「言論の自由」という自由

都のマンガ規制条例については、成立後も、あまり大きな展開もなく、ここまで来たという印象だ。大塚英志さんがネット上で「新現実」とかいう、臨時の雑誌で、自身の立場を書かれていたのを読んだくらいで、言論的にも、大きな展開もなく、たんたんと、ここまで推移してきた、という印象しかない。
というのも、いずれにしても、以前にも書いたことであるが、あれだけの反対の反応があったものというのは、そういったものを無下にして、つき進もうにも、「正当性」が弱いので、あまり、過激な結果にしようにも、なりようがない、といったところが実際のところなのだと思っている。それだけ、この民主主義社会にとって、正当性の獲得は、大きなファクターなのだと思っている。
私がこだわったのは、videonews.com での、保坂さんのこの問題に対するスタンスについてであって、それは、まさに、今回の条例改正のリテラルな側面についてであった。
ただ、それと関連する形で、言論の自由に対する、考え方について検討したわけであったが、あらためて、その辺りを整理してみようと思う。
自由は、場合によっては、制限される。もし、これが正しいとするなら、問題は、それを自由と呼ぶべきなのか、となるだろう。
特に、昔から、多くの啓蒙思想家がこだわってきたのが、
言論の自由
についてであった。これについて、マルクスは、次のように考察している。

一八四八年の様々な自由の御定まりの参謀本部、すなわち、個人の自由、出版の、言論の、結社の、集会の、学問の、宗教の自由等々は、憲法の制服を授けられて、それによって不可侵とされた。つまり、これらの自由はどれもフランス市民の無条件の権利だと宣言あれるが、それらが無制限なのは、「他人の同じ権利と公共の安全」によって制限されないかぎり、あるいは、個々人の様々な自由の相互間の調和や公共の安全との調和を媒介するはずの「法律」によって制限されないかぎりのことである、という確固たる傍注が付いているのである。たとえば、「市民は、結社を作り、平和に武装せずに集会し、請願し、出版によって、あるいはその他のどんな方法であれ、自分の意見を表現する権利を有する。これらの権利の享受は、他人の同じ権利と公共の安全以外には、どんな制限ももたない」(フランス憲法第二章第八条)----「教育は自由である。教育の自由は、法律の定める諸条件の下で、また国家の監督の下で、享受されなければならない」(同第九条)----「いかなる市民の住居も、法律の定める形式による場合を除いて、不可侵である」(第一章第三条)等々。----だから憲法は傍注を実行し、これら無制限の諸自由が相互間でも公共の安全とも衝突しないようにそれらの享受を規制するはずの、未来の有機的に関連する法律への注意を、つねに喚起している。そして、後にこれらの有機的法律が秩序の友によって作られ、あの様々な自由のうべては規制されたので、ブルジョアジーがそれらを享受する際に他の階級の同じ権利と衝突することはない。ブルジョアジーがこれらの自由を「他者」には完全に禁止するか、あるいは警察の罠とほとんど同じである諸条件でそれらの享受を許可する場合、それはいつも、憲法が定めているように、「公共の安全」、すなわちブルジョアジーの安全のためだけ行われた。だから、あえらの自由すべてを廃止した秩序の友も、そのすべての確定を要求した民主主義主義者も、両方ともが今後はまったく当然のことながら、憲法を引き合いに出すのである。すなわち、憲法のどの条文も、自分自身の内にそれ自身の反対命題、それ自身の上院と下院を、つまり一般的な決まり文句の中には自由を、傍注の中には自由の廃止を、含んでいるのである。したがって、自由という名前が尊重され、その現実の執行が阻害されているにすぎないのであるかぎり、法律的やり方に熟練すれば、自由の通常の存在がどんどんひどく打ち倒されていようと、その憲法上の存在は、侵害されていないのであった。

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

自由が規制されるべき場合がある、と言う表現は、どこか、
自己言及的
な様相を示していないだろうか。まず、自分の自由が侵害されていると訴えるためには、自分の言論が許されていなければならない。ところが、規制が「許される場合がある」というわけだ。問題は、その超越論的「言いすぎ」である。
ここには、上記の引用にあるような「アンチノミー」の臭いを感じさせられる。例えば、現代社会においても、ある程度のプライバシーはマナーとして、お互い尊重するようになっている(たまに、一部のKYな有名人によって、公開処刑される、一般市民も現れるようにはなってきたが)。しかし、だからといって、絶対に、その人のプライバシーが、どんな場合も漏れてはならない、とまで言うほどかと考えると、それも強すぎるようにも思われる(ある程度、プライバシーを犠牲にしても、訴えなければならない、言論の自由をベースにした、報道活動が必要なケースもあるだろう)。しかし他方において、人々はそこまで、他人のプライバシーに興味があるのか、と考えるなら、ほとんどの場合は、どうでもいいことのはずだ(基本的に、だれもが自分のことにしか興味がないわけだから)。
つまり、多くの権利や義務間の、衝突、アンチノミーは多くの場合、「現実的な解決」が現場においては、その現場の「自生的な秩序」が、交通整理をしている、と考えるべきなのだろう。
保坂さんや神保さんも、こだわっていたように、問題は、なぜ今このタイミングで、こういった法案が、これだけの反対が市民にありながら、成立させることになったのか、と問うべきで、つまり、この法案をどうしても成立させたい、という市民側の、立場の人たちが、まともに表にあらわれて、主張していない(そもそも、そんな人がいたのか、という話もあるが)、という不思議な光景だったということなのだろう。
しかし、一部の「良識派」とでも言うべき、理解あるネットユーザーにおいて、海外においても、エロマンガに対する国家規制のあるのは、一般的なのだから、「普通の国」を目指す日本も、そういった地域を「見習って」ある程度のゾーニングをすることは、しょうがないんじゃないか、という考えはあるようだ(本音は、どっちでもいいんじゃないか、ということのようだが)。
その点については、上記に書いたように、この法律が、「ほとんど正当性、実行性の薄い」条例として、ほぼ機能しない結果となるなら、まったく、その通りと言ってもいいと思う。だからこそ、保坂さんがこだわっていたのは、その「リテラル」な法の文面だったわけで、ずっとそこしか問題にしていないわけだ。
もし、日本中のさまざまな、出版物に、それなりの、倫理的な「規範」が生まれるべきだと考えるなら、それは「民間」の機関によってでなければ、機能しないだろう。それは、法体系における、「言論の自由」のあまりにもの「優越」された、揺るがない特権的な地位が厳然として存在するから、と言える(もちろん、国家による、本格的な焚書坑儒がありえない、と言っているわけではない。実際、中国は今でも、そうだし、日本がそうならない根拠はない。それは、近年の検察の汚職のニュースを見ても分かるだろう)。
一部には、マンガと言論は別だ、と考える人もいるようだ(そういう人は、「表現の自由」という言葉の方を、わざわざ使うらしい)。おそらく、そういった人は、欧米人のように、文字を「絵」と別のものと考えているのだろう。しかし、そうだろうか。漢字と絵は、どこまで違うと言えるか。どうして、その二つを区別しなければいけないか。原理的にこの二つを区別できるような、理論がありうるだろうか。