武田隆『ソーシャルメディア進化論』

よく考えると、企業というのは不思議だ。
大人になると多くの人は、サラリーマンになる。つまり、賃金労働者であるが、その特徴は、その企業に(ある一定の範囲の)時間を支配されることで、一定のお金をもらう、というトレードオフの関係と言えるだろう(もちろん、その時間の中には、その労働者の実際の「労働」があるわけで、そこで成果がだせなければ、この関係自体が成立しないのだろうが)。
問題なのは、その時間だろう。大人たちはその多くの時間を、この関係に提供しているわけで、そう考えたときに思うことは、その多くの時間とその労働者の
濃密な関係
についてなのである。それだけの多くの時間を「そこ」で存在するのであれば、そこは、ある種の、その人自身の一部となるだろう。毎日過ごす環境として、よりファミリアリティが増すはずだ(たとえば、自分の家での家族関係に比肩できるくらいに)。
しかし、そう考えたときに、逆にじゃあ、この企業なるものが、実際にはなんなのか、が問われないだろうか。ここは、なんなのだろう? なぜ、こういったものが存在するのか。どういった秩序がこういったものの存在を生みだし、そうあらしめているのか。
その一端を見せてくれるのが、各企業が作り一般に公開している、各企業サイトであろう。しかし、近年のネット状況は、そもそもこういった企業サイトを「だれ」が見ようとしているのか、ということで、つまり、
だれも見ていないんじゃないか
ということなのだろう。近年のソーシャルメディア化の中で、各企業がわざわざ作ってきた企業サイトは、そもそもだれも見ない。見る動機がない(そのサイトに行くということは、「あえて」そこに行くリンクをクリックするということで、近年のソーシャルメディア環境に、まったり、居座り目の前の光景を眺めている使い方を考えると、今後の企業サイトが今のままの形態でい続けることは、考えづらいということなのだろう)。
ということは、どういうことだろう。
なぜ見られないかは、なぜそんなだれも見ないサイトを作っているのかにつながり、つまりは、なぜその企業は存在するのか、につながる。
なぜ企業は存在するのか。企業はマルクス的に言えば、この資本主義システムを担う資本的な「主体」の一つ、ということになる。企業はたしかに、自らが生み出す商品を売って、利鞘を稼ぐ、自己利潤追求的存在ではある。しかし、他方において、企業が売る商品は、なぜ売れるのかを考えるなら、この資本主義システム内において、
求められているから
とも言える。その企業は、われわれ市民社会がそうあってほしいと求められているそういった要求に答えていることによって、そのように存在することに多くの賛同を得ているとも考えられる。
この二つの一見、あい矛盾しているように思われる相貌を、それぞれに持ち続けることが、社会のさまざまな有り様を、複雑かつ多様にしている。

  • 企業が利潤の追求をやめれば、その図体をいつまでも維持し続けることができずに、この資本主義システムから撤退せざるをえない。
  • 企業が社会的な「正義」を体現しようとしているから、人々から多くの賛同を得られ、その企業が「存続してくれること」を多くの人が求めることになる。

ということは、どういうことか。
つまり、企業は非常に複雑な行動をしていることを意味していて、そのように複雑であるということは、
アカウンタビリティ(説明責任)
が「必然的」に求められている、ということになるだろう。つまり、企業経営とは非常に複雑な「顧客」との相互作用の中にある、ということになる。

日本のドクターズコスメの先駆けであり、新進気鋭の化粧品ブランドである株式会社ドクターシーラボの企業コミュニティもまた大きな活性を見せた。1年間で、通信販売(EC)サイトの売上を14億円伸ばしたその活性の詳細を見てみることにしたい。その原動力のひとつになった「ミッピイ」さんというサポーターの成長記録を見てみよう。その発言の変化に注目してほしい。

《1ヶ月目》
FROMミッピイ
ルーセントを使ってみたいのですが、
パウダーって白っぽくなる、乾燥るという
イメージがありますが、どうですか?
使用感を教えて下さい♪
《6ヶ月目》
FROMミッピイ
みなさんのコメントを見てたら
私も欲しくなっちゃいました。
次に買うのは3Dとアクアインダームに決まりかな。
《12ヶ月目》
FROMミッピイ
シーラボの世界へようこそ♪♪♪
シーラボ製品は、天然由来成分でできているので、安心して使う事ができるので、オススメです。わからない事がりましたら、
皆さんに気軽に質問して下さいね♪とっても親切な方達ばかりですよ〜。
これからも宜しくお願いします。(^0^)

日を追うごとに、ドクターシーラボとその商品に対する愛情が深まり、同時に投稿の品質も上がっているのがおわかりになるだろうか。「ミッピイ」さんはたくさんの消費者とつながっている。また、ミッピイさんの発言は多くの見込み客が閲覧している。それらの消費者ネットワークを、オーガニックでパワフルなサポーターによるメッセージが、消費者どうしの気持ちを伝って伝播する。これがサポーターの力である。

企業は、「顧客」の疑問や質問に「答えなければならない」。あなたの企業の製品は本当に健康にいいんですか。使っている化学薬品は本当に体に入れて大丈夫なんですか。本当にその薬品を使わなければならないんですか。別のもっと体に安全と言われている方に変えられないんですか。
企業と「顧客」は、こういった何度も繰り返される相互応答の果てに
信頼
が生まれてくる。なぜ多くある類似製品の中から「それ」を選ぶのか。もしそれが「安さ」だけだとするなら、私たちは中国やインドなどの新興国の値下げ競争に負けるだろう。しかし、本当にそうなのか。私たちには、もっと求めているものがあるのではないだろうか。
企業は、そもそも、「顧客」が求めているものを売りたかったはずなのだ。企業は、「結果として」顧客が「こんなん買うんじゃなかった」と、自社の製品を部屋の壁に投げ付けられることを、悲しく思わないはずがない。なぜなら、その逆を求めて、企業活動を始めたはずなのだから。つまり、それは「お金」じゃないはずなのだ。
ここでちょっと視点を変えてみよう。こういった、ソーシャルコミュニティ的に企業活動に「大きな影響」を与え、空前の繁栄を迎えた分野がある。
日本のオタク文化である。
オタクたちは、さまざまにアニメを中心としたサブカルチャーにさまざまに、発言を続けることで、この業界は日本において 空前の発展を迎えたと言っていいだろう。
上記において、私は企業活動には二つの相矛盾した側面をもっていると書いた。企業は一方において利益を追求する。それは、従業員の給料を払うためにしても、株主に配当するためにしても、同じことで、なんらかの形で利鞘を得ない限り、企業活動を継続することはできない。他方において、売る商品にもし、顧客の満足がなければ、継続した販売活動が継続できなくなる、と考えることは普通だろう。商品は、自分がお金を稼ぐことを「目的因」としているわけではない。その存在様式は、ひとえに、消費者のユーザビリティにかかっている。消費者がその商品を「使って」満足するかどうか「だけ」が、その商品の「目的因」と言えるわけで、この関係から逃げることはできない。
特に、近年の長い年月に渡る、保障制度が一般化していることをみても、商品販売側には、その商品を使われる顧客との、長期間に渡る、
製品品質管理
の「義務」が一般的になってきていると言えるだろう。
こういった長期的な関係を考えるということには、どこか、売る側と買う側の、単純で簡単な売買関係を超えた、
契約関係
のような状態を、そこに見ざるをえなくなることは、一般に言えるのではないだろうか。
あまりにも長く使っていると、その商品がどういった特徴のものであるのかを、消費者は日常的な感覚としていく。そして、そういった感覚はさまざまな日常において、相対化される。企業にとって、そういった消費者からの声こそ、この商品が成功だったのか失敗だったのか、また、それはそれぞれどういった側面において言えるのか、の貴重な財産となる。こういった体験こそ、次に同じような商品を提供するときに、顧客に「約束」できる価値の「担保」となっていく。
つまり、言いたかったのは、こういった関係が「あまりに長く続いたとき」に、そもそも、そういった組織と顧客を「分ける」こと自体が、あまり、意味がなくなる、ということである。
顧客はそういった長期の使用の中で、企業にさまざまに日常の不満をぶつけ改善をしてもらい、また、満足の日常に戻っていく。こういったことを繰り返していくうちに、使うことを「変える」ことは、あまり区別のない、日々の「生理的な」ルーティーンとなっていくだろう。
つまり、言いたいのは、その顧客は何割かは、もうその会社の一部のようになっている、ということである。もしかしたら、会社の重要な岐路において、その判断の材料に、そういった「ファン」の言葉が影響するかもしれない。しかし、そういった影響を本当に「外部」のものと、区別できるのだろうか。
たとえば、企業はそのうち、そういった「ディープユーザー」に、「給料」を支払い始めるかもしれない。それだけじゃない。そういったディープユーザーによって、その会社「自体」が運営されていくかもしれない。
(企業になんらかの社会的な使命を認めるのであれば、その企業をだれが所有しているとか、だれが所属しているか、といった内外の分類には、あまり意味がなくなるのかもしれない。どちらにしろ大事なことが、その企業の
公共的サービス
の提供にあるのであれば、どんな形であれ、そのサービスが「顧客」に提供されればいいのであって、それ以外のことは
どうでもいい
わけだ。)
オタク文化の特徴は、この関係が「世代」を超えた、ということになるだろう。オタク文化関係の会社で働いている人々(クリエーター)とは、一世代前の、
オタク
たちである。彼らは「消費者」だったし、今もこういったものを「快楽」として、消費している。彼らは、子供の頃、おこづかいが少なく手に入れられなかった「夢」を、こうやって働くことで手にしたお金で消費するし、子供の頃、こういったものがあったらいいなあ、と思った「夢」を形にすることで、次の世代の「夢」を「継承」する。
しかし、どうだろう。これは、オタクだけの現象だろうか。あらゆる企業活動は、どこかしら、こういった側面をもつはずではないんじゃないか。
80年代に「一見存在すると思われた」広告という「印象操作(ある種のマインド・コントロール)」による、大量生産大量消費の超巨大企業マーケティングが、日本の「成熟社会」化において、なかなか成立しえなくなっていることは、こういった方向の「反証」となっているように思える。
超巨大企業が「マーケティング」と称して、大量生産した「なんかのコピー物」を、日本中にばらまけば、みんなが飛び付いてくれ、確実に「利鞘」が生まれる、というような、顧客の「人格」を無視した、経済活動は、これからの日本では、なかなか生き残れなくなるのかもしれない。
それは、ソーシャル・メディア的な現象として、一切の消費者との、双方向の関係を拒否する「今まで」の形態が、なかなか維持できないと思われるからであって、消費者を無視して、なにかを「決める」ことがありえなくなるということは、なんらかの意味で、企業の意志決定に消費者の「意志」が侵食してくる、ということであるのだから、どうしても企業の図体は、小回りのきく形態に収まらざるをえなくなる、と。
近年、日本経済に対しての「悲観論」がかまびすしい。価格競争で、周辺発展途上国に勝てるわけがないんだから、工場はことごとく移転して、日本には、「金の成る木」がなくなる。みんな失業する、というわけだ。
しかし、そういった「肉食男子」「肉食女子」的な発想から抜けられない人たちは、たいてい、「おっさん」「おばさん」の全共闘世代であって、それ以降の若者は、そもそも、そういった、
大量生産大量消費社会の弱肉強食の超巨大企業マーケティング(つまり、バブル)
を体験していないので、なんでそこまで「がんばらなければならない」のかが分からない。こういった、辺りを焼け野原にして、自分の国だけに利益が入ってくる仕組みを作るまで、徹底的に相手をたたきのめす、ことまでして自分が生き残らなければ「ならない」、という発想がない。
そのように図体をでかくすれば、細かな顧客サポートはできなくなるだろう。つまり、それだけ顧客のニーズにリアルタイムで反応することは難しい。
しかし、大きな企業には、以下の対応方法が残されている。

  • 細かなサポートを「下請け」にやらせる。
  • 豊富な資金でITを発展させて、大きな会社でも「ある程度の範囲での」細かなサポートを提供する(顧客に、こういったもので一見サポートが充実していると思わせる)。
  • さまざまに自分の「小さな」競争他社に「いやがらせ」をして、相手に自分たちの縄張り入ってくる意欲を削がせる。

こうやって見ると分かるように、グローバリズムとは、こういった巨大企業が顧客に細かなサポートができないんだから、あらゆるグローバルな基準は「こういった巨大企業の都合に合わせなければならない」という発想だと言えるだろう。地元の企業なら、地元の事情をよく知っているのだから、細かな関係を築けるのだから、いくらでも、地元へサービスをすればいいじゃないか、と思うのだが、そうすると、超巨大企業が
不公平だ
とブータレルわけだ。そんなに地元同士でくっつかれたら、こっちは商売あがったりだから、「企業は細かいサービスを地元に密着して行ってはいけない」という
グローバル・ルール
を作る。むしろ、

  • 地元の人が地元の企業を「えこひいき」するのは「当たり前」

という感覚が、どうも「グローバリズム」という、弱肉強食幻想の抜けない「全共闘世代」には、なかなか理解できない、ようだ。
世界は今後、より弱肉強食化して、韓国のように巨大財閥「しかない」、数えるくらいの財閥がこの地球上を「支配」するような、小説「1984年」のような世界になっていくのだろうか。
それとも、それほどの資本がなくても、みんながそこそこに稼げて、自分の求めるなりの満足を得られる企業との相互関係を得られる「しあわせ」を得られるような、小さな企業群の地産地消が中心になるような、社会になっていくのだろうか。
(そうなるためには、そういった「巨大財閥」が現在生みだしているような、需要を代替できるようなシステムを、こういった小企業群が提供できるような形になっていかなければならないだろうが、それは一体、どういった形態のデザインのものとなるのか...。)
私には分からないが、少なくとも言えることは、これには「税金システム」の方向性が非常に大きく影響するだろう、ということだ。税金システムこそ、この日本の未来像を決定的にする。そういう意味では、決して、さまざまな階層同士の「権力闘争」がなくなることはない、ということだろうか...。

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