愛と資本主義

現代資本主義社会において、私たちはこの
資本主義的マインド
が浸透する以前のセカイを想像できない。こういった世界が実に普通のことにしか思えなくなり、そうでない時代がどのようなものであったのかを理解できない。
資本主義が浸透する以前の人類は、どのように暮らしていたのだろうか。
たとえば、これを恋愛に対して考えてみよう。
現代において、恋愛とは、結婚という「将来にわたる金銭的援助を保証する」契約、にいたる前段階と言えるのだろう。つまり、恋愛対象は、自らが将来において、どれくらいの生活水準を維持したいかによって、相手が忖度される。
自分の求める要求に答えられないリスクのある相手は、対象から「除外」される。そういった、
ゲーム
となっている。それは、自分の保身であり、将来の安穏であり、つまり、
自分を「売って」買うもの
なわけだ。
商品としての夫(妻)としての自分。
こういった関係を「愛」と呼ぶべきなのであろうか。このことを、マルクスは、あの共産党宣言において、一言で整理する。

ブルジョア階級は、家族関係からその情緒的なヴェールを引き剥がし、それを純粋な金銭関係に還元した。

共産主義者宣言

共産主義者宣言

資本主義社会において、あらゆる「関係」はすべて、「金銭」に還元される。世の中にお金で買えないものはない。なぜなら、買えない(価値がある)と主張することが、相場を生みだし、値札を付けるという、人間の一連の資本主義的振る舞いをもたらすからである。つまり、
愛はお金で買える。
このことが、実際に正しいかどうかは、たいした問題ではない(よく考えれば、恋愛や結婚によって、私たちが行う日々の作法は、どこか、
労働
に似ている。お互いが相手の家に丁稚奉公に入っているような比喩さえ使ってみたくなる...)。問題は、この資本主義的セカイにおいて、このゲームが最初から、商品としての自分、のアナロジーにとらわれていることにある。
たとえば、浜省の初期の作品は、アメリカのロック文化の中において思考してきた当然の結果と言ってもいいくらいに、愛を経済のアナロジーにおいて理解しようとする詩が何度も繰り返され、それゆえに、その
意味
に悩む姿が何度も描かれる...。

笑顔ひとつで
君はどんな恋でも
たやすく手に入れた

貧しさの中でこわれて
消える愛の生活は嫌だと
まるでショウウインドゥに
自分を並べるように
着飾って誰かを待っていた

君がただひとり
心を奪われた
あいつはまだ若く
夢の他には何も
持たない貧しい学生

愛しい人のもとへ
戻ってゆくがいい
愛だけをまっすぐに見て

浜田省吾「丘の上の愛」

「丘の上の愛」において、「愛が買えるなら」(商品売買の比喩)と問い、「陽のあたる場所」において、「この愛に形があれば」(商品のディスプレイ化の比喩)、と自問する。
つまり、彼は、我々に、この資本主義的世界において、愛は成立しないんじゃないのか、と問いを突き付けているわけである。
たとえば、結婚して、専業主婦が行っていることは、一つの「労働」であるわけで、たんに整理整頓してもらったり、料理をしてもらうだけなら、お手伝いさんでも雇えばいいんじゃないかと言ってみたくもなる。とくに、近年の日本の外食産業の発展は、確実に食べるだけなら、共同生活が必要なくなってきている。
つまり、何を求めて恋愛をしたり、結婚するのか、その意味が、資本主義的な
観念
の浸透と共に、自明でなくなってきている、と言いたいわけである。
一方で、こういった問いが明確に確立しつつ、他方においてそのターニングポイントとなった作品こそ、以下と考える。

兄貴は消えちまった
親父のかわりに
油にまみれて 俺を育てた
奴は自分の夢
俺に背負わせて
心ごまかしているのさ

俺は 何も信じない
俺は 誰も許さない
俺は 何も夢見ない
何もかもみんな 爆破したい

浜田省吾「Money」

なぜこの歌詞の主人公が、あらゆるものの「爆破」を願うか。それは、自らの日々の資本主義的生活が、
愛が存在しない
ことを証明するための日常と化していることを「いやおうなく」行わさせられているからである。彼は問う。
愛がないのに、なぜ生きるのか。
しかし、この歌詞は、他方において、おもしろい構造になっている。歌詞の主人公は、この資本主義的社会の自らをとりまく、「関係」において、自分があることを再度確認させる形になっているから、である。
あるときから、自分には、父親がいなくなる。それと平行して、兄が自分にとっての父親代わりをしていたことに自覚的になる。なぜ、そのような事態になったのか。それは、
資本主義的結果
が強いたことであった。あれほど何度も何度も自分を「愛してる」と言ってくれた、自分の恋人が、ある日、お金持ちと逃げたのも、
資本主義的結果。
自分が今、こうやって比較的貧しい生活をしている一方で、ブラウン管の向こうに自分の恋人が一緒に逃げたお金持ちたちの生活が、これ見よがしに、自慢げに写されるのも、
資本主義的結果。
それにしても、浜省はこの難問の「答」を我々に提示したのだろうか。私はそれは、かなり早い段階で提示された、と考えている。

Kids were Looking for Father
母親には愛し方さえ わからず
探しても Father 苛立つだけ

They're looking for Father
彼女には 愛し方などわからず
探しても Father 見つからずに

I've been looking for Father
帰る場所もたどり着く場所も無くて
見つけても Father 戸惑うだけ

浜田省吾「Blood Line」

走り始めた1974年
輝きの中15年間
Rock & Roll 何を少年にあの夏約束した
今も Travelin' Bus 夜の国道突走る
見つけたのは
風に舞っている心の奥の
暗闇

思い出す病室で痩せてゆく父の姿を
痛みから解かれて去って行った独りきり
車の窓に映ってるおれの顔彼に似てる
Father's son 何処に向ってるの
何を手にしたいの
今夜 On the Road 空しく拳を突き上げ
叫ぶ歌は
答えの無い心の奥の暗闇

浜田省吾「Darkness In The Heart」

思い出すよ あの砂浜
歩いた日々の 父と母の姿
聞こえてくる あのあばら家
暮らした日々の 家族の笑い声

浜田省吾「Theme Of Father's Son」

つまり、彼は、この問題を親などの、自分が幼少の頃から自分をとりまいていたものとの関係に、焦点をシフトしたわけである。
(このように考えるならば、たとえば、非嫡出子。父と母が結婚していない子供、父子家庭、母子家庭の子供、こういった子供たちが、さまざまに法律によって、差別されていないかどうか(フランスは差別されていないから、少子化が止まり、日本は差別が存在するから、少子化が止まらないのだろう)、こういった視点の重要さが理解されてくるだろう...。)
こういった問題を考えるときに、私たちは、なにか
外部
に答を求めようとしがちである。偉い先生はこんなことを言ってた、みたいな。しかし、それは違う。私たちは、「条件的存在」でしかない。私たちが生きてきたのは、「ここ」であり、「ここ」でないどこかに、その意味を求めることは欺瞞である。
私たちを規定し、定義づけるのは、私たちの子供の頃から、積み重ねてきた
記憶
である。父や母や兄弟と過ごした日々が、私たちを規定しているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。反抗するにしても、再評価するにしても、私たち
そのもの
が過去の記憶に規定された「存在」にすぎないのだ。私たちは、父と母が「しあわせそうにしていた」姿を「反復」することに興奮し、父や母が「つらく苦しんでいた」ことを「乗り越える」ことに興奮する。
(愛がない、のではない。むしろ、愛「しかない」。愛だけが私たちを構成している...。)
そのことの意味を間違うことがないなら、それを「弁証法」と呼んでもいいだろう...。