カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』

マルクス共産党宣言は、今、読みかえすと、最後の何行かは、たしかに、ブルジョア階級の消滅を予言しているという意味では過激であるが、全体のトーンは非常に抑制的で常識の範囲の話しかしていないように思える。例えば、

諸君は、われわれが私的所有を廃止しようとしていることに驚いている。だが、諸君のこの社会にあって、十分の九の人間にとっては私的所有などとっくに廃止されてしまっているのだ。それは、十分の九の人間にとって存在しないという、まさにそのことによって存在しているのである。

共産主義者宣言

共産主義者宣言

つまり、マルクスの時代において、マルクスの視点からは、ブルジョアとプロレタリアは、それくらいの割合だという判断なわけでしょう。だったら、政策は、1:9で、意をくんでやらなならんと思われるが、基本、ブルジョアの連中の方しか、政治が向いていない(実際、選挙権の範囲は揺れ続ける...)。だったら、ブルジョアなんて、いらないんじゃね? これだけのことに思えるし、これだけのことなら、しごくまっとうなことを言っているようにも思える。
(そもそもマルクスの仕事全体が、そういった印象がある。けっこう普通なのだ。むしろ、エンゲルスレーニンが、マルクス
錦の御旗
にして、かなり過激なことを言っているということなのだろう)。

今日に至るまで、あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。
自由民と奴隷、貴族と農奴、ギルドの親方と職人、要するに抑圧するものと抑圧されるものとはつねに敵対しあい、時には隠然と、時には公然と、しかし絶え間なく闘い続けてきた。この闘いはそのつど、社会全体の革命的変革をもって終わるか、さもなければ、相戦う階級の共倒れに終わった。
共産主義者宣言

われわれの時代、すなわちブルジョア階級の時代は、だが、階級対立を単純化したことによって際立っている。社会全体がいよいよ、敵対する二大陣営、直接に対峙しあう二大階級----ブルジョア階級とプロレタリア階級----に分裂してゆく。
共産主義者宣言

マルクスが、この(1:9の)関係が永遠(とわ)に続くとは、考えていなかった。では、どのような「からくり」が、この関係に変化をもたらすと考えていたのか。

ブルジョア階級が封建制を打ち倒すのに用いた武器が、いまやブルジョア階級自身に向けられる。
しかし、ブルジョア階級は、みずからに死をもたらす武器を鍛えたばかりではない。かれらはまた、この武器をとるであろう人々を作り出した----近代的労働者、プロレタリアを。
ブルジョア階級が、すなわち資本が発展するにしたがって、同様にプロレタリア階級、すなわち近代的労働者の階級も発展する。
共産主義者宣言

つまり、テクノロジーの発展が、労働者(プロレタリアート)の存在基盤を、
ぐらぐら
と変えていく。まさに、現代の、ソーシャルネット社会のような、変化さえもたらしてしまう(そういう意味では、彼は未来をかなり多義的に考えていた、ということになるのだろう)。
いずれにしろ、共産党宣言におけるマルクスの立場は、この二つの階級が厳然として存在して、この二つのスタティックなスキームで考えていた、といえる(そういう意味では、賛否両論あっても、分かりやすかった)。
ところがである。掲題の第二フランス革命に題材をとった、このジャーナリスティックな論文においては、その関係は、すいぶんと違っているように思える(以下、その全貌を追ってみよう)。
そもそも、
代表制民主主義
とはなんなのだろう? この考え方は、「政治家」の中のだれかが、自分の考えを、
代表=表象(representation)
している、という考えである。政治家集団において、私たちの、さまざまな「考え」を代表する人たちが、我々の代わりに、私たちの「階級」を代表して、権利を主張してくれている、と考えるわけだ(そして、その代表プロセスは、選挙を介して実現する)。
ということは、どういうことか? 一つだはっきりしていることは、政治家のだれか一人は、
自分を代表してくれなければならない
ということである。なにがなんでも、そうでなければならないのだ。なぜなら、もしそうでなければ、自分は誰にも代表されないことになり、自分は民主主義的意思決定に関わっていない、ということを意味してしまうからである。
もし自分の利害や意思が、政治において「表現」されないとするなら、それを民主主義と呼んでいいのだろうか。つまり、代表民主制において、なによりも大事なことは、「すべての国民が、政治家のだれかに、代表されている」と「思える」かどうかとなるだろう。
しかし、どうだろう。もし、この「お約束」が、だれにとっても自明でなくなったとき、はたしてこの、代表民主制はどうなっていまうのだろうか。
つまり、なぜ、フランス国民はフランス革命の財産を放棄し、ルイ・ボナパルト(ナポレオンの孫)への、独裁政権の「禅譲」を行うことになったのか。

いかがわしい生計手段をもつ、いかがわしい素性の落ちぶれた貴族の放蕩児と並んで、身を持ち崩した冒険家的なブルジョアジの息子と並んで、浮浪者、除隊した兵士、出獄いた懲役囚、脱走したガレー船奴隷、詐欺師、ペテン師、ラッツァローニ、すり、手品師、賭博師、女衒、売春宿経営者、鋳掛け屋、乞食、要するに、はっきりしない、混乱した、ほうり出された大衆、つまりフランス人がボエーム[ボヘミアン]と呼ぶ大衆がいた。

とっくの昔に滅んだ、時代遅れの、お貴族さんと思われ、誰からも相手にされていなかったはずの、ルイ・ボナパルトは、まず、こういった、一般に、
ルンペン・プロレタリアート
と呼ばれるような、代表民主制において、まず、代表されることのない、人々の意見を、まるで代表するかのような(代表できるかのような)、スタンスから、活動を始めたことは重要だろう。
しかし、こんなヘンテコなことはないだろう。どうやったら、こういった人たちを、彼が「代表」できると思えるか? いや。そうではない。そう考えてはならない。彼が代表「できない」からこそ、代表するのである。
彼らのような人々は、この代表民主制において、だれによっても代表されない(そこには、制限選挙の影響もある)。なぜ、こういった人々が、ルイ・ボナパルトを支持するようになるか。なぜなら、政治家の「だれ一人」として彼らを代表していないから、である。そういう意味でなら、昔の、ナポレオン皇帝時代の皇帝は彼らを「代表」していたわけだし、
背理法(消去法)
によって、「彼しかいない」というわけだ。
では、ブルジョアにとっては、どうなのか。実は、彼らも、結果として、ルイ・ボナパルトを支持するようになる。しかし、それはおかしい。彼らを代表する、政治家が存在するための、代表民主制なのだろ?
彼らはいる。確かにいる。ところが、彼ら。
ブルジョアを「代表」してるのかな?

はるかに取り返しがつかず、決定的だったのは、商業ブルジョアジーと彼らの政治家との決裂だった。商業ブルジョアジーは、王統王朝派が自分たちの政治家を非難したように、原理に背反したからではなく、反対に、役に立たなくなった原理に固執したからという理由で、政治家たちを非難した。

もし、人々が自分は議会のどの政治家にも「代表」されていない、と思い込む事態になったとき、なにが起きるか。当然、自分を代表している、だれかを探す、ことになる。しかし、議会を構成する政治家の中にはいない。
じゃあ?
ルイ・ボナパルトは、いわば、そういった諸矛盾を解決する「唯一」の答であるかのように登場する。だれもが、だれにも代表されていない「から」こそ、
むしろ、彼が「すべて」の人を代表する、わけである。
無理「だから」通る。
すべての問題に対する答がない(あるはずがない)、ということが、逆に、すべての問題「の答」が、まるで、あると思わさせることを(無理筋だろうがなんだろうが)要請するわけである。
大事なことは、多くの人にとって、「状況」が、この答しかない、かのように「見える」ということなのだろう。
しかし、あまりにもなさけなくないか。たとえば、ジャーナリストや言論人は、なにをしているのか。

しかし民主主義者は、小市民を代表しているので、したがって二つの階級の利害が同時に中和しあっている一つの過渡的階級を代表しているので、自分はそもそも階級対立というものを克服しているのだと思い込んでいる。民主主義者は、一つの特権階級が自分たちに敵対しているが、自分たちは国民の残りの周囲の人々全部とともに人民を形成していることを認める。彼らが代表しているのは、人民の権利であり、彼らが関心をもつのは、人民の利益である。だから彼らは、間近に迫った闘争に際して、様々な階級の利害と立場の違いを吟味する必要がない。彼らはまさにただ合図を与えればいいのであって、それと同時に人民がその尽きることのない力量のすべてをもって圧制者に襲いかかるのである。実行の中で彼らの利害関心が関心をそそらないものであり、彼らの権力が無力なものであることが判明したとすれば、それは、不可分の人民を様々な敵対する陣営に分裂させた有害な詭弁家たちによるものであるか、そうでなければ、軍隊があまりにも野獣のように残忍になり、理性を失ったので、民主党の純粋な目的が彼ら自身にとって最良のものであることが理解できなくなっちたか、あるいは、実行の際の些細なことが全体を挫折させたか、あるいは、予期せぬ偶然が今回は勝負を無に帰せしめたか、そのいずれかによるものである。いずれにしても民主主義者は、きわめて恥ずべき敗北に陥ったことに責任がないのと同じように、この敗北から非の打ちどころなく抜け出しており、しかも、彼は勝利するにちがいないのであり、彼自身と彼の党は古い立場を放棄する必要がなくて、逆に、諸関係が彼に向かって成熟してくる必要がある、という新たに得られた確信を抱いて立ち直ってくるのである。

明らかに、だれにとっても、自分を「代表」しないはずの存在が、それゆえに、だれにとっても、自分を「代表」しているように見え、
権限移譲
されるという、この代表制が崩壊し、独裁制に移行していくプロセスは、どこか、
金融恐慌
に似ている。どちらも、
信頼
のシステムが、根底から疑問視され、だれもが、どこにも拠って来たる場所を見つけることができず、システムはその基盤からもろくも崩れてさっていくことに抵抗できずに...。

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)