ケータイ的な

ケータイというのは、90年代以降の日本の若者カルチャーを決定的にしたのだろうと思う。
電話機とは、音声のアナログ信号を機械によって、遠方に、電気に乗せて運ぶ分明の利器であり、エジソンだったかが発明し実用化したわけだった。
こういった電気を使って、通信をするということでは、テレビもそうですし、それほど難しいものではない、と言える(少なくとも、テレビ並みという意味で)。

  • テレビ:テレビ局 --> テレビ
  • 電話:電話機 --> 電話基地局 --> 電話機

しかし、なぜケータイが
革命的
かというと、このツールが徹底的に
パーソナル
だったからだろう。それまでの電話は、いわば、家の茶の間とか、公共機関とか、つまりは、
固定
されていたし、その設置場所は、「パブリックな場所」であった。
しかし、ワイヤレスの無線通信の普及とともに、テレビや電話機は、ユビキタス化して、ほとんど、各個人同士の、
1対1
のデバイスとなる。つまり、各個人のエンベッデッドな存在となり、各個人のいる場所と関係のなく、常に、応答可能な、存在となっていく。つまり、ケータイそれぞれを、
それ
と指示することが、それを所有する人を指示することと、差異がなくなっていく。つまり、こうだ。

  • (ケータイ)テレビ:テレビ局 --> 人
  • (ケータイ)電話:人 --> 人

驚くべきは、この後者だ。今まで、多くの場合、メディアとは、ブロードキャスト的なものと考えられてきた。だから、その他多数に向けて発信することが、メディアと考えられてきた。だからこそ、そういった(一方向的マーケティング)コミュニケーションの「作法」が問題とされてきた。
ところが、ケータイ電話においては、完全に、個人同士の「メディア」が実現してしまっている。つまり、私たち個人のコミュニケーションが、このとき、
空間的制約を解放された
わけである。各個人は、今まで、面と向かって相手と話すことで、お互いの意思疎通を行うことが普通であった。つまり、意思疎通とは、
接近戦
と同値だった(そうでないケースとしてあったとしても、せいぜい、手紙による、
かなりの時間差を前提とした文字情報による一方向的手段
くらいしかなかった)。ところが、この空間を超えた、ということが、どれほど革命的か、というのは考える必要がある(実際、エータイは「高価」でもあった。子供たちは、ケータイに多くのお小遣いを投資したわけで、日本の不況の一つの原因だったと考えてもいい)。
こういったパーソナルメディアの普及した現代ケータイ社会における、コミュニケーションには、どのような今までにない特徴が現れてきていると言えるだろうか。
いや。
私は、この事態を、むしろ反語的に問いたい。つまり、こういった「ケータイ」的な、個人間接続は、かなり「一過性の過渡的な事態なのではないか」。
たとえば、近年のソーシャルネット社会でも、基本的に、アバターのつぶやきは、だれでも覗ける。覗けるだけじゃなく、だれでも、話しかけてくる。まったく、言論が閉じないのだ。
しかしそれは、リアルな日常においては、普通の事態に思える。街中で、恋人同士が話していても、平気で、回りの人たちは、二人に話しかけてくるだろう。近くで聞いていた人が、その剣呑な雰囲気に、話にわりこんできて仲裁を買ってでようとする人があらわれることだってありえなくない。つまり、接近している二人の個人的な会話は、けっこう、
パブリック
なのだ。
(ところが、ケータイを介した、遠距離会話となると、なにが起きるか。回りの人たちは、一方の発言しか聞こえない。つまり、回りの人を完全に、コンテクストから隔離してしまうのだ。つまり、あきらかに、ケータイによる遠距離通信の方が、お互いの空間のクローズドネスが高まるわけである。)
また、学校の教師や保護者である父親や母親が、子供のケータイでの「会話」の内容を、どうして盗聴したり、話に割り込んできてはいけないのか、と考えると、あまり合理的な理由もなさそうに思える(だって、扶養の義務がある、というのだから)。ケータイが、そういった機能、チャット的な機能をデフォルトとすることは、今だって、少しも難しくないだろう。
つまり、今のケータイ電話の、
1:1
のクローズドなセカイは、今後、あっという間に、消滅するのかもしれない。そういった、時代が生み出した、一陣の風のようなものだったのかもしれない。
しかし、である。
だからこそ、この「1:1クローズド」は、非常に特殊な、「現代」若者文化の「英雄的」特性を生み出している、とは言えないだろうか。
たとえば、アニメ「とある科学の超電磁砲」の前半は、こういった、
ケータイ的
なコミュニケーションを考える一つのケーススタディになっている。
左天さんは、レベルゼロの能力のない状態が、あい変わらず続いていて、能力開発学園都市に籍を置いている身として、肩身の狭い思いをしていた。そんな彼女がたまたま、都市伝説を追う中で、レベルアッパーという、自分の能力を人工的に機械で上昇させるツールが存在することを知り、入手する。一人でそれを使うのが恐くて、何人かの同じような悩みをもつ友達を誘って、使用してみると、確かに、自分でも、超能力が使えるようになる。
無能力者から能力者になれた喜びにひたっていると、周りで、次々と一緒に、レベルアッパーを試していた友達が、意識不明の重体で倒れていく。つまり、レベルアッパーには、使用者を確実に意識不明にする、副作用を及ぼすツールであった、ということである。
左天さんは自分のアパートに戻るが、恐くなり、唯一の親友の初春のケータイに電話する。友達が倒れたということは、どういうことか。当然、左天さんも倒れる、ということである。それは、いつ起きても、おかしくない。もうすぐ、目の前に迫っている事態だと言える。
園都市の通りを歩いていた初春は、彼女の尋常でない雰囲気をさっし、緊張感が走る。

  • 左天さん「ママ...(小さい声で)」
  • 初春「えっ? なんですか?(走りながら、息切れ)」
  • 左天さん「レベルゼロって、欠陥品なのかな...」
  • 初春「えっ? なにを?」
  • 左天さん「それがずるして、力を手に入れようとしたから、ばちが当たったのかな? あぶないものに手をだして回りをまきこんで、わたし...」
  • 初春「左天さんは欠陥品なんかじゃありません。能力なんか使えなくたって、いつもいつも私をひっぱってくれるじゃないですか。力があってもなくても左天さんは左天さんです。私の親友なんだから。だから...、だから...、そんな悲しいこと...、言わないで...」

左天さんは、この事態を、
自分のせい
と考えようとする。自分は無能力者であり、この学園都市に貢献できていない。どうしようもない人間で、この機会に、自分の最後が来ることは、
妥当な「いきさつ」なのではないか。
左天さんは、そう思ったからこそ、この「重大な事態」を、初春のケータイに向かって、
ダイレクトにつなげる
形を選んだわけである。つまり、左天さんは、もっと、フランクに自分の思いを自嘲的に語ろうとしたのだろう。そうすれば、初春はいつものように、めんどうくさそうにも、アイロニカルに「相対的に」理屈付けしてくれるはずだと、いつものように...。
しかし、ジャッジメントとしての、初春は、瞬時に、この事態が何を意味しているかを理解する。
レベルアッパーを使って倒れた人たちは、今まで、一人として、目を覚ました人はいない(全員、昏睡状態で、病院のベットに隔離されている)。ということは、左天さんは、もう一生、目を覚ますことのない眠りにつくことになるかもしれない。今生(こんじょう)の別れになるかもしれない。この
ケータイ
での会話が、今際(いまわ)の際(きわ)の、遺言と考えることもできるのである。
一対一で、人の会話がダイレクトに繋がる、という事態は、言わば、完全に、
二人の世界
が完成している、と言っていい。だからこそ、初春は、いつもの気弱な姿を維持する動機から解放され、
神になる。
つまり、直截に、左天さんの自分にとっての「重要さ」を告白し、無条件に肯定する。大事なことは、初春に「とって」、左天さんが、
欠陥品
である、という(左天さん自身による)自己定義を受け入れられないということである。それは、彼女に「とって」、そうなのである。たとえ、この学園のすべての人が、そうだと言おうとも、世界中の人がそうだと言おうとも、彼女には、たんに認めない。
もし、左天さんが欠陥品なら、それは、初春自身がその左天さんに精神的に支えられてきたことを自ら「確信」している、彼女自身の
セカイ
が否定されることを意味するわけで、彼女にとってそれは、どうあっても受け入れることができないのだ。
ケータイをにぎりしめ、左天さんのアパートに向かって走る初春は、この現実を、たんなる機会原因的なものとできない...。
有限的存在である人間にできることは、たかが知れている。しかし、たとえそうだったとしても、そのために傾けられる努力の量に、限りはない。
最後の最後。その最後の、その瞬間、一瞬まで、
昏睡状態で眠る、左天さんが目覚めてくれる手段を探すことを、彼女がやめることはない...。