反原発派のエクソダス

ニコニコで、あいかわらず、勝間さんは、微量放射性物質は人体に影響がない、という主張を「科学」と主張していますね。それに対して、東さんが学会にもいろいろな主張がある、と中和してましたがorz。
今、浜岡原発はどんどん津波対策で高い壁を作っている。じゃあ、浜岡原発を再開しようとするとき、管総理はどんな「屁理屈」で再開を阻止するのかが見物だと勝間さんは嘲笑的に言っていた。さすが中部電力の宣伝に出演していただけに、彼女のアイデンティティ浜岡原発を動かすことにあることは間違いなく、それが変わることはないのだろう。反原発は彼女の今までの半生を否定することであるのだろうし、そう簡単に「自分が間違っていた」とは、こうやって自分で独立して生きている人は言わないのだろう。
このニコニコの番組の、「グローバリズム」が世界的に不可避であることを認めた上で、いかに人々は「肉食男子」「肉食女子」的に、世界をサバイバルしていくのかを説教していく雰囲気と、他方において、今週の videonews.com での、ブータンでの「幸福」の認識を議論していく雰囲気との、あまりにものその差異に、両方を聞いた人たちはずいぶんと違った印象に、うーんとうなってしまうんじゃないだろうか。
インドや中国と近接する小さな国である、ブータン王国の国民が日本に比べれば圧倒的にGDPが低いのに、圧倒的に自分が「幸せ」と答える人が多いことが有名であるが、その理由の一端を番組は説明している。
ブータンでもエリートは国外に「留学」するが、その多くがブータンに帰ってくる、というんですね。なぜ帰ってくるのか。その理由の一つに、彼らは地元に返ると、地元の人たちに「錦を飾る」といったように、お祭りのように、みんなで祝ってもらえる、ことが言われていた。戦中や戦後直後の日本じゃともかく、今の日本じゃあまりないだろうけど、たしかに、そういった「印象」は、地元にはあるし、そういった感情は地元でなければ受けられないでしょう。もう一つは、仏教的な生活や慣習が、そういった地元民の農業生活に浸透している、ということも言っていた。
他方の上記のニコニコの番組では、彼らにはどこにも宗教的な雰囲気を受けない。つまり、宗教的な慣習の外に出たときに、じゃあ、超越的な規範の問題は彼らには、どうなっているのだろう、と問うことは、おもしろいかもしれない。彼らがなぜ、あやまらないか。それは、外的な「規範」がないから、でしょう。外的に規範がないなら、すべての問題は、自分の
内面
に収斂する。つまり、セカイ系の単純な例なのだろう。なんでも、自分の内面の問題になるから、自己撞着、トートロジー、つまり、自分の内面の中で、あらゆる問題は「感情的な脱色」によって、脱問題化されてしまう。なぜ、そうなるか。それは、あらゆる問題が、自分の中で閉じるから、ですね。
人間の問題から、宗教を除くと、「動物」が現れるわけで、そう考えると東さんの「動物化するデータベース」だと。でもそれって、宗教がない、ってことでしかなんじゃないか。
たとえば、マンガ「3月のライオン」の最新刊において、イジメが問題として焦点化されている。でも読んでると、とても、ツイッターに似ている。教室に行くと自分の机の上に、彼女を誹謗中傷する言葉が並んでいる。黒板に彼女をののしる言葉が書かれている。でも、ようするに、だれが書いたのか、という著名がされてないんですね。それって、ツイッターで、匿名でアカ作って、さんざん罵倒して、アカ削除する行為みたいなものでしょう。でも、教室で書かれてるんだから、クラスのだれかであることは間違いないわけで、さらに、書かれてそのままになっているんだから、ある意味では、クラス全員が彼女のイジメに共犯だってことでしょう。こんな雰囲気で、就学旅行なんて行ったら、つらいだけでしょう。
じゃあ、ここで、もしその地域の多くの人たちが深い宗教生活をしていたらどうなるだろう、と思ったわけです。なんにしたって、毎日お祈りをしている人を同じ宗教を信仰している人は、外面的に「いじめ」できるだろうか。宗教者にとって、そういった宗教的生活を信心深く生きている人を尊敬しないわけにはいかないんじゃないだろうか。
また、個人の生活もそれによって大きく違っているんじゃないだろうか。作品の最初から純粋で、なんでも思ったことを大きな声で言う女の子のキャラで描いただけに、なかなか抜け出せない深刻さを強調することには成功しているのだろうが、もし彼女が(幼いなりに)それなりの宗教生活を匂わせる日々を生きていたらどうだっただろうか。
イジメを受ける子供も、毎日の宗教生活の中で、

との対話を繰り返すことは、個人の思考の強度を高めることにはならないだろうか。
日本にもし、宗教がありうるとしたら、それは、仏教なのだと思っているが(そういう意味では、今の原発問題に仏教界が発言してこないことは、この国の宗教の地位の低下を感じざるをえない)、でもそれは、江戸時代の檀家にしても、あまり国民宗教的じゃない。あるとしても、地方の地域的な「高級な」関係の延長にしか、繋がりを想像できないわけで、ずいぶんと、ブータン王国とは違っているのが、日本の現状なのだろう(「3月のライオン」でも、父親の死をきっかけに、もっと仏教的な信心生活を日常化してもいいと思うのだが、どうも日本というのは、そういう雰囲気がない、ということなのだろうか...)。
ツイッターを見ていると、日本の反原発の道は遠いな、と思わざるをえない。というか無理じゃないかな。もちろん、新規着工ができずに、勝手に老朽化して、数が減っていくということはありえても、国民が一丸となって、つまり「ドイツのように」反原発になるのか、と考えると、少なくともツイッターを見ている限りは、あまり思えない。少なくとも、それなりの割合の、
感情的反反原発
の勢力は、ちょっとやそっとでは減ることはなくて、こういった連中は、もう、いつまでたっても、ぶーすか、言い続けるだろう。それだけは、間違いないんじゃないだろうか。
でも、たとえ、こういった連中がなにを言い続けようとも、福島から、多くの人たちが、
脱出
している。この夏休みを使って、さらに多くの子供をもつ、ご家庭が県外に、引っ越すことは、ほぼ間違いないと。そうやって、福島から、子供がいなくなっている状況に直面して、思うことは、
こういった福島の状況のアナロジーとして、いずれ、反原発派は、この「変わらない」日本に絶望して、日本を
脱出
するんじゃないか、とちょっと思った、ということである。日本が原発を捨てることが「できない」なら、あとは、反原発派が、
民族ごと
別の国に脱出するしかないんじゃないだろうか。つまり、これは少しも非現実的なことを言っているわけじゃなくて、つまり、集団脱出。また、別の国で、それなりの人口密度をもって、日本人村を作って生きるという選択なんじゃないか、と。そしてそれは、
感情的反反原発
の感情的(=動物的)な罵詈雑言がエスカレートすればするほど、この日本のイジメ的に嘲笑する非人間的行動の「分断」の結末として、想像せざるを得ないようにも思うのだが...。