インフレーションする「島宇宙」

(私感ということで、少し「啓蒙」的な文章を書いてみようかと思います。といっても、どうせ今まで通りの、日記にしかならないわけですが。)

東浩紀は、「棲み分ける批評」(『郵便的不安たち』)の中で、九〇年代の社会・文化状況のことを「徹底化されたポストモダン」と名づけている。「ポストモダン」とは、リオタールの言う、「大きな物語の終焉」の後に生まれた思想である。ここでいう「大きな物語」とは、具体的にはマルクス主義のような世界を俯瞰できるような世界認識のことをいうが、このマルクス主義の凋落の後のポストモダン状況とは東によると、「複数のモードが混在し、どれもが支配的になることなく独立し続ける文化状況の到来」のことである。
その結果どうなるか。「価値観は急速に相対化され、結果として各趣味を共有する人々はきわめて閉鎖的なグループを形成し、それらグループ間のコミュニケーションは急速に困難になっていった」。この過程が急速に進んでいったのが九〇年代であって、その結果、「いまや特定のモードが文化的先端を僭称することはできない」。宮台真司はもっと早い時期に東と同様の分析をしているが、東のいうこの過程のことを、宮台は「島宇宙化」(『制服少女たちの選択』)と表現している。
つまり、社会には「島宇宙化」した同じような価値観をもつグループ(それは、必ずしも実体的な組織を形成している必要はない)が多数存在し、どのグループも自分の優位性を決定づけることはできず、しかも互いに連関なく並立しており、相互のコミュニケーションも困難であり、そもそもその必要性も感じていない、というような状況が「徹底化したポストモダン」の状況だと言えるだろう。この状況の中では、政治的な議論は絶望的におこらないし、仮におこったとしても全く生産的な結論は生まれえない。相互の前提となる価値観が全く違うので、話しても無駄だとお互いに承認しあっているからである。
藤村修「「大きな物語の終焉」......「大義」はどこへゆく?」)

デルクイ 01─反体制右翼マガジン

デルクイ 01─反体制右翼マガジン

実は、こういった形で、宮台さんや東さんの文章に言及されたものはたくさんあるんじゃないかという印象をもっている(いつもながら、勝手なことを書いて、すみません)。ところが、一般のこういった文章に慣れていない方々には、なぜ彼らに言及されるのかが分からない。どのへんがどうで彼らに言及されるのかが分からない。
全共闘世代の書き手というのは、昔からずっといまして、定年近辺で、言ってみれば、おじいさん世代でしょう、若い人にとっては。そうすると、なかなか話が繋がらない。じゃあ、その後で、ああいった全共闘世代のように、攻撃的かつ挑発的に「若者」を語った人っていうと、ほとんどいないわけですよね。
そういう中で、明らかに出色だったのが、宮台さんが若い女性の性(売買春)をフィールワークとして告発していった一連の言論だったんじゃないかと思うわけです。たとえば、

世紀末の作法―終ワリナキ日常ヲ生キル知恵

世紀末の作法―終ワリナキ日常ヲ生キル知恵

はまさに、アジビラですよね。非常に挑発的かつ攻撃的で非常に興味深かった記憶がある。まさに、
世紀末の作法
であって、私がよく使う作法という言葉も、ほとんどそれと違和感がない。

  • 道徳的(規範的)ではなく倫理的(エートス

ということはだれでも口では言うんだけど、例えば、ある売春をする少女がいたとして、その少女にはそれをする「自由」はあるのか、という問いは、道徳的(規範的)には、抵抗を感じても、倫理的(エートス)、つまり、
その少女が自ら「選ぶ」
その意味を考えたときに、それこそ自由主義的な
作法
であったんじゃなかったのか、と。ただ、大事なのは、それはたんに「それ」なんじゃなくて、その行為を行う少女には、ある
風景
がある。彼女をとりまく、さまざまな構造的な諸関係があるわけで、そういった文脈の中で「島宇宙」もでてくる。
ところが、この「島宇宙」は、むしろ、ほとんど全ての若者が(学校のクラスなどで)実際に実感していたことだったわけですよね。だから、多くを語る必要がなかった。なかったんだけど、実際に「島宇宙」を生きている全ての若者にとっても、常にそこに生きていながら、これがじゃあ、実際には「なんなのか」と問われると、言葉にできない。まさに、
世紀末の作法。
じゃあ、ここで、上記の宮台さんのアジテーションのその後の日本の歴史における、予見性ということで考えるなら、どういうことが言えるのだろうか。それは間違いなく、このネット的な言論なんじゃないだろうか。
もちろん、はるか太古の時代から、売春のようなものはあったのかもしれない。そういったどろどろした感情の世界はあったのだろう。しかし、ネットは言わば、自分と本当に関係のなかった相手と、なんの仲介なしで、繋がってしまう。いや、それどころか、ネットはネットの外で関係するための「手段」でさえなくなり、その中で自閉さえしてしまう。
つまり、「島宇宙」はむしろ、ネットによって完成された、と考えるべきなのだろう。
つまり、ここにおいては、言論というものがなんなのか、分からなくなる。あるパブリックな発信元があって、大衆はそれを受益する立場といった、セントラルな関係が失われ、まさにネット。無数の発信点がプロトコルで繋がっている。ただそれだけがある風景に近くなる。まさに、「島宇宙」とはそういった単位で、たんに増殖していく、その光景を名付けることしかできない...(例えば、こうやって生まれ続ける島宇宙それぞれの、ドラッカー的な意味での「顧客」は誰なのだろうか...)。
これ以降の若手の物書きのものを読んでいると、ほぼ、この宮台さんの敷かれたレールの上で考えているようにさえ思えてくる。つまり、このような(自生的に増殖し生まれ続ける)日常における、
作法
とはなんなのか。その定義をそれぞれが模索し続けている、というのが実際ではないだろうか...。
ただ、ここまで書いてきて、ちゃぶ台をひっくり返すようだが、宮台さんの文章は多分に実存的な、感傷的な側面をもっていたことも確かなわけですね。例えば、自分が子供の頃過ごした、団地の風景にこだわった文章を書いたり。
たとえば、強調していたことは、サブカルチャー特に、
少女マンガ
がある年代までの、プラトニックなものが、急激に失われていく。そう単純ではなくなっていく。そうしたときに、過去のノスタルジーを一方では嘲笑しつつ、他方において、自分が愛読してきた過去の作品への親和感を拭えない。
それを読んで自分は育ってきた。
そういった事実性にこだわることこそ、保守的ということのなにかなのだろう...。