地方へのアンビバレントな感情

東日本大震災の被害は悲惨の一言で、今、復興がさかんに語られている。
地方の復興は、まったなしで求められているものがある。
しかし、他方において、私には地方へのアンビバレントな感情を拭いきれない。
というのは、近年の、私が
高校生時代
までを過ごし、離れた後の「ふるさと」は、本当に振り返るべき場所なのかな、という感情が強くあるからだろう。
つまり、地方の「車社会」化が、あっという間に進んだのが近年の地方都市なのではないだろうか。地方の駅周辺に
私が高校生時代まで存在した
商店街を中心とした「都市」を構成する一つ一つは、一年、一年、とたつたびに、消滅していっている。その風景は驚くべきまでのゴーストタウン化である。それと、まったくいれ変わるように、国道などの、大きな道路の周辺に、大型ショッピングセンターが林立していく。たしかに、地方にも都市は存在している。しかし、そこは、私のような、以前の
眼差し
を保持しつづけている都会生活者には、「ふるさと」は、年々消滅しているようにしか思えない。しかし、そういった地方に暮らしている人たちには、そういった視点はないように思える。
車がある、ということは、まず、移動距離が格段に違うわけですね。ちょっと、おいしい食事がしたい。そう思ったとき、車に乗れば、ちょっとした遠出は、まったく問題ない。隣の県に行くことだって、なんの苦痛もないだろう。こういった移動には、
歩く
という行為は存在しなくなる。ということは、どういうことであろう。こういった人たちにとって、地元とは、もう、そういった自分が住んでいる場所ではないわけだ。車さえあれば、どこでも、ふらふらと行く人にとって、自分の家がある場所という、エリアの分割はなんの意味もない。
しかし、である。
私たちは、近年の石油価格の高騰を考えても、ピークオイルがさかんに言われている近年において、地方のそういった
車貴族
生活は、石油といった「エネルギー」が安く買える、といった今までの枠組みによって成立していた関係だとも言えるわけで、彼らの車生活が、こういったエネルギーを日本が海外の国々から買ってきてくれているから、成立している、という、
綱渡り
のリッチネスだということなのだろう。たとえば、福島原発の事故にしても、地方にはどこか冷めた感情を感じなくはない。彼らの今の生活が、車のためのエネルギーをどこからか調達することによって成立していると考えるなら、彼らの
贅沢生活
を維持するためには、もし車の石油を日本が高くて買えなくなったら、原発だってやむなし、といった感覚があるのではないだろうか。
それだけ、車は、現代の地方の若者には、皮膚感覚の存在であって、その姿は、あの、東日本大震災で、多くの家族が車で逃げようとした、渋滞を、津波が飲み込んでいった、悲劇の姿をオーバーラップさせてしまう。
たしかに、今は、車生活は石油もそれなりの値段の範囲にあるし、普通のことなのだろう。でも、そうやって消費されている
エネルギー量
は、東京における、電車中心社会に比べて、一人あたりが消費しているエネルギー量は格段に効率的であろう。東京の人の方が圧倒的に
省エネ
なんだとは強く思う。地方にはもう、私がいたころにはまだ、カケラくらいはあった、
地域コミュニティ
は存在しないように思う。そういう意味では、間違いなく、今は、コミュニティは
東京
にこそあるように思う。コミュニティとは
歩く
ことによって生まれる。歩く範囲が、人の「繋がり」の範囲であって、そこに、濃密な共同体が生まれる。今では、そういった人間が歩いているのは、むしろ、東京だけなんじゃないだろうか。東京では、人はみんな、JRや地下鉄を利用している。実際、移動はそれで済んでしまうからだが、もちろん、一人暮らしマンションが多いとか、近所付き合いがないとか、よく言われるが、それでも
人の温かさや人情
はむしろ、都会の方があるようにさえ思えるのだ。
私の親は車を運転しなかった。そのことは、私に大きな影響を与えたように思う。私は車の免許は学生時代からもっているが、車を買ったことはない。それは、
東京
で暮らしたから、ということが大きい。東京は、世界でもまれにみる、車不要都市であり、この一点において、私には地方の自然には憧れはあっても、地方の「人間」にそれほどの憧れがない、というアンビバレントな感情が、年々強まっているように思う。
東日本を復興するのであれば、本当はそういった、JRや地下鉄の交通網を中心とした
地域の主権の存在する都市
を「東京」のように生み出すことこそ目指せないのか、という気持ちがどこかにあるのだが、今言われている復興には、
今までの進行をより進める
ような、より「車社会」を徹底させることを目指しているように思えて、私にはどこか心配に思うのだが...。