星宮社の言う超能力

アニメ「電波女と青春男」は、ラノベの第3巻の途中で最終回となった。この第3巻の重要な位置を占める存在として登場するのが、
星宮社(ほしみややしろ)
という、自称超能力者兼自称宇宙人の、まあ、謎の家出少女、ということだ。
この、見た目はエリオとも変わらないくらいの年齢じゃないかと思われる、謎の少女が、主人公の高校二年生の丹羽真(にわまこと)に、さまざまに影響を与えることで話は進む。
私たちがこの小説を読むときには、まず、この

という、ある「空間」を、まず「閉じる」形で見る必要がある。この街は、宇宙人の街と呼ばれていて、たびたび、宇宙人を見かけた、という人が現れる、という設定になっている(星宮社という少女の名前もそこから来ているのだろう)。ということは、なにかしら、この街の人たちには、UFOだとか宇宙人だとかいったアイデアにファミリアリティをもっている、ということを受け入れなければならない。駄菓子屋のおばあちゃんも宇宙人の話が好きだし、つまり、そういった街なのだ、ということを受け入れなければならない。
しかし言うまでもなく、子供たちだって、宇宙人がいる、などということは言わない。普通は言わない。それは、日本全国の子供たちがそんなことを言わないのと同じ意味で言わない。超能力もそうで、そんなものがあるなどと言っているようでは、電波な奴と言われるのがおちだ。
もちろん、超能力もないし、宇宙人もいない。というわけで、この話は終わってしまうのだが、一つだけ違うのは、この街が宇宙人の街と呼ばれている、ということだろう。
私たちは、超能力があるのか、宇宙人がいるのか、という問いの答えとして、超能力はないし、宇宙人はいない、と言う。しかし、問題は「じゃあ、どうするのか」だということなのだろう。超能力はない。宇宙人はいない。しかし、そう言うことは一体何を言ったことになるのか。宇宙の決して変わることのない普遍的真理というやつか。しかし、もしそんなものがこの世にあるなら、糞くらえ、だ。つまり、どうでもいいのだ。そういう意味でなら、超能力はあったっていいし、宇宙人はいたっていい。つまり、そんなことは関係ない。むしろ、星宮社(ほしみややしろ)風に言うなら、超能力はない、宇宙人はいない、と「言う」ことを理由にして、なにも一歩を踏み出そうとしないことの方が、この
青春
にとって問題ということになる。別にいいのである。その一歩を踏み出すことを「超能力」と言ったっていいではないか。その一歩を踏み出した人を「宇宙人」と言ったっていいではないか。

「はっ」俺の陰に隠れて、ヤシロが鼻で笑った。花沢さんの発言がお気に召さなかったようだ。
......『諦める奴』が嫌いなにかね、こいつは。
「最初からは出場しないのか。見る目のない連中ばかりだな」
ヤシロが失望したいように、監督の方向を見つめながら不満を漏らす。
「何がそんなに良いんだ、リュウシさんの」お前が男なら分かり易いけどさ。
「あれが認知出来ないほどの秒速でも、進んでいける人間だから」
「だから、なんだそれ。リュウシさんを変な道に勧誘しないようにな」
「変な道? ......確かに、ボケナスで頭の硬いマコトからすれば変な道なのか」
「散々な言われようだな」
「いいか」と前置きして、ヤシロが俺の正面に回る。
大事なことを正面から教え込むように。
端麗な容姿が間近に迫り、目と気分が落ち着かなくなる。
そして試合そちのけの、ヤシロの言葉が体育館を駆け始めた。
「人は誰もが、目前の超能力に目覚めようと歩み寄っている」
まるで持論の集大成をその一言に託すように、厳かにヤシロが言い放つ。
その言葉には、俺の背筋に一滴の氷水を垂らすように、身体の内側まで染み入る何かが含まれていた。それは数日前に、プールの水をあり得ない量、浴びせかけられた瞬間を想起してしまう。
綿飴のような熱気に包まれている体育館の中で、一人、身体を一瞬の悪寒に震わせる。
ヤシロは俺の隣に座り直してから、指先までピンと伸ばした手をスッと、前へ突き出す。
「日常の延長線上に、まだ備わらない能力を信じて、捉えられるもの。それが超能力の芽生える兆しになる。伸ばした指先より、数センチ先。身体では触れられないもの。そこにある異能力が、貴様たちの想像するような超常現象へと直接繋がっているわけじゃない。だが、」
そこで言葉を区切り、ヤシロが唇を歪める。俺に流し目を送るように、横目で一瞥してから、
「一度触れれば、領域は波紋として広がっていく。アタシたちの星の人間はそれが地球人より早かった。この身に宿った超能力は、そこに尽きる」
「......尽きられても」
「唐突に能力を開花させる奴は運動競技に幾らでもいるだろう? 自分の五センチ先にあるような、能力の塊へ近寄った証じゃないか。超能力へ辿り着く為の、秒速が優れているもの。それが世間で語られる、才能ある者の正体だ」
ヤシロの言葉に不確定はない。全て言い切って、蹴倒すように話を進めていく。
「ただしその数センチを埋め終えるには、大抵の地球人が生涯を費やしても足りないがな」
ヤシロは肩を竦める。これだから未開人共は、と妄言を垂れ流しながら、言葉を続ける。
「誰もが、近づくだけだ。冷蔵庫の冷気の余りに触れたように、僅かな恩恵だけで天才と呼ばれる人間も維持されてしまう。それほどの超能力だ、至れる者はほとんどいない。目前の数センチが遠すぎて、諦める者が多いということもある」
「...........................」花沢さんを一瞥。中島の膝元を枕にして横になっていた。
「おいマコト。あそこに座っている、見込みのある補欠はなんて名前だ」「リュウシさん」一般的に通じる嘘を教えた。「そのリュウシは、秒速が遅い。一般人の半分以下だ。丸一日かけても、移動しているのが誰にも伝わらないぐらいの秒速で、しかしあいつは諦めていない。結果が目に映らないまま、歩き続けることは滅多に出来るものじゃない。遅咲きの超能力を開花させる可能性は、十分にある」
「......べた褒めだな」
「正当に評価しただけだ」
そこでヤシロは珍しく、温かみを含んだような笑顔で俺の顔を覗き込んできた。
「マコトの周囲には超能力者の素質のある者が集いそうだな。そういう雰囲気がある」
「勘弁してくれ」俺は顔の前で手を振って、頭も左右に振る。髪の間から汗が散った。

電波女と青春男 3 (電撃文庫 い 9-12)

電波女と青春男 3 (電撃文庫 い 9-12)

こうやって見るとよく分かる。たとえば、女子ソフトボール部のエースの花沢さんがどんなに部内で活躍していても、ヤシロの評価は低い。それに対して、リュウシさんという部活でまだ、一度も試合に出ていない万年補欠の状態の彼女をヤシロは
正当に評価
する。

そしてそこで満を持したように。ヤシロが俺の服を摘んで、上下に引っ張てきた。
「ほらマコト、今だ。超能力を使え」
「あぁ? 俺が?」
唐突にネタを振られて困惑する。ヤシロは「愚図め」とせせら笑う。
「陳腐でも何でもいいから、あのリュウシに向かって超能力を使ってやれ」
「何の話だよ」
「声を張り上げろ。喉を絞れ、腹をかき乱せ。マコトはただ見ているだけの為にここへ来たのか? パーか貴様は。足を運ぶぐらいなら何かしに来い。歩け、進め。貴様だって歩みは遅くとも、超能力を目指す人間だろうが」
野次を飛ばすように矢継ぎ早に、ヤシロが怒りを投げつけてくる。お前の超能力はどうなったんだよ、と言いたいぐらいに、俺に力の誇示を丸投げしてきた。
何かしろって、選手じゃない俺が出来ることなんて。
「............................」
思いついたものは、あるけど。少しだけ、勇気がいる。一瞬、躊躇った。
だけど。
「自分の意志で動いて、他人も動かす。もっとも初歩の、人間に許された超能力だろう?」
不本意ながら、その言葉に、背中を押された。
電波女と青春男 3 (電撃文庫 い 9-12)

この小説の「風景」は、非常に狭い、この「宇宙人の町」と呼ばれる、ある地域に閉じている。しかし、他方において、ここで生活する子供たちは、非常に常識的な、日本中のどこにでもいるような、感覚で暮らしているという形で描かれ、それを主人公の丹羽真(にわまこと)が日々確認していく形でストーリーは進む。
もちろん、超能力も宇宙人も「ネタ」である。藤和エリオも星宮社も電波な痛い「キャラ」である。それは、丹羽真(にわまこと)にとってこそ、そうである、という形で描かれる。
しかし、他方において、その「閉じた」地域の世界において、はたして、そういった、「一般常識」のようなものは、どこまで重要なのだろうか。どこの地域でも、ちょっと変わった人はいるし、そういった人がいることが、そういった地域の独特の特徴を生み出しているのかもしれない。むしろ、それによってそれなりの「秩序」がそこにあるのなら、それはそれでいいんじゃないかとは思うわけだ。
なぜ、全国共通の一般常識をそれほど、重要なことと考えるか。
星宮社(ほしみややしろ)の言っていることは、そういった常識「と自分で勝手に思っているもの」を、自分がなにかをやらない理屈に利用して、正当化している態度をくさしている、ということなのだろう(福島原発放射能だって、いずれ、電波な痛いネタとして扱われていくのでしょね...)。
問題は、この小説の、超能力や宇宙人という「定義」を巡ってのやりとりから、丹羽真(にわまこと)が星宮社(ほしみややしろ)に導かれていく思考の方向や「行動」なのであって、最初から、超能力や宇宙人の「定義」など、どうでもいい、ということなのだろう...。