プロスポーツとゲーム的な娯楽の特性

相撲の八百長の話が、じつにさまざまに、議論が噴出している。その議論の流れを追いたいと思わないが、プロとしての興業と、スポーツの「ゲーム」性の差異が、こういった反応になっているのだろう。
格闘技というのは、世界的にみても、レスリングとボクシングしかない。近年、柔道を学校の授業でやると、かならず、何人かが怪我をしているが、ある意味、当然のように思える。それなりに、目が慣れてきて、作法が身についてこないと、お互いが暗黙の了解なしに、やるというのは、難しいということである。
サッカーでもそうですが、ものすごい肉体の接触、コンタクトが起きている。ああいうのは、最初から怪我と隣り合わせであることが前提とされている、と考えざるをえない。
そういう意味では、コンタクトレスの空手が、一番いい。つまり、基本的に、型だけが存在すると考えるべきで、それ以外はファッションやマンガの世界の話だ。
プロ野球でも、一軍、と、二軍、とある。しかし、一軍でレギュラーで出場していれば、当然、給料がいいわけだ。子供たちに夢を与えるためにも、それ位はあげるのだろう。しかし、それなら、二軍の人たちが、給料が安いからと、みんな辞めたら、この興業の世界自体が成立しなくなる。
つまり、選手は、「技術者」的な側面があって、彼ら自体だって、「権力」をもっている。彼らが雪崩をうって、辞める事態は、興業を終わらせることを意味する側面がある、ということである。
しかし、そういう側面から、プロ野球もプロサッカーも相撲も、どうしても「違法賭博」との関係が昔から、切ることが難しくなってきた。二軍でもんもんとしている選手が、暴力団の賭博に手を貸す。いい、収入源、だと。
なぜ、暴力団がスポーツ賭博をやるかといえば、プロスポーツが人々を興奮させ、感動させる側面を利用して、儲けるためである。人々がこうやって注目しがちなものであれば、賭けは成立する。問題は、胴元が損をしない、ことである。そこで、八百長だ。胴元が賭けの結果を知っていれば、損をすることはない。そういう掛け率にすればいいからで、そういう意味では、
あらゆる(テラ銭の少ない)賭けは八百長
と言っていい。
プロスポーツは上記のように、どうしても選手の怪我が絶えない。そして、彼らの怪我だって、そういうわけだから、自分が悪い場合だって少なくなってしまう。怪我させた相手の不注意が悪いんであって、自分が不遇をかこってるのは、俺の責任じゃない。怪我させた相手は出世して、なんで俺はこんなことになってるのか。すると、本人の不遇は、なにかで埋め合わされる「べき」じゃないのか、と考え始めることになるのだろう。
しかし、不正も一人でやるわけじゃない。赤信号みんなで渡れば恐くない。いろいろと道づれにして、証拠を残して、こうやって一度でも廻りに危ない道を渡らせてしまえば、
ばらされたくなかったら、うんぬん
の安っぽいAVみたいな脅迫で脅され、「すべて」の関係者が、少なからず、共犯関係に置かれ、組織は自浄能力を失っていく...。
こういった傾向が進めば進むほど、結果として、
試合の質が落ちる
(スポーツのゲーム性を失っていく)。
まさに、
悪貨が良貨を駆逐する...
(そもそも、お金をもらい始めた時点で、プレーすること自体が楽しいことなのかどうかを問うことの意味が変わっているのだろう...)。