるべえと乗り気になり、さつまいもで集落一番を目指すと張り切った。「私」はこれを村全体に広めようと講習会計画した。するとサダニイの意欲は減衰した。そこで篤農家のヨシ英雄を勧誘した。彼は乗らなかった。しかし二ヶ月後にK君のところに行ってみると、そのヨシサンがひそかに襲わりに来ていた。
英雄たちは抜け駆けの功名を好む。他人に知られずに実行して、収穫時に他をあっと言わせ、供出の後で闇売りをし、金を得るのが喜びなのだ。しかし村全体の生活改善や他人の利益になることは気に入らない。「内」は共同繁栄の場ではないのである。

村における善は勤勉である。だが勤勉も、ほどほどでなければならない。衆に先んじて働く者は「何て欲張りだか知れやしねえ」という悪評にさらされる。だから、人並みよりちょっと少なく働くことが大事なのだ。そこには、強力な相互牽制が働いている。強い妬(そね)みの感情である。成功者や幸福な者を引きずり下ろそうとする意識である。きだはそれを「平等化思想」「感情の平衡化」と呼んでいる。この感覚が集落に秩序をもたらしていると同時に、貧困や停滞のベースにもなっているのだ。

きだみのる―自由になるためのメソッド

きだみのる―自由になるためのメソッド

つまり、村、部落は、別に、「仲のいい」友達共同体、ではない(嫌いな奴らを排除して敵扱いするような)。そうなんですね。たんなる、友達、なら、ケンカしたら、解体するわけです。でも、それじゃあ、村じゃない。
また、前回も書きましたけど、いくら、全会一致の民主主義といっても、決まらないことは決まらないわけです。でも、そういったことが一つでもあると、いつもの、セッキョー好き知識人が頭の悪い愚民どもがどーのこーのと、キレて、
ぐちぐちぐちぐち
言い始めるんだけど、いーんですよ。決まんなくて。

解決までに恐しいほど時間をかけることもある。たとえば地せびりである。部落では土地が少ない。そこで耕作者の地せびり、隣畑への侵略が行われる。隣の畑までうない込み、境界の目印の石から石までの間を曲線にいて張り出したり、目印の石の位置を動かしたりする。そこで境界争いが始まる。その場合、地せびりするのが乱暴者だと、部落と親方は気長に待っている。部落からすれば人の一生は短い。そしてその乱暴者の死後、境界は改められる。

----なあ、境界ちゅうものは自分一人で直すもんでねえものなあ。みんながそうだといってくれねえじゃあ、本当の境界じゃあありゃしねえ。

きだみのる―自由になるためのメソッド

人間の集団なんて、こんなものでしょう、政治とは利害対立の場なのだから。しかし逆に言わせてもらうなら、(あんたのあまっちょろいナルシシズムを一旦忘れて)リアリズムで考えて、これ以外に「全員民主主義」的な、合意形成集団を想像できるだろうか(人数的にみても、この辺りでしょうし)。大事なのは、その人の意志であって、そういった個人を、上から目線、で口先でなんとでも、やりこめられると思う方が、どうかしてる。
(近年、「新しい公共」とか言われてますけど。日本のさまざまな停滞も、結局、志の高いエリートが、いっくら、音頭をとっても、国民が踊らないってことなんでしょう。でもそれって、現場のさまざまな、自生的な中間集団を、シカトし続けた結果ってことなんでしょう、自業自得(国がムシしてって、こっちこそムシ)。国家は個人の首をしめれば、なんとでもなると思ってたら、だんだん分かってきたことは、やったら福祉に金がかかる、ってこと。もともと、こういった中間集団なしの政治単位なんて、絵モチ、なのでしょう。)