海堂尊『死因不明社会』

死は資本主義と相性が悪い。
あれほど、功利主義で、今この財産を一円でも増やそうと血なまこになっていた人たちが、ころっと死ぬと、その彼が目指していた一円は、なんだったのかな。まさに、彼は
天国に宝を積んだ。
ということはどういうことなのだろうか。資本主義とは、どこか「宗教」に近いのかもしれない。なぜ利潤の追求をそこまでして求めるのか(そこには、どこか、生きる人それぞれの、これまでの作法と関係があるのだろうか...)。
功利主義は、一見、「自分のため」と思われるが、もともとは、
社会全体にとって
なにがいいかを「計算」する、という発想だろう(平均的な幸福が問題であった)。だから、資本主義で、「自分一人」の利益の増大を強調することは、結果として、違うんじゃないのかという感じがしている(自分がいくらお金持ちになっても、友達みんなが苦労しているのであるなら、どこが楽しい人生であろうか)。問題になっているのは、
全体の「効率」
であって、それを実現する一つの方法として競争があって、これが、なかなか強力なので、資本主義は一定の支持を得ている、というくらいの「ひかえめ」な理由なのだろう。
そう考えるなら、資本主義にとっての最も重大な課題は、「死者の扱い」だということにもなるのかもしれない。
たとえば、アニメ「戦う司書」の世界において、人は死ぬと「本」になる。つまり、その人の「ライフ・ログ」が、「図書館」で管理される。これを、一つの「市民社会」の完成形と考えよう。人々は何を求めているか。自らの人生に
納得
したいのではないか。その「結論」は、どんなに他人にとって愚かしいものでも、その人が自分の責任において貫いた結果であって、それは少なからず、人々に内省を強いるものであろう。
人の人生が有限であるということは、ようするに、人類の「人生」において、その「結果」が問われている、と問いを変えることも許されるだろう。だとするなら、問われるべきは何か?
近年、ブログやツイッターなどで、ライフ・ログ自体は、かなりぶ厚く残されるようになってきた。だとするなら、最後、つまり、その「完成」は、その人の死そのもの、となるのではないだろうか。
ところが、これが、経済と相性が悪いのだ。

これまで医学は、人が死ぬと身体を解体し、なぜその人が死に至ったのか調べ、そこから得た知見を臨床医学にフィードバックさせてきた。そうした検査の象徴「解剖」は今や減少の一途をたどり、現在では二パーセント台の適用率で、低下傾向に歯止めがかからない。

現代の日本行政には「監査」という概念が制度設計からすっぽり抜け落ちている。官僚は予算をつける際には微に入り細をうがち検討するが、予算執行後の効果判定には驚くほど無関心だ。そんな彼ら官僚が制度設計する世の中だから、監査や責任の問われないシステムになるのも当然かもしれない。だがそれが社会に及ぼす悪影響は計り知れない。
厚生労働省は解剖に対し、費用拠出しない。その結果、解剖は衰退し、医療監査システムは破綻寸前だ。無監査状態にある日本の医療はいずれ社会保険庁のような様相を呈するだろう。新時代の要請に従うと決断した場合、市民は、無責任医療を受容しなければならなくなる。

ある人が死んだとしよう。その死体が今、人々の目の前にある。そのとき、一体、だれなら「その人はなぜ死んだのか」を本気で探そうとしてくれるかを考えてみようではないか。そう考えると、まったく思い付かない、事実に直面するだろう。
本来の経済活動であるなら、本人のことには本人がお金を使う。依頼者は、本人となるだろう。ところが、死んだ後は「本人」のことであるのに、本人が依頼「できない」のだ。なぜなら、もう死んでしまっているから。
とすると、どうなるか。だれも、こういった「無駄なお金」を使いたくない、となるわけだ。
しかし、話はこれで終わらない。むしろ、世界には、その人が「なぜ死んだのか」が分からないでくれる方が、ありがたい人たちで、あふれている。その人の晩年、医者はどんな処方をしたのか、最後の手術や使った薬は適切であったのか、...。
その人が死ぬ瞬間が、どんなふうであったのかは、非常にクリティカルである。だれかが、棍棒をその人の頭に振り降ろした。そして、その人が死んだとするなら、そういった「打撲」が体に刻まれているはずだ。しかし、その「刻印」を調べることをしないなら、その人の死因が問われることはない。つまり、犯人が責任を問われることは一生なくなる。
官僚も、さまざまな政策を行い、もしその結果を調べられることなく、責任を問われることがないなら、彼らは好き放題やり、滅茶苦茶にして、そこから立ち去れば、退職金まで、もらえて一挙両得となるだろう。
こういった、「監査」を重要だと考えるモチベーションが、もしこの人間社会にあるとするなら、それはどこから獲得すればいいのだろうか。
一つは、それを自分のことと考えるときだろう。自分が死んだのに、その理由が「だれにも知られない」または「間違って知られている」まま、その後の人類が生きていくことに、なんとも言えないさみしさを感じられるなら、その一歩といえるだろう。
もう一つが、この人類全体の未来に目を向けたときだ。私は今死ぬ。確かに、私は愚かだったのかもしれない。間違いなく、ある間違いを犯していた。しかし、このことは、後の世代に知られるなら、人々は避けられるのだ。こんな間違いをするのは、自分一人でいいんじゃないか、と思う人も、その一歩といえるだろう。
よく、49日、という。これは、ある人が死んでから、それくらいの間は、喪に服す、つまり、その人のことを考えることだけに、その期間を使うということで、つまり、
その人のそれまでの人生を私たちの「血肉」にする
ための期間と考えられるのではないだろうか。私たちはそうやって、「人類」としての「生」を生きている、と。
だとするなら、「なぜその人は死んだのか」はここにおいて、非常に重要な課題と思えてくる。

死因追求が疎かにされていると、以下の問題が起こる。

  1. 身内の死因が斯くてされずに済まされる。このため医療過誤発見が困難になったり、保険金請求で問題生じる。死亡時に医学検索されなければ、本当の死因がわからない。本当の死因が不明なら、問題があったかどうかをどう判断するのだろうか。
  2. 診療行為の効果判定が正確にされない。死亡時の医学検索が行われなければ、再発か、治療で完治したが別疾患の併発で死亡したのかはわからない。現状で解剖が行われなかった場合、治療効果判定は行われないことになり効果的な治療法の確立はできない。
  3. 捜査機関に運び込まれた死体も同様だ。日本警察は優秀で、犯罪を見逃さないというのはもはや神話に過ぎない。異状死体の多くは、体表から調べる検案(あるいは検視)だけで死因を確定される。体表から見ただけでは死因は確定できないことは素人にもわかる。かくて殺人や虐待は看過され、犯罪が繰り返される。
  4. 死亡統計が不正確になる。統計は医学の基礎だ。治療法が功を奏した例は○○例中××例、したがって奏功率△△パーセント、というようなデータを基礎にし、治療の有効性が決定される。死亡時医学検索が行われなければ土台が崩れるから、当然医学が壊れていく。

特に、最後のものが重要だ。たとえば、今でも、放射性物質の影響なんて、たいしたことない、といった臆断が圧倒的だが、それは、むしろ「統計」によって示されねばならない。ところが、その統計が疎かにされているのに「なんだこれだけw」って、そのネタが真面目に集められてないわけでしょ。
そうはいっても、解剖について、大きな敷居を感じる人もいるだろう。お葬式で、棺桶の窓から、解剖されて、めちゃくちゃになった顔が見えたら、辛さが増してしまう。
親族が死んで、その死体が目の前にあるとする。この死体は、いつまでもそのままにしておくことはできない。火葬なり土葬なりして、死者の魂を黄泉の国に返す手続きを行うことになる。しかし、そういった処置をすることは、いわば「証拠隠滅」行為と言えなくもない。しかし、どっちみち腐って朽ちていくわけで、こればかりはどうしようもない。
著者は、こういった考えの「中間」(アウフヘーベン)を示唆する。つまり「Ai(Autopopsy imaging)」。直訳すれば、画像解剖、となるだろうか。

CT......Computed Tomography の略称。X線を用いて生体の断層像を得るX線CTは、生体にさまざまな方向から幅の狭いX線ビームを発射する。そして透過したX線を検出して、断面内におけるX線の吸収の度合いの空間分布をコンピューターで計算し、画像化する。
一九七三年英国のハウンズフィールド等がその原理を開発し、一九七九年コーマックと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した。一九七三〜八〇年にはCTフィーバーが医療界を席巻したがその後八〇年代は停滞する。再び一九九〇年、高度機能CT開発が契機になり、第二のCTフィーバーが訪れた。最近では、ヘリカルCTの検出器の多列化が進んだ Multidetector low CT(MDCT)という機種も開発され、臨床現場への導入も進んでいる(現在市販されているヘリカルCTの検出器は 16〜64 列が多い、研究では 320 列のものもある)。こうしたMDCTを用いれば、スライス厚 0.5mm から 1.25mm という高分解能の画像情報を短時間で取得できる。

MRI......Magnetic Resonance Imaging の略称。磁気を利用して体内を縦横に撮影できる医療機器、磁気共鳴装置(MR)による画像取得法で、同時に装置のことも指す。X線CT装置では人体の輪切りの断面図しか撮像できないのに対し、縦断面や斜断面など自由な角度で撮影できることと、磁気はX線と比べてほとんど人体に害がない点で優れている。
原理開発はCTに先行し、一九四六年ブロッホパーセルが核磁気共鳴原理を確立し、一九五二年、ノーベル物理学賞を受賞。人体へ応用されたのは、一九七三年、米国のローターバーによる、「人体への傾斜磁場測定の応用」の確立まで待たなければならなかった。
当初は〇・〇四T(テスラ・磁場の強度の単位)という低磁場から開発された。一九八〇年代、常電導と超電導MRIの共存時期へ至り、磁場強度は〇・三Tまで上昇した。九〇年代になると、MRIフィーバーが出現し、永久磁石(〇・三T)と超伝導(〇・三〜二T)が共存した。現在では高磁場が生成可能な超伝導タイプが臨床現場のほとんどを占める。CTより劣っていた画像も今では、はるかに鮮明になった。基本は物理的な測定技術NMR(核磁気共鳴)法で、はるかに強い磁気での水素原子の挙動から体内の水分の分布をつかみ、コンピューターで映像を合成する。九〇年代から磁気共鳴血管撮影(MRA)も可能になった。

(つまり、こういった画像を、アニメ「戦う司書」の世界の「本」の実現、ライフ・ログの最終完成形、と考えるわけだ。)
私たちは、情報という言葉をよく使う。しかし、それを「文字情報」に限るか限らないかは、大きな別れ道である。つまり、キャラクタ文字列と考えるか、バイナリデータと考えるか。
たとえば、昔あったカセットテープやレコード盤は、アナログであり、写真機もそうだった。しかし、後者は、「デジタル」化ができる。それは、「近似」という手法を使う。私たちの視覚や聴覚が「判別可能」な範囲で、情報量を落とす。
間引く。
そうすることで、このバイナリデータの「量」を減らせる。しかし大事なことは、この情報には、「文字情報」バイアスがかかっていない。つまり、さまざまな「証拠」の宝庫であるといえる。たとえば、この情報を残しておくだけで、もしかしたら、はるか未来において、この人の「本当の死因」が分かるかもしれない。つまり、
物証
として残せる可能性が生まれる。
さて。最後の問題は、こういった画像を人々が残す社会に生きたいかどうか、になるだろう。もちろん、こういった写真を残すことは、お金がかかる。しかし、公共財として、これくらいのお金を払うことは、市民社会の利益を考えても、やるべきじゃないかと思うのだが。
今回の津波で多くの失くなった人たちでも、身元が判明しなかった人たちもいるのではないだろうか。たとえ、そういう人たちでも、こういった
物証
を残しておくことが、彼らの今後の身元の判明の役にもたつのかもしれない。いずれにしろ、一人一人の人生を大切にする(我々の目指す)未来の市民社会とは、その人の「死を大切にする」社会でもあるのではないだろうか...。

死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)

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