橋爪大三郎「やっぱりふしぎな、キリスト教」

私たちは「言語」というのは、
翻訳
できると思っている。つまり、言語にはそれが指し示している
意味
というのがあって、それを介して、意志伝達は「成功」すると思っている。こう思うことには、根拠があって、それは、実際に「成功」してきたからだ。江戸時代の解体新書の頃から、とにかに日本の西洋文明の吸収は、先達の努力もあり、目覚ましい結果となって今に至っている、と。大事なことは、翻訳において、
間違っている
というのはない、ということだ。つまり、みんな間違っているので、むしろ、大事なことは、その場の「用途」において、満足の結果をもたらしたとお互いが思えたら、お互いはその状態を「間違っていた」と言い合わない、ということしか意味しない、ということだろう。
つまり、「なんとなく」翻訳は成功する。しかし、それは成功と言うべきではない。むしろ、翻訳は「必ず失敗する」と言うべきではないか。
たとえば、詩というのがある。そこにおいては、さまざまな比喩表現が使われる。すると、多くの人は、その比喩は「翻訳できる」と思う。しかし、むしろ考えるべきは、その比喩を読む側が
そのままの意味で
理解している、ということであろう。じゃあ聞こう。それを「翻訳」できるのだろうか?

長いあいだ、「自然」の意味がわからなかった。英語でいう”nature”である。でも最近、その意味がわかりかけてきた。
『創世記』は、天地創造の物語だ。「光あれ」と言うとき、光があった。陸地をつくり、天空をつくった。Godは世界を順番に、手作りしていった。そうやって、大地も天体も、植物も動物も、人間も、神に造られたのだ。
この「神が造ったそのまんま」を、自然(ネイチャー)という。山や川や森や海や草原や、空の星や太陽や、すべてが自然。Godの創造のわざである。人間もGodが造ったものなので、からだのつくりや心の働きはネイチャーなのである。この場合ネイチャーは、自然とはいわず、性質とか本性とか訳される。
ネイチャーが神のわざだとすれば、その反対概念はなにか。カルチャー”culture”である。カルチャーとはもともと、土地を耕し種を植えること、つまり農業の意味。人間のわざなのだ。だからネイチャーとカルチャーは、対立している。
さて、このネイチャーは、理性”reason”とつながっている。なぜだろう。理性は、数学や論理みたいに、そう考えるしかないというかたちで人間の思考を一歩一歩導く規則のこと。これは、神から人間に与えられた能力だ。人間のわざであっても、人間のわざでない。Godも同じ理性に従うから。理性は人間だけのものでないからだ。理性は神の秩序に属している。だから、ネイチャーの背後にある神の秩序を解きあかすことができる。

欧米のキリスト教ユダヤ教の文化圏の人たちは、
生まれたときから
こういった聖書を読んで聞かされるし、こういった聖書と自分が使っている言葉との濃密か関係を意識しながら成長する。聖書をなにか、論文の参考文献のように受け取ってはならない。彼らは
そのまま
を生きているのであって、聖書の延長に彼らの生活や彼らの言語がある。
ひるがえって、日本人はどうなのだろう。もちろん、多くの人たちは、日本の古事記日本書紀を思い出すだろう。明治から終戦までは、これが
日本の聖書
であったことを忘れてはいけない。江戸と明治以降が違うのは、この認識が日本人全体に広がった、ということだろう。そこで、明治以降の文部省は、古事記日本書紀の一部を「物語」として解釈し、国民にそれを
歴史
として教育する。しかしそれは、この日本の創生に関わる内容であるのだから、当然のこととして
日本の創世記
となる。しかし問題は、そのように受け取ったとき、上記の引用にあるような、キリスト教文化圏の「自然」や「文化」や「理性」は、一体、ここでは、どうなっているのか? であろう。

『創世記』によると、人間のからだや理性も、ネイチャー(神のわざ)に属するのだった。すると、自分の内面が、Godに属するという感覚が生まれる。イエスは言う、あなたの口から入るものが、あなたを穢すことはない。あなたの口から出るものが、あなたを穢す、と。口から入るもの(食物)は自然のもの、口から出るもの(呪いや冒涜)は人のわざだからだ。またイエスは、からだを神殿(神への祈りの場)にたとえる。いのちはGodの霊(息吹)のはたらき、信仰はGodの恩恵のしるし(神のわざ)、理性は神のはたらき。他人がうかがうことのできない個々人の内面に、神のわざが渦巻いている。人間の内面こそ、もっとも公的(神のわざのはたらく場)だという感覚が、ここからうまれる。
アメリカは、自由の国である。その根幹は、信仰の自由だ。どの教会の、どの教理によってGodを信仰しようと、それは各人の自由である。政府は干渉しない。それが邪魔されそうになったら、政府は許さない。それが信仰の自由の中身である。信仰も、信仰にもとづいた生活を送る自由である良心も、個々人の問題だが、同時にそれは、政府が最大の関心をもつ、公的なことがらなのだ。
中世には、悪魔が信じられていた。悪が実体として存在するとされた。すると、異なる信仰をもつ個人をつかまえて、お前は悪魔だと、殺してしまうことができる。宗教改革の結果、教会は分裂した。そして起こった宗教戦争は、この論理で相手を殺しまくった。殺し疲れて、宗教的寛容が成立した。それは、悪魔が存在すると考えるのをやめる、ということと同じだ。
悪魔が存在しないのなら、どんな信仰も政府によって保護されるべきである。そう人びとは契約して、政府をつくった。個人の内面は、誰か他人によって否定されたりしない。それは政府の、存在理由の根幹にかかわる。個々人の内面のような私的なことが、もっとも公共的なことなのだ。個人の内面を守ろうとするこの強度が、自由の感覚を支えている。
わが国に、これに匹敵する自由の感覚があるだろうか。日本人が、個人の内面に踏み込まないのは、それが私的な領域で、裸体や排泄のように、ひと目にさらせないと感じるからだ。

ここの部分は非常におもしろいことを言っているように思う。
内面。
この言葉は、特に文学的な文脈において、使われてきたのではないだろうか。しかし、問題は日本における、個人の内面とは、一体、なんだったのか、だったのではないか。
もちろん、明治以降の文学とは、主に、
海外文学「研究者」
によって担われてきたのだろう。少なくとも、海外文学を実際に「読んでいた」人たちが、日本語で文学を書いていたわけなのだろうが、じゃあ、彼らがそれを「日本語」でやるとき、一体、自分は何をやっている、と思っていたのだろうか。
たとえば、近年の、原発問題にしても、
脱原発極左
とかのたまっている、特に、経済的な「国益」をメインにして論陣を展開している連中がいるが、こういった

  • 左翼=悪魔

といった議論がいつまでも、終わることのなく、20世紀からこの日本では続いている姿を見ていると、日本では上記の「魔女狩り中世」をまだ脱出できていないのではないか、と思わずにいられないわけです。
なにかあると、「左翼=悪魔」の仕業と言ってれば、なにかを言ったつもりになっている連中。
こういったことを、いつまでも言い続けている連中の頭の中では、一体、信仰の自由だとか、人の内面の自由、といった考えがどういうふうになっているんですかね。
恐るべき日本版キメラ...。

新潮 2011年 09月号 [雑誌]

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