山形石雄『戦う司書と荒縄の姫君』

テレビアニメ版については、このブログで以前ふれた。そのときも、ノロティについて書いたのだが、その該当個所を改めて、引用してみよう。

アニメ「戦う司書」は、絶望的なアニメである(以下完全ネタバレ注意)。心優しい、正義感に満ちた、登場人物こそが、最も早く、だれも注目していない、田舎の片隅で、「なんの英雄的存在でもない」つまらない、下っ端の小金目当ての鬼畜の所業によって、殺される。

ノロティ。
彼女こそ、この作品を象徴する存在であろう。彼女は、ずっと、バントーラ図書館の見習いとしてトレーニングを積むが、彼女は人を殺さない、と自分に誓う。戦士としてのトレーニングを積みながら人を殺さない。結局、最後は、ある、自分たち、バントーラ図書館の戦士によって、皆殺しにされた子供たちの中の、ある生き残りの男の子によって、何度も殴られた後、死ぬのだが、彼女は決して、その少年を恨むことがなかった(そのことが、第22話で、ある戦争を終結させるのだが)。
なぜ、ノロティは、人を殺さず、人を恨まなかったのか。それは、彼女の出自と関係していたのであろう。彼女はある田舎の小さな村の出身であり、そこで、かわいがられながら、さまざまな生きる村作法を身につけて、バントーラ図書館に来た。もちろん、ここで、彼女のその村作法は、「弱点」として徹底的に矯正すべき振舞として指導されてきたが、彼女は、最後まで、その自らの信念を捨てることがなく、最後、息を引き取るまで貫き通す。
彼女は間違っていたのだろうか。しかし、一体、だれに彼女の生き方を変えることができたであろう。
たとえば、エンリケは、そんな彼女によって、「救われた」一人と言っていいだろう。彼は、彼女にこのバントーラ図書館の戦士として生きることをやめさせようとしていたが、それが彼女の意志でないことも分かっていた。そのことが、もともと、死ぬことを望んでいた彼が、それでも、生きる理由として唯一、そんな「子供っぽい夢をみる彼女をサポートする」ことだけだったわけだから。
この作品は、そんなノロティの死(第22話)の後も作品は続くのだが、いずれにしろ、作品としては、こういった、イエス・キリストの十字架の死、を思わせる、「殉教」という色彩を色濃く残す作品になっている。
弱さや、正義は、たしかに、実力では負け、だれにも注目されることなく、ひっそりと、死を迎えるが、逆にそれが、ある種の「殉教」となり、その後を生きる人々に、
「深刻な考察を促す」。
screenshot

テレビアニメ版は、細かな説明がどうしても省略されるので、全体のストーリーを追うのが難しい。
そういうこともあり、頭の片隅では、実際のところ、原作はどうなっているのか、というのが気になっていた。
今回、原作のライトノベルを改めて、6巻まで読んでみて、別に、上記に対して、なにかを付け加えたいわけでも、その批評を否定したいというわけでもないのだが、もう少し、その周辺を考えてみたい感想をもった。
この原作のライトノベルは、集英社週刊少年ジャンプ的なスタイルの系列に位置付けられるものであろう。ジャンプ的なものとは、なにかと考えるなら、それを暴力的な描写を、仁義や朋友などの日本的アンダーカルチャー的な視点で、子供向けにデフォルメしたもの、くらいに整理できるかもしれないが、たんにそうではなく、むしろ、
ミステリ的エンターテイメント
を積極的に導入してきた、というのが特徴ではないだろうか。こういった、ジャンプ的サブカルチャーでは、積極的に超能力や魔力などの、トンデモ能力がテンコ盛りとなるのだが、むしろそういったものは、一つの
思考実験的なセカイの条件付け
と考えられなければならない。大人は、こういった「高度な抽象力」についていけない。しかし、子供にとっては、この社会は「これから学んでいくもの」として等価なのだから、受容に対する抵抗が小さいと考えられるだろう。
こういった、超能力や魔術などのアイテムは、しょせん、アイテムにすぎない。それらが、たとえあろうがなかろうが、この社会の根本的構成要素を変えなければ、
たいした問題ではない
のである。むしろ、そういったアイテムは、「推理小説」的に考えるなら、一つの「推論」を構成する、
公理
が一つ追加されているにすぎない。推理小説において、探偵は、読者がどう考えても、思いつかないような人を、犯人と名指す。読んでいる方としては、ある意味、だれが犯人だろうがどうでもいい。関係ない。しかし、なぜ探偵がそのように「断定」したのか(実際、犯人は、問詰められ自白するのだが)、が
ミステリ的エンターテイメント性
に欲望される。探偵は、あきらかに、「他の人たちにとっての」盲点を、かき集めて、一つの仮説とする。その仮説は、「正しい」というより、
さまざまな事実と矛盾しない
という「傍証」によって、「比較的に高い真実度」によって、探偵によって主張される(アブダクションとも言いますね)。有限的存在である人間には、真実に辿り着くことはできない。しかし、
推論
することはできる。推論とは、さまざまな「仮説」を条件とした上での、推論結果のことを言う。犯人が認めるのは、その一部であるわけだが、犯罪を構成するには、それで十分ということである。
掲題の小説の世界は、非常に、現代社会に似ている、といえるのではないか。むしろ、現代社会のさまざまな矛盾がインスピレーションとなっていると言えるだろう。
バントーラ図書館が、アメリカの軍隊、だとするなら、神溺教団は、アルカイダとなるだろうか。ところが、この世界において、バントーラ図書館のトップと神溺教団のトップは
ぐる
となっている。しかし、もちろんそのことを両方のトップしか知らないところは、ブッシュが9・11、でアメリカ国内のアラブ人をグアンタナモに、どんどん収監しておきながら、他方において、ビンラディンの親族とも関係があるアラブの王族を最上級のVIP待遇を行い続けたことからイメージできるだろう。
さまざまな権力組織において、最も恐れることは、トップの「闇討ち」合戦だといえる。お互いが忍者(スパイ)を送り合って、トップを殺し合い続けることこそ、最悪である。もしそうなったら、だれもトップになりたがらないであろう(ケネディ大統領なんて典型だ)。優秀なブレーンを次々と亡くすことは、そもそもの、組織を構成し続ける頭脳の維持が難しいとなる。
しかし、よく考えてみれば分かるが、簡単なのである。頂点を抹消することなど。だって、頂点は一つしかないのだから。たくさんいれば、どうしてもコンプリートするまでに時間がかかるが、一人なら、そいつだけでいいし、そいつをやる前に、前科を犯す必要がないから、怪しまれない。
そこで何が行われるか。
手打ち
である。トップ同士が、頂点の殲滅戦だけは避けようと、お互いの共存のルールを設定する。
では、掲題の小説における、「読者の盲点」とは、どこになるか。それは、神溺教団を構成する最下層階級「肉」を構成する、人々、つまり、
市井の市民
だと言えるだろう。バントーラ図書館とは、まさに、「エリート階級」だ。小さい頃から、いいとこのボンボンで、エリート教育を受けて、東大に入って、出世階級まっしぐら、といったところか。
そういった人たちは、数えるほどしかいないし、そういう人たち同士で、濃密な人脈のコネクションがある。そういう人たちから見れば、世界は、
彼らを中心に回っている。
その他の、下級大学だとか、下級企業とか、眼中にない。
ノイズ
くらいにしか思っていない。実際、大衆の、ある一人が、このセカイに不満を覚えてみたところで、なにも変えられない。
だからこそ、
エリートは大衆を無視する。このように、無視するには無視するなりの理由があるということである。しかし、そういった大衆には、たった一つ、利点がある。
数が多い
ことである。あまりに多いので、「たまに」大きな仕事をやってしまう人も現れないとも限らない。特異体質が、たまに生まれる、ということだろうか。
さきほど、バントーラ図書館と、神溺教団は、頂点でつながっている、と言った。普通に考えるなら、バントーラ図書館は、現代における、国連のようなもので、私たちが考える「正当」な、統治機構であり、
神溺教団は、マフィア組織のように、アンダーグラウンドで、アングラマネーを支配しているという感じであって、まったく違うように思えるが、ある点において、結局はお互い似ていなくもない。つまり、お互い
手段のためには、人殺しも辞さない
ということである。お互い、大きな目的があり、そのために、人殺しをためらわない。もちろん、神溺教団は、大衆を奴隷として扱うわけで、鬼畜の所業であるということでは、バントーラ図書館は、ずっと人権を大事にするわけで、ましなのだろうが、最後のところでは、人殺しを選ぶ。
ここについては、たとえば、アメリカのブッシュ大統領が、イラク侵略戦争を、ためらうことなく行い、泥沼の混乱をその後、何年にも渡って、もたらしたことに比較できるかもしれない。
第一巻のコリオは、シロンに恋をし、その騎士的な英雄的行動と結果したかもしれないが、彼の人間への憎しみがあったことは変わらない。
第二巻のエンリケも、クモラやノロティの影響によって変わっていったとしても、多くの人を殺した罪科を背負って生きていく決断をしているという意味で、殺人的生き方から逃れられたわけではない。
第五巻のオリビアも、レナスや、ベンド=ルガー、シャーロットのさまざまな影響によって、セカイの苦しみの除去を実現したとしても、オリビア自身の今までの生が、多分に非人道的なものであったことは、否定できない。
つまり、コリオ、エンリケ、オリビア、に共通するのは、たしかに、最終的に大きな善導を行うとしても、それまでの道程は、汚れた手であったことは変わらない、ということになるだろう。
第六巻において、バントーラ図書館を追い詰めたのは、以前に、モッカニアという、武装司書によって虐殺された人々の、関係者である、子供だったわけで、ノロティは、そういった「罪」をもつ、武装司書になろうとしているわけだから、当然、その「罪」を引き受けなければならない立場として描かれる。
つまり、彼女は、話の展開から、「殉教」してくれないと困るような、ストーリー構成にされている。
たしかに、モッカニアが行った虐殺を、そのままにして、バントーラ図書館を、正義の御旗、にすることには無理がある。最初にも言ったように、バントーラ図書館には、恨まれる理由がある。誰も自らの組織の「責任」から逃れることはできない...。

「まだ、武装司書を憎むか」
(........憎い........)
魔獣が言葉をつむぐ。
(........何もかも、どうでもいい........武装司書も、なにもかも........消えしまえ....)
「そうだな。俺もそう思う」
表向き、アーキットに同意したというわけでゃない。エンリケにとっても、武装司書など知ったことではなかった。もはやノロティはいないのだから、世界など滅びたって構わないとすら思ってしまう。
ノロティは世界の宝だった。この世がどれだけ続こうとも、もうあんな娘は生まれない。ノロティの死は、アーキットとエンリケにとって、世界が滅びる理由に足りうる。
「だがな。俺たちがそう思っても、ノロティが許さない」
(........ノロティ........)
「信じられるか、アーキット。自分を裏切って、足蹴にした人間を、許す人間がいる。世界を滅ぼそうとしているお前を、幸せにしたと思う馬鹿がいる。俺は信じられない。お前も信じられないだろう」
(........うそだ........)
「知っているか。世界の全ては、あいつのものだった。俺もお前も、ノロティのものだった」
そう言ってエンリケは、ノロティの『本』を魔獣の鼻先に置いた。『本』の記憶が、アーキテットに伝わる。ノロティがぶつけられなかった、アーキットへの問いを知る。
やがて、アーキットが言葉をつむぐ。
(........ノロティの命と、憎しみと、どちらが重い........)
アーキットの目はもう涙を流せない。泣くことができれば、泣いていただろう。
(そんなの........聞かなくても、わかるだあろ........あいつは、馬鹿だな........何にも、わかっちゃいないんだ........)
「そうだな。本当に、あいつは馬鹿だった」
(まだ言うのかよ........憎むなって........馬鹿だな........まだ、そんなこと言うのかよ........)
アーキットは、魂で泣いている。
(........わかったよ........きくよ........お前の言うことを........)
最初に出会ったとき、ノロティは言った。言うことをきいて欲しいと。
言うことをきいてもらうために手下になった。そして、言うことをきいてもらうために、カチュアのところへ行こうとした。そして、言うことをきいてもらうために、殺された。
思い返せば戦いは、つまるところ、それだけのことだった。

こういった、相手をなんとしても殺さないことを目指す戦術は、いわゆる、日本における、戦後の9条的戦術と言えるだろう。
ノロティが第2巻で登場したときから、彼女の存在は、どこか9条的であった。以前にも書いた記憶があるが、9条を愚かと言うことは簡単であるが、

私たち日本人自身が9条を「生きている」(この憲法を「信仰している」)ことから目をそらすことはできないだろう。戦後、60年、日本が戦場にならなかったのは、9条があったから、としか思えない。この「結果」がいいのかわるいのかなど関心もないし、どうでもいい。ただ、これは未来についても言える。いいか悪いかなど、問うこと自体が、不毛だ。
どう行動するか。
あるのは、それだけしかない。結果として、未来において、悲惨なカタストロフィーを回避できるように行動して、成功するなら、その選択もありだったのだろう(それ以上の臆断など不遜そのものだ)。
ただ、原作の第6巻は、テレビアニメ版と、ずいぶん違って思えた。テレビアニメは、ノロティが、
突然
死ぬわけで、アニメ「コードギアス」のシャーリーの死を思い出させる感じで、見ていて、げんなりさせられた覚えがある。
他方、原作の方は、より、ノロティの死が理屈っぽくなっていて(最初の文章から彼女が死んだという記述から始まるくらいで)、なぜ彼女が死ぬことになるのかの、いいわけ的な説明が、ずっと続く。
そもそも、こういった、殉教を(礼賛とまでは言いませんけど)理屈づけようとするようなストーリー。嫌いでしてね。
それ以前までが、ミステリ・エンターテイメント的に、おもしろかっただけに、第6巻は、ちゃぶ台をひっくり返して、人々の想像力を「現実」に戻させて、それで? って感じでしょうか。
いずれにしろ、ヒロインが死ぬと、ストーリーのポテンシャルが落ちて、なんで、それ以降も、ストーリーを続けるのかの、動機がなくなってしまう陥穽をどうしても感じませんかね(実際、その後のストーリー、わけわかんない)。

戦う司書と荒縄の姫君 BOOK6 (スーパーダッシュ文庫)

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