原発「推進国民」という「ボロネオの環」

日本の電力会社が、今まで広告費として、日本中にばらまいていたお金は、どうなっていたのだろうか。
テレビ局のCM料としてあったなら、それによって、テレビ局は、一つの番組を放送できた。大学であれば、それによって貰ったお金で、研究ができたのかもしれない。
こういったことは、さまざまにあるのだろう。
電力会社の広告費の量が、トヨタなどと比べても、圧倒的に大きかったことを考えても、これが一気に見込めなくなったときの、さまざまな
日本の文化活動
への影響を心配することには、それなりの現実味があるのかもいれない。つまり、一種の
公共事業
的な役割を果たしてきたことは間違いないのではないか。
だとするなら、保守主義的な発想からは、こういったお金が一気に引き上げることの日本経済への影響を懸念するのは、もっともなのかもしれない。
でも結局は、原発は、国の政策ですから、支持する政党が、原発推進を言っているのであれば、今まで通りに、東電は日本中に広告費をばらまき続けるだろう。そして、CMはこれからも、原発は安全です、と言い続けることになる。
たとえば、原発を作らない、という政党が新しく生まれて、選挙で勝利して、政権政党となったとすると、この政府はどういった出口戦略を行うことになるだろう。
まず、上記の「公共事業」的な広告費のばらまきを、認めるかどうかの議論になるのかもしれない。電力会社が原発を作らなければならないという政策的な圧力がなくなったとき、一切の広告をやめれば、その分の「今まで期待できた」広告料金が国民の文化活動に見込めなくなる。一気に日本の文化活動のパイは縮小する。急激な縮小の影響は大きいのだったら、ある程度の期間、国が補助金をばらまいて、バランスをとる、となるのだろうか。
言わば、以下の「バーター」的なパワーバランスが、日本の「ワンダーランド」を維持してきた、と言えるのだろう。

  • 原発推進政党を選択:国民 --> 国
  • 原発を作ることを命令:国 --> 電力会社
  • 原発が安全だと広告(公共事業):電力会社 --> 文化活動
  • 原発制作費を含んだ)電気代:国民 --> 電力会社

つまり、これは以下のように整理できる。

  • 公共事業(原発広告費):電力会社(国) --> 国民(文化活動)
  • 高額の電気代(国民):税金(文化活動) --> 電力会社(国)

原発という一つの「政策的な象徴」が、国民の
文化活動
という普段なら、そう簡単にお金が集まりづらいものへのお金の(社会主義的な)再分配の正当性を与える。しかし、そのお金は当然であるが、
電気代
なのだが、「国民一律」にならしてるので、極端に値段が高いとは感じない。ところが、世界の主要な国々の電気代と比較する段になれば、
当然
日本の電気代が上記の「原発広告費」の分だけ、飛び抜けて高くなり(ここが重要だが)、この日本の電気代の高さが、日本企業が日本国内で工業製品を製造することの嫌気(コストのアンバランス)をもたらす。日本の失われた10年とは、日本の原発推進による「電気代の高騰」と重ね合わせることもできるのだろう。
このように整理したことには、二つの前提がある。

  • 日本人のライフスタイルはさらなる、電気の大量消費を拡大する。
  • 原発「公害」は、国の政策なのだから、国民が負担する。

結局エネルギーとは、常にネタ元(安全保障)の話に尽きてしまう。日本が原油アラブ諸国に九割依存してきた関係から、日本には長年、エネルギーの多極化への悲願があった。アラブの政情が不安定になれば、石油を獲得できなくなるかもしれない。だったら、それを代替できるエネルギーを模索する。それを原子力としてきたのが、今までの日本の政治選択だと。
ここで、一つのパラドックスがある。原発政権政党の「選択」だったとするなら、それによる
公害
は、「国民の選択のせい」なんだから、「忍従しろ」というロジックだ。
あらゆる公害問題はそうだが、そういった公害を、その企業が国民に「弁償」しなくてもいいなら、その企業は「儲かる」。
企業活動とはそういうもので、今回だって、チェルノブイリ並みの原発の内容物の流出を起こしても、国が「今漏れてる放射性物質は安全です」と言い続けて福島の人たちに避難を「許さなければ」、福島の人たちは、普通に「津波災害レベル」で避難していることだろう。
今、非常に問題になっている、「自称低濃度」汚染水を、日本の漁師や(アメリカを除いた)周辺の国に無断で、海に流した。どうせ薄まって、だれも気にも留めなくなるし、と。ところが、沿岸の魚にかなりの量が蓄積していることが分かる。
すると、日本の漁業は、いったんストップせざるをえないし、(アメリカを除いた)周辺の国は聞いてないのに、勝手に海を汚された、と。
つまり、上記のパラドックスは、国内向けにはパラドックスなのだが、ひとたび海外に目を向けたとき、たんに迷惑な行為をした国でしかなくなる。
結局、あらゆる論点は、多くの人たちが口にしていた
リスク
という言葉の「意味」。つまり、この場合の、
確率空間
を何に設定しているのかが、どこまでも曖昧だったことに集約されるように思われる。あらゆる企業は、さまざまな企業活動が、さまざまな問題を招来させることを認識していないわけではない。日本の70年代の公害問題にしてもそうで、それが問題であることを理解しながら、企業は「突き進む」。それがいいのか悪いのか、という話はあっても、企業とは、それでも突き進む集団なんだと理解しないとしょうがない。
そうした場合に、以下の二つの壁が立ちふさがる。

  • それを問題と「誰」が認めるのかの「第一の壁」
  • それを問題と認めたとして「誰」が負担するのかの「第二の壁」

今回の事故の問題は、ひとえに「全電源喪失」にあることは、多くの専門家が語っている通りであろう。そうであるなら、なぜ、この事態に対して、
危険予測
ができていなかったのか、ということが問われざるをえない(そして、この問題は、地震活動期に入っている、この日本の、今ある原発全てのリスクとして「現在進行形」として続いている)。
しかし、これを逆から言ってみよう。なぜ、こういった予測が「軽視」されるのか、と。
たとえば、今回の放射性物質の拡散にしても、これが「公害」であるなら、まずこれが「問題」なのかどうかの判断が最初に来る。こういった物質をばらまいている側にしてみれば、この物質が「公害じゃない」と判断できれば、その企業は損害賠償を要求されるいわれはなくなる。ということは、どういうことか。これが「公害」だと国が認めるかどうか、ということになる。
しかし、ここで議論は混乱してくる。原発推進は国の意志であり、つまりは、国民が決めたことであった。その結果として、公害が生まれるなら、それは、国民の責任ということになり、自分がまいた種は自分で始末しろ、となる。
もっと言えば、原発推進国民が自分を安心させるために、電力会社に、原発安全CMを「流させていた」のだから、なぜその「嘘」を、電力会社が糾弾されなければならないのか、となるだろう。
つまり、電力会社から見れば、全部、原発推進国民に命令されてやってきたことでしかないのだから、なぜ、その命令の結果の「責任」を、自分たち現場が被らなければならないのか、となる。つまり、あらゆる行動の、
責任の所在
が著しく不明瞭になってくる。以前のブログで、河合幹雄さんの議論の延長で、戦後の日本の基本線として電力会社が存在してきたとするなら、その方向の変更には、一種の「内戦」のような様相を呈することになるのではないか、ということを書いた。
もし、エネルギー政策が国家の基本線としてあるなら、なぜ、民間企業となっているのかが議論を混乱させ続けている原因と言えるだろう。
つまり、東電にしてみれば、原発をやらないですむのなら、これほど、ありがたいことはないわけだ。火力発電所は国民のコンセンサスを得ているわけで、これだけで経営をやりたい。ところが、
国家
つまり、
原発推進国民
が一企業に原発を作り続けろと命令するから、彼らは嫌々、原発を運転し続けさせられている(技術者たちに、あれほどの、放射能を浴びさせ続けながら)。
ドラッカーの組織社会論でいうなら、原発の「顧客」は誰なのか。これが問われている...。