リチャード・ローティ『アメリカ 未完のプロジェクト』

こんなふうに言ってみよう。

  • 正直、哲学とはなにがしである、みたいな議論には、うんざりだ。それは、学校の中でやっててほしい。大学の外では関係ない話だ。

しかし、これと同じくらいに、多くの衒学的な議論を生みだしてきたものがある。右翼と左翼、だ。
しかし、結局のところ、これがなにを言っているのか。というか、定義などあるのだろうか。ありうるのだろうか。再度、繰り返そう。

  • 正直、「右翼と左翼」とはなにがしである、みたいな議論には、うんざりだ。それは、学校の中でやっててほしい。大学の外では関係ない話だ。

それにしても、この「右翼と左翼」という用語への違和感は、これが翻訳語だということだろう(right wing、left wing)。つまり、これは、日本でだけ通じる用語ではない、ということなわけだ。
ということは、当然、日本と最も関係の深いアメリカにおいても、この用語は「通じる」。しかし、そこで、はたと立ち止まってしまうのである。
本当に通じているのだろうか?
私には、その感覚はずいぶん違っているように思える。日本において、多くの人たちがさまざまにとらわれてきた、天皇制についての議論に対応するものが、アメリカにあると思えない。どうも、ずいぶんと差異があるのではないか、という予想にとらわれる。

アメリカ社会におけるひどい不平等は、立憲民主主義制度を利用することによって正すことができる----正しい政治家を選び、正しい法案を通過させることが協同的共和国を創造することができる----という確信によって、クローリーの時代から一九六〇年代初頭まで、<非マルクス主義アメリカ左翼>は団結していた。しかし、ベトナム戦争はこの、<非マルクス主義アメリカ左翼>をばらばらにしてしまった。アメリカがどのような国であるかということについて左翼学生の意識の間に分裂が生まれたのは一九六四年の八月である、とトッド・ギトリンは思っている。それは<ミシシッピ自由民主党>がアトランティックシティの<民主党大会>に参加することを拒まれ、議会が<トンキン湾攻撃決議案>を可決した月だった。
ギトリンは、これら二つの出来事が「その<非マルクス主義アメリカ左翼>の運動を決定的に転回させ」、「<六〇年代新左翼>の中に鋭い一線を画した」とまことしやかに論じている。その二つの出来事以前には、<新左翼>のレトリックのほとんどは合意の上に成り立っており、改良主義的だった。その二つの出来事の後、<新左翼>のレトリックは革命を求める大音声になり始め、一九六〇年代は革命を求める大音声のうちに終わった。

掲題の著者は、「マルクス主義」的な、さまざまなアイデア。たとえば、極端なエリート排除のプロレタリアート礼賛史観や、「文化」左翼的な、「傍観者的な正しさ(自分から国の政策にコミットしようとせず、傍観者的に事の真偽ばかりをうんぬんしている連中)」は、この「民主主義的政治プロセスの」現実に合わないし、建設的でない、と、この本で何度も攻撃的に告発する。

ラッシュはマルクス主義者ではなかったが、エリートと大衆に関する彼の考え方はマルクス主義者の考え方に近いものであった。大衆に基づいていない運動はどうもインチキ臭いものであり、上からのイニシアティブがうさん臭いものであるのは必然的であ、とラッシュは考えていた。この信念は、マルクス主義者のプロレタリアート崇拝、つまり抑圧されている者にのみ徳があるという信念をそのまま繰り返しているのである。ラッシュはエリートと抑圧されている者との間で断続的ながら五〇年間行われた協力の持つ価値を無視した。そうすることによって、彼は自分たちこそアメリカの長い左翼運動の中で現われた最初の真の左翼であり、少なくとも裏切ることのなかった唯一の左翼であるという<新左翼>の間違った信念を生み出す手助けをしたのである。

たとえば、自分が所属する国家が、過去にどんなことを行ってきたかを考えたとき、今の私たちの価値観では、どう考えても受け入れられないようなことをやってきた、ということが多く見られるだろう。

この[デューイとホイットマンの]プロジェクトに協力することを誇りにすることは、ボールドウィンが次のように呼んだものを支持することではない。

アメリカの白人たちが固執するさまざまな神話、つまり、その神話とは、白人たちの先祖はみな自由を愛する英雄であったとか、白人たちは世界がいまだかつて見たこともないもっとも偉大な国に生まれたのだとか、アメリカ人は戦いには絶対に負けることがなく、平和を守ることがたくみであるとか、アメリカ人はメキシコ人やインディアンや他の隣国の人々や弱小国の人々にはいつでも尊敬を持って接してきたのだとか、アメリカの男性は世界中でもっとも率直で男らしいとか、アメリカの女性は純潔だとかいう神話である。

すると、どうなるか。国民は国家と自分との関係を切断しようとする。国民は政治に参加することは、この「悪」に加担していることを意味しているのではないか、と疑う。
つまり、
責任
問題が問われている、と言えるであろう。

デューイにとって、私たちを道徳的にするものは、私たち一人一人には、ある行為を犯すよりも、むしろ死んだほうがましだと信じる行為があるということである。それがどのような行為であるかは時代によって異なり、人それぞれによって異なるが、しかし、道徳的行為者であるということは、このような行為を犯した後では自尊心を保つことなど想像できないということである。
しかし、ここである人が自分がすることんど想像もできなかったことを実際にしてしまい、なお生きていることに気づくと仮定してみよう。その時に、その人が選択できるのは、自殺するか、底なしの自己嫌悪に満ちた人生を送るか、あのようなことを決して二度としないように生きようとするかである。デューイは三番目の選択をするように勧める。デューイが考えているのは、自殺したり、自分自身の過去を恐れている傍観者になるよりも、行為者であり続けるべきであるということである。デューイは自己嫌悪を----個人であれ国民であれ----行為者たるものが持つ余裕などない贅沢品と見なしている。デューイは、悲劇の起こり得ること、そして実際に悲劇の起こる恐れのあることをよく知っていた。だが、彼は悲劇を説明するのに罪の観念を使用することをまったく拒絶した。
罪の観念を重大視する人々----ラインホルト・ニーバーやジーン・ベスキ・エルシュタインのような聖アウグスティヌスの賛美者----は、このような思想的立場にぞっとするであろう。

国家の舵取りにかかわるということは、なんらかの責任を問われざるをえないような決断を常に強いられているということなのだろう。であるなら、当然に、責任が生まれる。それだけでなく、国家はすでに過去にさまざまな「罪」を犯してきている。そういった罪をつぐなおうとしない国家に対して、国民がとる態度は二つだ。

  • コミットメント(自らが政治家になるなどして国家の一員として、そういった罪をつぐなう活動を予算計上し、進める)
  • デタッチメント(国家と距離を置き、安全な場所から、国家の「悪」の告発だけをしている)

しかし、よく考えると、この両者は、そう簡単に切り離せるようになっていない。本質的な意味では、国民と国家が一つあるわけはないのだから、国家のなにもかもの責任を一人の個人が引き受けなければならない、というのも違うだろうし、逆に、どんなに国家と無関係に人生を歩もうとしようとも、この関係は、その人が生まれる前からの、
ルール
となっているわけで、どんな人だろうと、なんらかの責任を問われざるをえない。
そうした場合、ジョン・デューイの「教育的プラグマティズム」の立場からは、むしろ、人々は(二度と繰り返さないことを心に誓うことは前提として)それでも生きろ(国家にコミットしろ)、と主張する。なぜなら、そうしない限り、だれも行動せず、この国が、より良く改善されていかない、と考えるからである。
人々がなんらかの形で、能動的に国家にコミットしてくれない限り、国家は良い方向に変わって「行けない」。だとするなら、なにはともあれ、国民は国家にコミットすべきだ、となるだろう。
しかし、あまりに、個人と国家が「シンクロ(エヴァ的な意味で)」してしまうと、どうなるだろう。戦前の「非国民」レッテルがそうだが、なにもかも、現在の政府の政策に反対する連中がうざくなる。安全な所からなら、いくらでも言える(別にその人が事の中心にいるわけでもないのだが、そこまで入れ込んでしまう、という意味で)。
個人と国家の関係が、ある「ルール」によるものであるなら、そのルールという日常の決まり事を逸脱した事態が起きたとき、この問題は何度でも再燃する。民主主義という自己言及的システムにおいて、国家へのシンクロ率の高い人は、他人が国家の「決定」した方針と反対の考えを表明しているだけで「不謹慎」感情をつのらせるし、逆の人は、社会の閉塞感を強く感じるようになる。
掲題の著者の立場は、この両方の間で揺れる。

一九四五年から一九六四年の間に「社会主義者」を自称するアメリカ人を呼ぶ時、「旧左翼(Old Left)」という言葉を使うべきではないと思う。一九〇〇年から一九六四年の間、弱者を強者から守るために立憲民主主義の枠組の中で奮闘していたすべてのアメリカ人を包括して、「改良主義左翼(reformist Left)という言葉を使用するようわたしは提案する。この言葉には「共産主義者」や「社会主義者」を自称する多くの人々だけでなく、そのどちらをも自称することなど夢にも考えていなかった多くの人々も含まれる。立憲民主主義という組織の中で社会正義のために働くことはもはや不可能であると一九六四年ごろ決断した人々----ほとんどが学生----を表わすために「新左翼(New Left)」という言葉が使用されるだろう。

(掲題の著者がここで定義する、ほとんど草の根保守ともたいして違わない、「改良主義左翼」なるものを、どのように考えたらいいのだろうか。)
一方において、彼は自らの「戦闘的な反共主義」の立場を、露悪的なまでに、告白する。

ベトナム戦争アメリカ人がいつまでも恥ずかしく思わなければならない残虐行為であったと認めるとしても、それだからといって<冷戦>を戦うべきではなかったことになるのか。その問いは、わたしの世代の左翼が生きているかぎり、議論されるだろう。わたしのように戦闘的な反共主義者であったアメリカ人は、ヒットラーに対する戦争と同じように、スターリンに対する戦争は合法的であり、必要であったと信じている。

では、彼は左翼を認めないのか、というとそういうわけでもない。事実、ベトナム戦争終結の流れにおいて、若者の左翼運動が、大いに影響したことを認める。

新左翼>はベトナム戦争を終わらせた。アメリカが軍事国家にならないようにしたのは、<新左翼>かもしれない。<新左翼>の指導した広範で継続的な市民の反抗がなかったならば、アメリカ人はホーチミン市の収奪政治家の共産主義者を買収してアメリカの海外市場を拡大するよりも、ベトナム人を殺すためにいまだに若者を派遣していたかもしれない。カンボジア侵攻後に大学で起こった騒動がなかったならば、アメリカ人は今もアジアのはるか遠く離れた地域で戦っていたかもしれない。アメリカの若者が抗議しなかったら----毎年毎年すべての若者が忠実に戦場へ赴き、反共主義の名で殺されたとしたら----どうだろう。その戦いに勝利を収めることができないということだけで政府が和解したのだ、と私たちアメリカ人は信ずることができるだろうか。

では、左翼の特徴である、インターナショナリズムに反対しているのかというと、必ずしもそういうわけではない。漸進的な改良的な接近(プラグマティズム)であるならば、それが「未完のプロジェクト」の完成、つまり、左翼のあるべき方向とも考えているようである。

テニスンが「人類の議会、世界連邦」と述べたものにアメリカ合衆国が主権を譲り渡す日の来ることを、わたし自身のように願っている人々でさえ、前述したように国家と感情的に係わる必要がある。なぜなら、そのような連邦は、個々の国民国家の政府がその設立に協力しないならば、そしてそれらの国民国家の国民が連邦を設立しようとする自国の政府の努力にいくばくかの誇りを(悔いの残るためらいがちな誇りであっても)持たないならば、決して成立しないからである。

ようするに、掲題の著者にとって、国民の間の極端な貧富の差が、是正されなければならない(極端に、海外に労働市場が移動するグローバリズムに反対)ことには、まったく左翼に賛成なのだが、その実現は、市民の積極的な政治参加によって実現を目指されるべきだ、と。
だから、「マルクス抜きの左翼」こそ、彼の主張したいところ、ということなのだろうか。
私には「左翼」とは左翼「言説」のこと、くらいにしか思えない。マルクスならマルクスで、多くの
文献
が今までの人類は生み出してきた。つまり、左翼とは、そういった文献を読んだかどうかの差しかないのではないか。深く読み込んだ人たちには、そういった左翼文献の共通ルールに熟知し始める。しかし、そういったものを毛嫌いしている人たちは、結局知らないので、恐い。恐いので、感情的に反発してしまう。
もちろん、そういった左翼文献が読むに値するかとか、書いてあることが、どのレベルまで、人類共通の「理念」となりうるのかなどは、言うまでもなく、評価が定まっているなんてレベルではない。
私がここで、本当の考えたかったこととはなんなのだろう?
今回の地震による津波で、多くの方々の財産が水に流されて行ってしまった。体一つで逃げ出してきたというのだが、思うことは一つで、「こんなことがあっていいのだろうか?」
もちろん、予測はされていた。過去の津波の事実は、それなりには知られていたのだから、それなりの対応はできたと、簡単に言うことはできるが、人によっては「全て」を流されて、それらをもう「元に戻す」方法さえおぼつかない人は、かなりにのぼるのだろう。自分の記念の写真のアルバムも、水に流されたわけで、思うのは、
ここまでのことが「かなりの人数に渡って」起きる事態を、市民社会が「受け入れる」ことまで想定しなければならないのか。

  • 「ばゆむ、しゃーなしだな」(これゾンの、天才少女はるなちゃん)

そうわりきれないだろwww
今、岩手県普代村の堤防が話題になっている。この地域は明治三陸津波で、1010人の死者・行方不明をだし、1933年も600人の死傷者をだし、戦後、故・和村幸徳村長が巨大な15メートルの津波にも耐える堤防を作る。ネットの写真でしか見てないが、どう考えても田舎の貧乏な村にこの巨大な建造物は不釣合いに思ったわけだが(公共事業費も、ばかになってない)、しかし、実際に村人はほぼ無傷だったわけで、これをどう考えるかなんですよね。
以前に、「第二のハウスマン」というタイトルで記事を書いた記憶があるが、なぜ、この村は「想定15メートル」までつき進んだのか、ということなんですね。そこには、ある人物の、かたくなな意志があったわけですよね。周りは、「想定5メートル」くらいので、お茶を濁している中で(これでも、かなり多くの津波を防いできた実績はあるのだろうが)、この村だけ、ここまでつっぱしって事実防いでしまった、ということなんですよね。
どう考えたらいいのだろうか...。
つまり、私がこだわっているのは、「過去に」巨大な津波によって甚大な被害を受けた地域が、今回も「繰り返した」として、では、今までどう考えてきたのか、を問うているわけです。普代村のように巨大な堤防を作らない。ということは、いつかはそれくらいの津波がまた来たとき、どうしようと考えていたのだろう。徹底した避難訓練で走って逃げる準備をする、大事な写真のアルバムのバックアップをクラウドに置くとか、なにかしていたのだろうか。
想定される被害に、どのように思考してきたのか。ここが何もないと、それって、本当に市民社会なのか、と言いたくなるわけである。こういった事態が想定される。だったら、こういった事態になったとき、どういった心構えで待ち構えるか。
(同じようなことは、原発にも言えるのだろう。)
上記の、リチャード・ローティの議論についても関係するのだろうが、結局あるのは、一人一人の意志や行動だったわけだ。会社だってそうで、「べき」論を何百回繰り返そうとも、社長の「やる」「やりたい」という意志で、始めて行動に移される。
普代村の元村長は、あのようにやった(私はこの人も「第二のハウスマン」だと思う)。
以前、私がここで書いた、都市国家論についても、あらためて、そういった「人間の意志と行動」と同値だと言いかえることもできるだろう。

アメリカ未完のプロジェクト―20世紀アメリカにおける左翼思想

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