緊迫するリビア

リビアが、大変なことになってるようだ。

中東の衛星放送アルアラビーヤは23日、反政府デモが続くリビアで、最高指導者カダフィ大佐の暗殺未遂事件が起きたと伝えた。22日にカダフィ氏が退陣拒否と徹底抗戦の姿勢を示した演説後に起きたという。離反は閣僚や外交官だけでなく、一般の職員レベルまで広がっており、政権内部の亀裂はさらに拡大している。
政権離脱を表明したオベイディ前公安書記(公安相)はアルアラビーヤに「演説に失望した秘書官が銃で大佐を狙って撃ったが失敗した」と述べた。
また、ロイター通信によると、リビア第2の都市ベンガジ空爆を指示された戦闘機のパイロットら2人が命令を拒否。パラシュートで脱出し、戦闘機は墜落した。カダフィ氏の次男が事実上トップである慈善団体の事務局長も辞職した。
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カダフィ暗殺未遂? 市民のデモを空爆しようとした?)
(この中東の民主化運動は、比較的、その国自体が、石油などによって「裕福」なことが、特徴だろうか。)
この前のブログで、暴力を「手段として選択する」場合、統治組織は、どうしても、トップの暗殺合戦になってしまう、ということを書いた。
それは、例えば、明治維新の英雄たち(伊藤博文が典型だが)自身が、ただの下級武士でしかなかった自らが、自身による「テロ」の実行の「成功」によって(手柄として)出世し、頂点に登りつめていったという事実(以前に書いたが、実際、伊藤については、それを自らが自慢げに語っていたという話まである)からも、この問題の根深さを考えさせられる。
しかし、逆も言える。ある意味、頂点だけなら、いくらでも守れる。徹底して表に出なければいいというだけでなく、逆に、
そういうことをくわだてるなら、どういうことになるか、
を思いしらせ続ければ、人々は「恐怖」から、そういう行動を行なう動機を小さくさせられる。つまり、恐怖政治だ。自分に逆らったら、どういうことになるか。
独裁者としての自分は、恐しい、危険な人間だということを常にアピールして、相手に自分に逆らうことの動機を殺ぐ。
おそらくこれが、独裁政治の、パワーバランスなのだろう。

  • 暗殺:市民 --> 独裁者
  • 虐殺:独裁者 --> 市民

もし、市民が独裁者の暗殺が「容易」だと思えば思うほど、独裁者自身は、
市民に恐怖し、
自分を守らなければならないからと、市民の虐殺を命令する。自分に対して、反抗的な態度をとっているということは、自分に対しての暗殺者予備軍、と考えられるわけで、もし、
なんとしても自分の命「だけ」は守られなければならない
と独裁者自身が考えるなら、まさに、
先制攻撃論。
テロをされる前に、先に、自分に反抗的な勢力を、一掃してしまおう、となるわけだ。
(それどころではない、市民に独裁者が恐いと思わせること「自体」が目的となったとき、ある反転が起きる。つまり、独裁者が市民を殺す理由は、市民が独裁者を殺そうとしたかどうかと関係なくなり、
独裁者のために生きようとした市民「でさえ」、その独裁者に殺される
という事実の方が「より」市民の恐怖を増大させる、となる(ある種の恐怖をうえつけるためのアピール)。しかし、ここまでやると、その効果は、両義的だ。なぜなら、これでは、なにをやっても「危険」ということなのだから、市民は自暴自棄的に反抗という道を選ぶ可能性を大きくするだろうから...)。
ではここで、もし、このパワーバランスが崩れる契機があるとしたらなにか、を考えてみよう。まず前提として、市民側が、この独裁政権の存続に不満をもっていることであるが、それだけでは足りない。次にくるのが、
市民側の反抗行動が、「共同運動」となっていく
ことであろう。たんに一人一人が不満に思っていることは、それは、逆に言えば、一人一人が「恐怖」していることと、変わらない。つまり、そのアンチノミーに生きることを意味するわけで、反抗行動となりにくい。
しかし、「共同行動」となると、より、その行動計画の内容が具体的になりやすい。どんな形であれ、自分の反抗の「意思」を表明する手段と考えるなら(例えば、デモ)非常に敷居は低くなり、あとの問題は、今、世間で噂になってるデモに、自分が参加しようと思うかどうかだけになる。
問題は、なぜ、市民は、自分の「不満」の意思を明確にできるのか、なのかもしれない。それが、「他の国々の情報の流入」だろう。他の国で、違った体制でうまくいってるなら、なぜ、うちの国でそれがやれないと思うか。
(民主制は、比較的に、上記の、暴力の「行使」による均衡、の問題を回避できている、と言えるだろう。政権のトップは次々と変わる。選挙で国民が、「こいつ嫌」と思うたびに変わる。まさに、
国民の「生理」感情が、国の指導者を決定する。
つまり、今のトップへの不満を「国民自身の選択の瑕疵」の問題に、不満のアリーナをすりかえられるわけだ...)。
共同行動(同じ考えの人同士の意思疎通)と、外の情報の流入。この二つを、
あっという間(驚異的なスピード)
に実現する可能性のあるツールこそ、まさに、ソーシャルネットメディアなのだろう...。