岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』

あらゆるゲームには「戦術」がある。
(この本の批評で、こんな書き出しのものはないだろう。)
それが一番分かりやすいのは、アメフトのようなものかもしれない。サッカーもそうだ。
どのように戦うか。
しかし、ここではた、と戸惑うのである。

  • それを「誰」が決めるのか。

ドラッカーの本の前書きは、現代社会が「組織社会」になったことを宣言するところから始まる。しかし、この表現は奇妙である。なぜなら、ドラッカーは、それが、全体主義ではないことを強調するからだ。

なぜなら、自立した存在として機能し成果をあげる組織に代わるものは、自由ではなく全体主義だからである。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

組織をして高度の成果をあげさせることが、自由と尊厳を守る唯一の方策である。その組織に成果をあげさせるものがマネジメントであり、マネジャーの力である。成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである。
マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメントは、以前にも増して大きな成果をあげなければならない。しかも、あらゆる分野で成果をあげなければならない。個々の組織の存続よりもはるかに多くのことが、その成果いかんにかかっている。組織に成果をあげさせられるマネジメントこそ、全体主義に代わる唯一の手段だからである。
マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

この議論は、ある意味、私たちを驚かせる。たとえば、戦前の日本において、「反共」こそ、すべてだと思われていた。
日本はアメリカと戦争することは、ありえないだけでなく、許されなかった。物量的にも勝利は望むべくもなかったからだ。イギリスとの関係も深かった日本は、そのキーワードを「反共」と「勝手に」解釈した。
それは「日本の事情」にあった。天皇の存在した日本において、全体主義を必要以上に敵対視することは「国体」を損ねることを意味した。
そういった事情こそ、日本が比較的簡単に、ドイツと同盟を結んだ理由ともいえるだろう(日本は、ナチスに、人種差別的に蔑視されていたにもかかわらず、である)。ところが、アメリカは、
ソ連
と一緒に日本やドイツと戦うことを選ぶ。
上記の引用において書かれていることは、

である。ところが、全体主義とは、一般的な「天下取り」を意味していたはずで、その否定という表現は、どこか、「無定義」を意味すると言いたくなる主張に思えなくもない。
つまり、全体主義を否定して、
自由
を維持しようとする意志が、逆に、
全体主義のオールタナティブ
を要請する。つまり、

  • 全体主義(今までの人類の歴史) - 自由(未来の人類の歴史)

全体主義に代わる、「自由」を人類は、今だに実現できていない。問題は、それが「何」か、である。それがなんなのかを定義できない限り、この集団行動を始めると言うことに意味はない。
このように見ると、実に、カント的な問題であることが分かる。人類の歴史とは、反自由の歴史だったとして、カントは、あらゆる根源を自由という「言葉」に収斂させてしまう。ところが、さっきから言っているように、問題はそれがなんなのかであり、その定義なのだ。
つまり、なにが言いたいか。
全体主義は認められない(これは、アメリカが直面していたイデオロギー的な要請と言えるだろう)。自由をベースにした社会を実現しなければならない。だとするなら、その社会における、集団行動は、そういった「否定によって定義される」なにかでなければならないことを意味する。

ドラッカー全体主義に代わり、「組織」という聞き慣れない言葉を使う。

何度も言っているが、これは、自明なものではない。これは、「全体主義を認められない」というアメリカ社会が必然的に要請した「なにか」だということである。これがなんなのかは、少しも自明ではない。しかし、そこでのドラッカーの重要なアイデアは、その組織というものが、
マネジメント
なしには存在しえない、と「定義」したことである。もちろん、この「マネジメント」なるものがなんなのか、も少しも自明ではない。
たとえば、全体主義(独裁)は言うほどに、エキセントリックな制度なのか。むしろ、世界の歴史を振り返るなら、独裁でない制度という方が、考えることが難しい。
たとえば、戦中イデオローグの一人でもあり、戦後の靖国神社のあり方とも関係の深い平泉澄の「歴史神学」がどういうものだったのかを、今一度振り返ってみよう。

これに対して批判の激しいのは、もとより平泉澄のほうである。否定された天皇主権を回復させるために、平泉は、大日本帝国憲法の復活を断固として求めた。先に言及した首相官邸での昭和二十九年の講演会は、「歴史の上から天皇の御地位、言ひかへますれば、天皇と国民との関係について」を主題として、天皇主権の正しさを主張するものであった。

藤原氏摂政関白であれ武家の幕府であれ----植村]政治は往々にしてその実権下に移りましたけれども、それはどこまでも変態であってもし本来を云ひ本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもって正しいとしたことは明瞭であります。これは歴史上の事実でありまして、議論の問題ではございません。......すなはちわが国は民主の国ではございませんで、あくまで君主の国であって、ただその国の君主の目標が民本の政治をおとりになった、これが実に重大なる点であります。そしてこれはわが国の歴史に現はれてをるところであり、御歴代天皇の思召しがここにあったのでありますが、それが法文の上に明記せられてをりますものが、即ち明治天皇の欽定憲法にほかならないのであります。

しかし、憲法の改正は行われることなく、改正の見込み自体が日に日に失われていった。首相官邸での講演から十年の後、昭和三十九年に、平泉は「眞木和泉守百年祭奉賀会」において講演し、それでも大日本帝国憲法の復活を要求する。

......これは逆コースではなくして、正しいコースである。明治維新をそのまま受けてきたところの精神であって、そして同時に、かくの如き国家、眞木和泉守が考へられ、明治天皇が実現せられたところの明治の大御世の国家といふものが、全世界に於いて、凡そ最も正しい姿といふものを具現したものであって、そこに平和があり、そこに希望があり、そこに美しさがあり、そこに道義道徳があって、これ以上の喜びといふものが、凡そ人生にはない。今の如くに横着な心構へをもって、人をみな叩きつけてよしとし、自分自ら国家の主権者を以て居る今日の状態が、何といふ悲惨な、愚かな、おどけた、笑ふべきものであるか。そして、これが実にこの国及びこの民族の滅亡の道を歩むものにほかならぬといふこと痛感せざるを得ないのであります。

丸山眞男と平泉澄?昭和期日本の政治主義

丸山眞男と平泉澄?昭和期日本の政治主義

それ[マッカーサー憲法]は平泉にとっては、明治維新の精神がいかに失われたかの証左に他ならなかった。平泉歴史神学の聖人眞木和泉守において、平泉は、明治維新の精神の体現者を見いだし、こう顕彰している。

日本国民たる者は悉く、上御一人に帰順し奉るべしといふのが先生の精神であります。上御一人を尊び、その下にあって蹇々匪躬、御奉公申し上げなければならぬといふのが、先生の根本の精神であります。しかるに、天下滔々としてデモクラシーの叫びに脅かされ、あたかも自ら国家の主権者たるの如き、浮薄なる言辞を弄するもの天下に充満し、そしてお上に対し奉っては、誠に恐れ多い態度、若しくは言説をとります者が多い今日に於いて、先生は非常なる悲しみ、痛恨を覚えられるに相違ないと思ふのであります。......しかも私の固く信じますことは、この先生の精神あって初めて、日本は日本たり、日本国は日本国となり、日本人は日本人となり、日本の歴史はここに成り立つのでありまして、これを没却して今日天下に滔々たるデモクラシーの論、これに任せておきました時には、この国既に亡きに等しい。

丸山眞男と平泉澄?昭和期日本の政治主義

日本の過去の歴史において、これは「独裁じゃない」と言うことになんの意味があろうか。平泉歴史神学を受け入れようが受け入れまいが、この主体、主権の問題が何度でもぶり返してくるのは、そういうことなのであろう。
ドラッカーは、この、人類が累々と生み出してきた「全体主義」に代わって新たに、組織なるものをたちあげようとするときに、二つの命題を提示する。

なぜ、その組織なるものが「それ」としてあるのか。それは、ひとえに「顧客」にかかっている。この「顧客」の定義に成功したから、その組織は存在の正当性を獲得する。マーケティングとは、この「顧客」を定義するための活動と言えるだろう。
この「顧客」について、掲題の小説は以下のように整理する。

しかし正義は、涼しい顔をしてこう言った。
「何も堅苦しく考える必要はないよ。確かに、野球部は球場に見に来るお客さんからお金をもらっているわけじゃないけど、それでも、タダでやってるわけじゃないだろ? ちゃんと野球をやるためにお金を出してくれたり、お金は出さないまでも、強力してくれている人たちがいるじゃないか」
そう言われて、みなみは全く不意に、そういう人たちがいるということに初めて思い至った。
「あ!」
「だから、そういう人たちを野球部の顧客と考えればいいんだ。彼らなしには、野球部は成り立たないからね」
「あ......あ......」と、みなみは興奮したように正義を見た。「そうなると、例えば『親』が顧客ということになるの? 親が学費を払ってくれてるから、私たちは学校に行けるし、部活動もできてるわけで」
「そうだな」と正義は答えた。「それから、野球部の活動に携わってる『先生』たちや『学校』そのものも、顧客ということになるだろうな」
「だったら、その学校にお金を出してる『東京都』も顧客ということになるよね?」
「うん。その東京都に税金を払っている、『東京都民』も顧客だ」
「なるほど!」と、みなみは興奮して大きくうなずいた。「あ、じゃあ『高校野球連盟』も顧客かな? 彼らが、甲子園大会を運営してくれてるわけだから」
「そう。それに全国の『高校野球ファン』も、やっぱり顧客ということになる。ぼくらは、彼らから直接お金をもらってるわけじゃないけど、彼らが興味を持って球場に足を運んでくれたり、新聞の記事を読んだり、テレビを見てくれたりするおかげで、スポンサーがお金を出して、そのお金で甲子園大会が運営されているわけだからね」
「ふむふむ、そうなんだ......そう考えると、高校野球に携わるほとんど全ての人を、顧客ということができるよね」

では、このマーケティングに成功した組織は未来永劫の存在証明に成功したのだろうか。それは違う。それが、イノベーションである。あらゆる組織は陳腐化する。だとするなら、その陳腐化する組織の存続が必要かどうかは、ひとえにイノベーションにかかっている、ということになる。イノベーションに無縁であることは、その歴史的使命を終えたことを意味する。
次はマネージャーである。

あらゆるマネジャーに共通の仕事は五つである。一.目標を設定する。二.組織する。三.動機づけとコミュニケーションを図る。四.評価測定する。五.人材を開発する。
マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネージャーとは何者か? 独裁政治において、独裁者の意志は、国家の意志となる。ここにおいては、裁判制度もその性格を一変させる。旧ソ連において、立証責任が被告人にあったという話は、その一例であろう。マネージャーは独裁者ではない。組織の一部でしかない。つまり、大事なことは、マネージャーはある「ルール」によって要請され出現した「なにか」だということである。
全体主義を認めない、ということは、なにを意味しているか。全体主義社会において、独裁者が行っていた「役割」を、なにかによって、代替するということになる。つまり、

  • 独裁 - ルール化

問題は、その「ルール」化の内実なのだ。たとえば、ドラッカーは以下のように言う。

マネジャーの仕事は、彼一人あるいはその直接の部下を使うだけで遂行できるものにしなければならない。会議や調整が必要な職務は間違っている。頻繁に出張しなければならない職場も間違っている。仕事と会議が同時にできないのと同様、仕事と旅行も同時にはできない。
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マネージャーには、ある独裁者「ライク」な、行動をやらなければならないことがルール化されている。もしマネージャーの意志決定が、(会議や調整などの)なんらかの手続きによって始めて許諾されるようなものであるなら、それは独裁者「ライク」とは言えない。それでは、機能が十全ではない。つまり、否が応でも、マネージャーはそれをやらなければならない。なぜなら、そうルール化されているから。
ドラッカーの言う組織の最も、その特徴を現しているのが、以下ではないだろうか。

雇用主たる組織には、人の性格をとやかくいう資格はない。雇用関係は特定の成果を要求する契約にすぎない。他のことは何も要求しない。それ以外のいかなる試みも、人権の侵害である。プライバシーに対する不当かつ不法な侵害である。権力の濫用である。被用者、忠誠、愛情、行動様式について何も要求されない。要求されるのは成果だけである。
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(このドラッカーの発言と上記の平泉澄の発言の、あまりにものコントラストに注意してほしい。)
ここで、私が注目するのは、「責任」である。
上記に記してきたように、全体国家において、その責任の所在は明確である。
(しかし、そのことは、ポピュリズムに対する対応にも、明確な差があることを理解しなければならない。たとえば、ある将軍に諫言する老中がいるとしよう。この人が、将軍にアドバイスをするとき、大衆が将軍に従うことを仮定できるのかどうかは、非常に重要なポイントであろう。大衆が将軍に従うと想定できるなら、将軍に大衆に向かって指示をお願いすればいい。ところが、民主主義国家において、それは自明でなくなる。民主主義は常にポピュリズムという隘路に直面する。)
では、ドラッカーの言う組織社会においては、それはどうなっているのか。多くの組織が生まれては、その役割を同時平行的に遂行していくこの組織社会において、その行動のそれぞれが、
各組織内に閉じる
ことはありえない。そもそも、組織は全体国家のオールタナティブとして提示されたのであって、その活動の遂行は、全体国家と同様に社会全体への考慮を無視して存在することはありえない。

マネジメントたるものは、社会の問題に対して責任をとることが、自らの本来の機能を損ない傷つけるときには抵抗しなければならない。要求が組織の能力以上のものであるときにも抵抗しなければならない。責任が不当な権限を意味するときにも抵抗しなければならない。しかし、問題がきわめて重大な性格のものであるときには、問題の解決について徹底的に検討し、その解決策を提案する必要がある。問題が深刻であれば、結局は何かがなされなければならない。
企業をはじめあらゆる組織が、社会の深刻な病気のすべてに関心を払わなければならない。できれば、それらの問題を、組織の貢献と業績のための機会に転換しなければならない。それができなくとも、少なくとも問題がどこにあり、どう取り組むべきかを検討しなければならない。関心を払わない払うべきものがいないからである。この現代社会において、組織のマネジメントこそ、リーダー的な地位にあるからである。
しかし同時に、われわれは、先進社会には自立したマネジメントを持ち、業績をあげる組織が必要であることを知っている。先進社会は、全体主義社会として機能することはできない。事実、先進社会は、その社会的な課題のほとんどが、それぞれ自立したマネジメントを持つ組織によって果たされるところに特徴がある。そのようにして社会的な課題が果たされて、初めて先進社会が生まれる。ここにいう組織とは、政府機関を含め、それぞれがそれぞれに特有の目的を持つ組織である。それらの組織は、それぞれ特定の分野で特定の成果をあげることを目的とする社会の機関である。それらの組織が果たすべき最大の貢献、すなわち最大の社会的責任とは、自らに特有の機能を果たすことである。
したがって最大に無責任とは、能力を超えた課題に取り組み、あるいは社会的責任の名のもとに他から権限を奪うことによって、自らに特有の機能を遂行するための能力を損なうことである。
マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

ドラッカーが「企業をはじめあらゆる組織が、社会の深刻な病気のすべてに関心を払わなければならない」と言う意味を理解しなければならない。
たとえば、掲題の小説において、マネージメントは「成功」したのだろうか。ストーリー的には、冒頭にある、甲子園に行ったわけで成功のように思える。しかし、根本的に間違っていることは、むしろ、この小説自体が説明している。
なぜ、みなみの「マネージメント」が成功したのか。間違いなくそこに「夕紀(ゆうき)」の存在がある。彼女が自らの、そのターミナルケアの期間を、みなみのために捧げてくれたから、あらゆる「マネージメント」が成功する(最後まで知らなかったのは、みなみだけ、とも説明される)。ところが、みなみにとっては、夕紀(ゆうき)の「ため」にやっていたつもりであったわけだ。
そもそも、みなみは「野球」が嫌いであった。そこに「真摯」さはない(私は、人間としてその倫理感のなさを非難しているわけではなくて、そもそも、ドラッカーの言うマネージメントが、真摯さを抜きにして定義できないようになっている、ということを強調しているにすぎない。嫌なら、他の制度を選べばいい)。
まとめるならば、全体社会のオールタナティブとしての、組織社会が成功するか失敗するかは、そのルールと、そのルールに基いて行動する一人一人の「真摯さ」ということになってしまっている。
たとえば、今朝のテレ朝のニュース番組で、原子力安全委員会が、全電源喪失を、いかに軽視していたかが説明されていた。長谷川幸洋さんが解説していたが、原子力安全委員会が、「こんなことを考えたら、いっくらお金があったって足りない。電力会社の経営が成り立たない」みたいな理由で、全電源喪失のリスクを握りつぶす。しかし、原子力安全委員会
役割=使命
は、安全かどうか、を判断することであって、それを放棄して、電力会社の経営をうんぬんした時点で、彼らの歴史的使命は終わったのだ。

事実、うまくいっている組織には、必ず一人は、手をとって助けもせず、人づきあいもよくないボスがいる。この種のボスは、とっつきにくく気難しく、わがままなくせに、しばしば誰よりも多くの人を育てる。好かれている者よりも尊敬を集める。一流の仕事を要求し、自らにも要求する。基準を高く定め、それを守ることを期待する。何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも知的な能力を評価したりはしない。
マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

大事なポイントは、組織とは、ある構造であって、各役割が十全に機能しないなら、それは、
組織という形をとっては「ならない」のだ。
今年の夏の電力確保に奔走するのも、ご自由だが、地震活動期に入ったこの日本で、今、原発は「リスク評価」がされてない状態に等しい形で、動いていることを理解しなければならない。
そもそも、福島第一は、リスクを取ることに失敗して、内容物の流出が起きてしまっている。東電がありえないと言っていたこの事態が起きたことは、
悲劇
が起きたということであり、私たちはこれから先、広島長崎よりはるかに多い量の放射性物質と格闘していかなければならない。再臨界についてまで専門家が言及し始め、水蒸気爆発の現実味を忖度しなければならない事態が続いており、さらなる被害の拡大の可能性さえ「リスク評価」しなければならない。
ドラッカーの言う「組織」。今、この日本で、その十全性が疑われている...。