ゆとり、という「60点主義」

実際のところ、ゆとり世代が、どのような教育環境にあったのかは知らない。しかし、いずれにしろ、学力が落ちたのだろう。しかし、学力が落ちるとは、どういう意味なのだろう。
たとえば、学校のテストは、100点満点のはずだ。しかし、もし、生徒たちが、
60点とれればいいんだ
と思い始めたら、どういうことが起きるだろうか。「ゆとり」が大事なのであって、分からないことがあっても、家に帰ってまで、勉強する必要なんてない。そんなことをすることは、クラスで頭一歩前に出ようという「姑息」な態度で、クラス内のKYとなる(運動会で、みんなで手をつないで、かけっこ、をしてるのに、ゴール前で、頭一歩とび出ようとする、「ずるっ子」)。そういう、
ゲーム
が暗黙のうちに約束されるなら、人々は、100点をとるという結果は、なんらかの
ずる
をしたと見られるだろう。そこから、予習復習をやらないなら、いいところ、
60点
までいけば、その人は「がんばった」となる。つまり、60点を「目指す」。テストを受ける前に、自分に分からないことがあることは、
デフォルト
になる。授業の内容や教科書の内容の分からないところがあり、もやもやしていることが当たり前で、その状態で、どうやって、60点まで、もってくるか。
三択問題であれば、少なくとも、確率で3分の1は、正解になることが期待できる。もちろん、最悪のケースを考えれば、0点だが、適当に書いても、30点はとれると期待できる。でも、「それなり」には授業を受けていたわけだから、「なんとなく」で選んでも、それなりには正解になったりする。間違えたら「運が悪かった」。
大事なことは、自分が理づめで、思考していったなら、こういった結論には、
どう考えても
到達しない、と思われることでも、
今ある情報から考えて、答もよく分かんないし、こんな感じで書いておこうか、
という、「あいまい(ファジー)」戦術が横行することである。自分は分かっていない。でも、今だってちょっとなら情報がないこともないんだから、
こう書いておいても、そんなに遠くないだろう。
なにも書かないより、やってる感があるし、白紙よりは、印象は悪くない(はずだ)。
しかし、こういった態度は、社会人にとっては、致命的だ。分からないんだったら、むしろ、何もしないでいてくれた方が、どれだけ助かるか。「ちゃんと理論的に考えるなら、こんなことはやらないだろう」という「ミス」に、専門家であればあるほど弱い。ベテランであるほど、気付きづらい。とにかく、ちゃんと考えてくれてるんだろう、という「信頼感」が崩壊したとき、あらゆる共同作業は成立しなくなる。
大事なことは、その人にケアレスミスがなかった場合に、「ちゃんと理論的につきつめて思考活動をしてくれたら」、100点がとれただろう、という判断ができることだといえるだろう。そういう状態を「分かってる」と判断して、教師は、進級を許可する。
つまり、このゲームは、生徒たちが、
100点を目指して、
テスト勉強をしてくれないと、意味がないのだ。生徒たちが、ある部分は分かってなくても、全体で60点とれればいいや、という考えで、取り組まれると、自分の苦手なものばっかりがテストに出ようものなら、0点となり、
キレる。
ですから、大事なのは、そのテストの点数というより、そのテストを何回やってもいいから、
ちゃんと分かる
ことが重要なわけだ。ちゃんと分かって、次のステップに進級してくれさえすれば、なんでもいいわけだ。
しかし、こんなふうにも考えられる。テストが終わってから、がんばってくれてもいい、と。つまり、なにごとにおいても、分かってくることには時間がかかる、と言えなくもない。人によって、そのスピードには差異があるわけで、その人の今までの生き方によっても、理解のスピードは違うのだろう。人間万事塞翁が馬。なんでもいい、結果的に分かってくれりゃあいーとも言える(学校システムは、そういった「信頼」システムによって成り立っている...)。