川北隆雄『財界の正体』

代表民主主義を本当の意味で機能させているものは、なんなのだろうと考えたとき、どう考えても、異様な存在は、
政治家
だろう。彼らは何者なのだろう? 彼らはなぜ、そこにいるのか?
政治家は、国民を「代表」するとされる。だとするなら、政治家は「国民の要望をかなえるため」に政治をやっているということになるのだろうか?
私はなにを言おうとしているか。
この資本主義社会において、あらゆることは「お金儲け」である。なんぼお金を儲けたので、どれくらいの生活レベルを実現できる。子供に、こんなにおいしい、おまんまを食べさせてあげられる。だとするなら、

  • 政治家 = 職業

と考えるべき、ということであろう。政治家という、職業をなりわいとした「お金儲け」。とするなら、さしずめ、

  • 政党 = 会社

であろう。しかし、そうなると、政治会社は、なに「によって」、お金儲けを行うのかが気になってくる。
近年、政治家には、国からお金が払われるようになってきた(ある程度の規模の政党単位ででしたかね)。しかし、それは行う努力にペイする額かどうかは、微妙だ。そもそも、「企業」なのだから、事務所もいるし、秘書もいる。政策を調べたり、勉強したり、世界中の現場に研修に行くにも、先立つものは、お金だ。お金の余裕が、政策の質を決定していることは、それが「企業活動」と考えるなら、当然の結果であろう。また、政治家になるには、まず、選挙に勝たなければならない。宣伝合戦というチキンレースで、消耗戦を強いられる(出ていくお金に限りはない)。
ここにおける問題はなにか。政党が「会社」として存在しながら、どのように、儲けて経済活動を続けていくのかの、手段があいまいだから、といえるだろう。もちろん、政党にとって、その活動費用がどこから入手できるかは、問題ではない。入手さえできれば、どこからでもいい。

  • 政治資金:市民の募金 --> 政党
  • 政治資金:国からの給料 --> 政党
  • 政治資金:さまざまな経済団体からの献金 --> 政党

この中で、彼ら政党を政党たらしめ続けてきたものこそ、最後の、経済団体。つまり、財界である。

こうした事情[造船疑獄に対する国民からの産業界への批判]を背景に旧経団連では、事務局サイドで植村甲午郎副会長や花村総務部長らが話し合って、「見返りを求めないクリーンマネーを経団連で各企業、業界から集めて、それを自由党民主党など保守政党に提供しよう」ということになった。ただ、直接の見返りは求めないものの、自由主義=資本主義経済体制を堅持するための「保険料」という意味は持たせた。

こうした[55年体制の頃の米ソ冷戦構造]国際情勢の下で、自由主義経済体制を堅
持するということは、企業経営者には切実な問題だった。植村と花村は、この方針を石川一郎会長や佐藤喜一郎副会長らに了承してもらい、実行することになったのである。

同懇談会が設立され、旧経団連の政治献金システムが確立した同年、政界は大きな変革に見舞われた。まず革新陣営で、サンフランシスコ講和条約をめぐって単独講和か全面講和かで分裂していた左右両派の社会党が再統一した。これに刺激されて保守陣営も、吉田茂系の自由党鳩山一郎日本民主党が合併して自由民主党となった。保守合同である。自民党社会党の二大政党による「五五年体制」はその後、長らく日本の政党政治の基本形となった。

私は先ほど、政党も一つの「会社」だと言った。その意味は、「儲け」続けなければ、自らの図体を維持できない、という意味であった。つまり、間違いなく、日本における「政党」の(経済)基盤を確立したのが、この財界の献金システムだった、ということである。これ以降、日本の政治は長くの「平和」な時代が続く。つまり、会社としての収入が安定したわけで、「経営」が確立し、
ビジネスモデル
が定着した、ということである。しかし、上記にもあるように、この献金システムを決定的に特徴付けているものは、「各企業が自分の(近場の)利害を度外視して」、この旧経団連を通して、献金し続けたことである。つまり、冷戦体制における、自由主義陣営に日本がい続けてもらうには、それ相応のお金を、企業は出資しなければならない、という考えが、このような行動をさせたということだ(ここは、重要なポイントだ。おそらく、アメリカも似たようなシステムだったのだろう。なぜ、当時、資本主義陣営が社会主義陣営に入っていかなかったのか。そこには、間違いなく、こういったお金が大きな影響を与えただろう)。
しかし、言うまでもなく、冷戦は崩壊し、上記のような建前は、今ではなくなった。また、今では、政党は国から、政党助成金という形で、お金をもらえるように、
自分たち政治家自身
で変えてしまい、それによって、各政党は、収入の半分近くを、国のお金で維持できるようになってきた。
日本共産党は、たしか、この政党助成金を受け取ることを拒否している。赤旗の収入ということだろうが、実際、国からのお金にここまで、活動の資金を依存するということは、
国の言うことに政党は逆らえない
というふうにも考えられるだろう。あらゆる経済活動は、自分の儲け先に「依存」するし「寄生」する...)。
上記のような事態が何を意味しているか分かるであろうか。つまり、以下の関係、

の意味が、冷戦崩壊以後、「まったく変わってしまった」ということなのである。おそらくこれが、日本の「失われた10年」を説明する最大の理由であろう。
本来、経済活動は、「儲け」るために行われる。ところが、五五年体制においては、
日本が社会主義国にならないために
企業は「色を付けないで」献金したわけである。そしてそれが、各政党の活動資金を安定させた。ところが、冷戦崩壊以降、この「たてまえ」がなくなり、
本来の姿
に戻ったのである。つまり、

これ以降、政治の場は、企業関係者が「儲ける」ための場所に変わる。企業は、なんとかして、自社のスポークスマンを政治の「意思決定」の場に、もぐり込ませることを目指すようになる。

  • 自社にって有利な政策:政党 --> 会社

そもそも、である。献金は、「適法」なのだろうか。

ともあれ、政治献金、特に企業による政治献金には賄賂性がつきまとう。それは、法律やその運用にそれほど詳しくない庶民の感覚だけにとどまらない。法律の専門家、というより司法の最高責任者だった人物も、そう断言するのである。
岡原昌男元最高裁判所長官は退官後の一九九三年十一月二日、衆院政治改革に関する調査特別委員会に参考人として出席し、「八幡製鐵(現新日本製鐵)政治献金事件」の最高裁判決(七〇年六月二十四日)に関連して、次のように述べた。
「本来営利団体である会社でございますから、非取引行為、つまりもうけにならぬこと、これをやることは株主に対する背任になります。もし見返りを要求するような献金でございますと涜職(とくしょく)罪になるおそれがある、そういう性質を持ったものでございます。/今まで事件を起こしたのは、要するに涜職になったのが挙げられておるわけでございますけれども、そういうことは要するに企業献金にそのもとが、原因にあるわけでございます」
発言中の涜職とは、汚職の古い言い方である。

企業が何によって、「敵である貧乏人」の財布から金をむしりとる攻撃を行うか。もちろん、「お金」によってだ。お金によって、さまざまな政策作成者に働きかけ、社会のルールを勝手に自分の懐にお金が流れ込むシステムを目指す。
(例えば、大手銀行各社は、公的資金流入を受けて、長らく、政治献金を自粛していたが、また、それを開始しようという。日本の国債を大手銀行が抱え込んでいることが、日本の財政破綻を免れていると言われる近年、ますます、彼らの政治の舞台における影響は強くなるだろう。例えば、ATMの手数料は、いつになったら止めるのか。このシステムを維持するのに、お金を降ろすたびに、貧乏人のなけなしの貯金から、100円毎回むしりとらないほどのシステムか? ATMは、完全な、
独占システム
であろう。本来なら、これによって、国民生活の利便性が挙がるべきものが、
規制
によって、貧乏人収奪システムが完成する...。)
シャンタル・ムフは、政治には「敵」が必要だと言った。つまり、対立軸が、「自分たちを守ろう」という意識になり、自国民の福祉(自分たちの安寧)を充実させる動機となる(日本の五五年体制の「小春日和」は、まさにこれだろう)。つまり、

  • 資本主義陣営(味方) - 社会主義陣営(敵)

ところが、敵は、あっという間に、自壊した。じゃあどうなる? 味方しかいなくなる? そんなことはない。シャンタル・ムフが言うように、政治は常に闘いの「アリーナ」を求めてさ迷い続けることを宿命付けられる。

  • 自分(味方) - ???(敵)

この一番分かりやすいパターンが、企業活動だろう。企業活動において、経営者は、株主の鉄砲玉として、「敵をたたきつぶす」。

  • 経営者&株主(味方) - その他すべての人間(敵)

これを政治の場に、もちこめば、

  • 経営者&株主&支持政党(味方) - その他すべての一般日本市民(敵)

政治の場において、国民は、企業にとって、敵になる。どうやって、貧乏人の富をむしり取るかが、「国家政策」の最大の関心事となる。
言うまでもなく、冷戦崩壊以降の自民党において、
新たな「敵」
を名指ししたのが、小泉であった。彼は「抵抗勢力」という敵と戦うという、名目で国民の支持を獲得していく。なぜ、そんなことができたのか。それは、それまでの、55年体制の崩壊の陥穽を突いたといえるだろう。今までの、自動的に経済界が、政党にお金を振り込むシステムが崩壊した後、どういった名目で政党が、お金をかき集めるのかが問題となる。
つまり、政党はより、経済界側の意向に添う政策を掲げる動機付けが進んだといえるだろう。
たとえば、そもそも小泉が抵抗勢力と戦ったのだとして、小泉の味方は誰だったのか? 国民は自分が小泉を支えていたと思ったのかもしれないが、あれほど自信たっぷりに、政治をやれたということは、彼を支え守った勢力がいたのだろう。
もちろん、財界関係者である。彼は、政策決定プロセスに、抵抗勢力を排除するとともに、だれをその決定プロセスに参加させたか。もちろん、財界関係者である。
五五年体制までの、政治ビジネスモデルの崩壊とともに、小泉が目指した、政治ビジネスモデルは以下になるだろう。

  • 政策意思決定:財界関係者 --> 政治家
  • 決定政策による恩恵:政治家 --> 財界関係者

もちろん、その代表的人物として、ほぼ10年近くにわたり、日本の政治をぎゅうじってきた人物こそ、オリックスの宮内さん、となる。

経団連は一九九六年一月、「魅力ある日本 - 創造への責任」と題する経済構造全般にわたる基本戦略を発表した。時の会長である豊田章一郎の名を採って通称「豊田ビジョン」と呼ばれる。

同時に、その最終章を「新日本創造プログラム2010(アクション21)」と題して、具体的な提言を行っている。たとえば、消費税の引き上げによる税制の直間比率の是正や成田空港二期工事、関西空港二期工事、中部空港建設など大規模拠点空港の複数整備などが挙げられている。その中でも注目すべきなのが「労働移動の円滑化のための環境整備」と題する項目である。
「求人情報ならびに産業・雇用情報、能力開発情報など、就職に関する総合的な情報を入手できるような情報ネットワークを構築するとともに、有料職業紹介事業、労働者派遣事業の原則自由化ならびに裁量労働に関する規制緩和を行う。また、企業年金のポータビリティを確保する。/企業としても、中途採用者や人材派遣業の積極的活用を図るなど、複線型の雇用、人事に努めるとともに、人事や研修に当たっては、従業員が主体的にキャリア形成ができるようにうる」。要するに、労働者派遣の対象を広げ、企業が活用しやすくしようというのである。

それでは「宮内委員会」が実際に労働者派遣法の改正に果たした役割は何だったのか。
宮内を議長とし、奥谷や河野を委員とする総合規制改革会議はその前年、つまり二〇〇二年十二月、「規制改革の推進に関する第2次答申 - 経済活性化のために重点的に推進すべき規制改革」を出した。同答申は幅広い分野にわたって規制改革を求めており、雇用・労働分野でも思い切った緩和を提言した。とりわけ派遣労働について次のように述べた点が注目された。
「現行労働者派遣法は、附則において、当分の間『物の製造』の業務について派遣事業を禁止しているが、製造業務の派遣事業に係る他国の状況も踏まえながら、これを解禁することも含め検討し、その結論を早急に取りまとめ、次期通常国会に法案の提出等所要の措置を講ずるべきである」
つまり、製造業の派遣労働解禁すべきであるとしたのだ。このほか派遣労働には大幅な規制緩和を求めていた。これを受けて政府は次期通常国会に同法改正案を提出した。

二〇〇九年一月三十日の参院本会議で、自民党尾辻秀久参院議員は政府に対する質問の中で次のように発言した。
「私は、この間の会議のあり方に強い疑念を持っております。発足当時から委員として会議に参加し、数度の取りまとめの任に当たったのは、企業の一経営者であります。経営者の視点で規制改革が進められ、その結果、派遣の大量打切りとなり、多くの人を失業に追い込んだのであります。私たちの決議が、政府にだけでなく、企業にも注文を付けているゆえんであります。これほどの厳しい事態を招いたことについて、規制改革会議は少なくとも結果の責任を取らなけれなりません」。「企業の一経営者」が誰を指しているかは、説明の必要もないだろう。

医療分野の規制緩和についても、尾辻議員は二〇〇九年一月三十日の参院本会議で次のように指摘している。
「会議が自らの主張をするのは自由ですが、その主張が己の利権につながっているという疑惑を持たれてはいけないということです。小泉改革を利権にしたと言われてはいけません。規制改革会議そのことを主張した人の関係会社が、真っ先に株式会社の病院を造ったと言われています」
宮内にとって規制緩和は、自らの経営理念に合致した目的であるとともに、現実に事業を発展させる手段でもあったのだ。

オリックスの宮内さんとは、掲題の本によれば、それほど、経団連的な意味での、本流の人ではなく、外部の人であった。彼は、それだからこそ、政策に直接介入し、その政策の変更に「よって」、具体的に、新規に事業を拡大していき、
儲けた
わけである。彼がそういった方向に事業を拡大することは、彼が実際に政権内部で、そういった政策変更にインサイダー的に介入することなしには、スムーズに進まなかったであろう。
こういったように、経済界側に、より経済人が政治に
介入していいんだ
という雰囲気が浸透してくる。自分たちだって、国民なのだから、この国を良くするために、行動しない方がおかしい。
しかし、彼らは本当に「国民」なのか。彼ら株式会社の経営者とは、「法人」としての人格を、当然、合わせ持つことになるだろう。
彼らは自覚的であれ無自覚であれ、自らの経済的利益になる「から」行動する。むしろ、そうならなければ、行動してはならないのである。そのように、株主にチェックされている存在なのだから。
宮内さんが最も注力された、派遣法の改正がいいのか悪いのか以前に、これを行えば、なにが国民生活に起きるか、これを考えるなら、たんにこれだけを行うなどどいう、鬼畜の所業をどうして政治家が行えただろうか。
派遣法を今ある既存の枠組みで行えば、これが何を意味しているか。よく考えてみてもらいたい。それまではずっと、IT技術者などの一部職種しか認めていなかったわけですよ。その規制を緩めるということは、なんですか。それまで、規制されていた問題が無くなったんですか?
派遣法によって、あまりにも、正社員と派遣社員
身分の格差
が生まれてしまった。正社員は今までの法によって、正社員「身分」を守られていて、派遣社員は、その「外」に放り出される。彼らは、正社員「身分」の

の存在にされる。じゃあ、外ってどこだ? なにかあんのか? 完全なアナーキーだろう。彼らは、日本人の中に、敵を作ったわけだ。

  • 正社員(身分)=日本人
  • 派遣社員(身分)=(日本人「でない」)なんか

なんか、江戸時代に似てますよね。江戸時代において、武士は庶民を人間と思っていたのかな? 

  • 正社員(身分)=武士=人間
  • 派遣社員(身分)=庶民=(人間「でない」)なんか

一部でよく言われたのが、中国などとの新興国との競争のために必要ということであった。しかし、そういう問題でない。私が問題にしているのは、こういった、
日本人内(待遇)差別
であって、なんで国民はこんな鬼畜の所業を受け入れなければならないんだ、という話をずっとしている。
しかし、この政策を推進したのが、大企業の経営者や、国家を「利用して」貧乏人からお金をまきあげることで、ビックになりたいと思ってる連中だとするなら、納得がいくだろう。
だって、彼らにとって、いかに従業員を安い給料で働かせられるかが、彼らが大金を自分の給料にして、散財の限りを続けられるための「経営手腕」なのだから。
政治と大企業経営者が、「カルテル」を結べば、いくらでも、国民の給料を低止まりに抑え続けることができる。
私たちの多くはまだ、きっと、これから、日本だって景気がよくなって、自分の給料も上がるだろうと思っている。しかし、もう、そういう時代は来ないのだ。なぜなら、政治が企業関係者の利益確保の手段の場に、変えられており、カルテル的な全国一律の賃金抑止体制が完成したからだ。
ところが、これによって、日本そのものを今まで支えてきていたような、共同体的な上昇モチベーションも失われていく。国全体に、嫌世観が蔓延するようになる。
日本というアイデンティティが失われる。実際に、企業にとって、日本国民とは、うまくだまくらかして、利益をかすめとる相手でしかなくなるのと同時に、彼らは、日本の外に動機を求めて飛び出していく。彼らにとって、差異だけが、利益獲得の結果であるなら、そもそも日本という土地にこだわることは、愚行そのものとなる。
日本の税制的優遇をたんまり受けながら、彼らは、世界中で働き始め、日本へ利益を還元しようという動機が失われる。
国民もそうである。日本にいながら、だれも自分が「日本のため」に存在すると考えない。日本人であることを誇りに思わない。だれもがだれかを、お前はアメリカ派か、中国派かとレッテルをはるようになり、だれも「日本派」がいなくなる。
だれも、仲間の日本人「のために」働いている、と思わなくなる。思えば、冷戦体制の崩壊は大きかった。あの日以来、日本は、「敵」を作れていない。シャンタル・ムフの言い方を踏襲するなら、敵を作れないということは、「利害を共にする体制」にならないわけだ。政治のアリーナが、構成できないわけで、あの日以来、日本人は他の日本人一人一人を敵と疑い、ホッブス的な自然状態を生きている。
もし、政治が国家のお金によって、公務員的に安定するなら、政治家は国に半旗を翻して、国民を守ろうという動機を失っていくだろう。
もし、政治が企業の「利害を含んだ」お金によって、経済活動的に安定するなら、政治家は企業の意向に半旗を翻して、国民を守ろうという動機を失っていくだろう。
結局のところ、政治は、お金なのだ。お金がなければ、なにも始まらない。だとするなら、政治における決定は、彼ら政治家の「身分保障」を求めての行動にどうしても動機付けされてしまう。
たとえば、である。五五年体制までのように、企業が、
一切の見返りを期待することなく、
「なんらかの大義名分」によって、献金するようなシステムが作れるなら、もう一度、政治というビジネスモデルの安定が再回復して、国民生活に未来を期待できる希望が生まれないだろうか。
どのように、お金に色を抜くか。もしその方向を企業に期待できないなら、国民自身がその役割を担わなければならないだろう。たとえばである。企業献金を禁止して、その分を、必ず国民の給料に反映しなければならない、と法律で決めたとしよう。また、各企業には、極端に社長ばかりの給料が高い状態を許さなかったとしよう。また、ある一定規模の企業は、それなりの国民を雇い、彼らの生活を守っていくような、企業を通しての社会福祉国家、を目指すとしよう。
しかし、そうした場合、なにが大事かといえば、政治家に、お金が入るシステムを実現しなければならない、ということである。つまり、献金になるのだろうか。国民一人一人がある団体に、寄付をする。すると、そこから、「色なし」で、国民のお金が政治家に渡る。そうすれば、政治家は、そのお金の色を考慮して、政治活動をやらなければならないという、プレッシャーから解放されるかもしれない。
しかし、問題は、「国民は寄付をしてくれるか」である。国民は自発的に政治を支えようと思うだろうか? 色のないお金を作ることは考えれば考えるほど難しそうで、そんなことでもたもたしているうちに、いずれ、日本人自体がいなくなってるのではないかとまで思ってしまう...。

財界の正体 (講談社現代新書)

財界の正体 (講談社現代新書)