イアン・ブレマー『自由市場の終焉』

(以前も書いた記憶がありますが、基本的にコメント欄につきましては、その記事への補足的な意味を少しであれ感じられた場合は、できるだけ承認する考えです。基本的に、どういった考えの方であれ、その人の意見を尊重しますが、しかしそれは、あくまでその範囲の意味で、今後、このブログで自分が記事を書いていく上での参考にさせてもらう、という範囲になります。
人それぞれ、その人の文脈があるだろうという立場の私としましては、逆に言えば、自分の側にも、自分の文脈があり、自分で必要ないだろうと思うことを考えることを容易にやらない姿勢になります(リアルな社会でも、そういったことは例えば、教師と生徒のような、なんらかの金銭などによる契約関係が存在する場所ではないでしょうか)。基本的にあらゆることは、自ら「気付いていく」しかない、との考えから、このブログを行っている一人として、さまざまな意見を自分を励ます糧にしていけたら、と思っています。)
萱野さんが以前さかんに言っていたのは、国家不要論、つまり、アナーキズム無政府主義)は間違っている、と。なぜなら、国家とは暴力を源泉にして存在しているのだから、と。
一般に、アナーキズムは左翼の一種と思われている(政府や国家を批判する連中は、どうせ極左にきまっている、と)が、アナーキズムとはリバタリアニズムのことなのだから、理屈から言ったら、右になるわけだ。ところが、右は自分をアナーキズムとは認めたくない(そういう意味では、江戸時代に戻ればいいのだ。江戸時代の武士が自分を国家主義者と思っているわけがない。彼らは、どうみても、アナーキストだろう。武士たちの、唯我独尊のライフスタイルは
自分の名誉を傷付ける事態には、あえて「腹切り」を選ぶ
くらいなのだから)。
どっちにしろ、右翼にしろ左翼にしろ、
ずる
していると言いたくなるわけである。つまり、どっちも
国家
をどう考えるのかが、「曖昧」なわけだ。都合のいいときには、国家による介入を呼出しておきながら、都合が悪くなると、国家などなしで生きるんだ、といきまく。
その、出し入れが、あまりに「恣意的」であることが、今日のさまざまな混乱を引き起こしているようにも思う。

二〇〇〇年、ワシントンの民間シンクタンク政策研究所(IPS)が衝撃的な報告書を発表した。最大級の多国籍企業の売上高を、富裕度で最上位を占める国々の国内総生産(GDP)と比べたところ、経済規模で見た百傑のうち五十一を企業が占め、国でランク入りしたのは四十九ヶ国だったのだ。この報告書によれば、ゼネラル・モーターズ(GM)はデンマークより上位につけ、ダイムラークライスラー(当時)はポーランド三菱商事インドネシアウォルマートイスラエルソニーパキスタンをそれぞれ凌いでいた。

2000年頃までは、世界は
グローバリズム
で覆われるという意識が強かった。弱肉強食の超巨大企業の躍進はめざましく、どこまでも巨大になるように思えたからだ。ところが、そういった方向はまったく変わっていないのだろうが、一点だけ、決定的に違った傾向が現れてきている。
国家の役割の変化
である。

二〇〇八年、非営利組織(NPO)のフリーダムハウスは世界一九三ヶ国のうち一二一ヶ国を「選挙による民主主義が実現している」と認定しながらも、「自由」な国と呼べるのはそのうち九十ヶ国にすぎないとした。同じ二〇〇八年にエコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)が発表した民主主義指標では、調査対象の一六
七ヶ国のうち「完全な民主主義」はわずか三十ヶ国にとどまり、「欠陥のある民主主義」が五十ヶ国、そして(世界人口のおよそ半数が暮らす)八十七ヶ国が「民主主義と権威主義の混合」あるいは「権威主義」とされている。EIUはこの二〇〇八年度の報告書において、「数十年にわたって世界的に民主化の潮流がつづいた後、民主主義の広がりが止まってしまった」と警鐘を鳴らしているほどだ。

私たちが日本に住んでいると、いろいろと欠陥はあるにしても(アメリカに比べてここが劣っている、とか)、民主主義は一般的だと思っている。しかし、世界を見渡すと、民主主義は「なんちゃって」というところが多い、というのだ。
経済とは「行為」である。国家とは、企業や消費者と同列の「主体」である。ということは、国家が経済の主体であることは、なんにも矛盾ではない。国家も企業や消費者と一緒に、デパートのバーゲンセールでお目あての商品を奪い合ってもいいし、国家が新しいスマホを作って店頭に並べて販売してもいい。
つまり、
国営企業
ということである。昔の国鉄のように、社員が公務員であるような場合だろう。しかし、こういった企業形態は、民営化の流れで、日本やアメリカのような先進国では少なくなっている。
では、こういった国家的な(インフラ)産業においては、どうなっているのだろうか。それが、東京電力のような、国家との関係なのだろうか。
私たちが大変に驚いたのは、東電、つまり、日本の電力会社と国家との、ズブズブの関係であった。私たちが311によって、目にしたことは、一体、東電と国家のこの名状しがたい関係はなんだったのか、ということではないだろうか。東電は国家ではない。じゃあ、普通の私企業なのか。国家は東電に原発推進をさせるために、さまざまな法律をつくる。それによって、東電は、

  • たとえ原発に問題があっても、これだけの国家による保障があるんだから、やるか

と始める。いや。このようにも言えるのかもしれない。

  • 国家がどうしてもやりたがってる原発をやれって言うんだったら、こんだけの保障を国が法でやれよな

と脅すことで、法がいつの間にか作られ、だれもその意味も分からないまま、現在に至る、と。
この関係の特徴は、もはや、国家と東電を区別することに、あまり意味がないように感じることであろう。電力会社と国家を介して、さまざまな、外郭団体が作られ、どんどんと、国家官僚が天下る。お金も人もその両方で、あまり区別がなくなってくる。
しかし、こういった状態というのは、近年さかんに議論されるようになってきた、

  • 国家資本主義

そのものであることが理解できるであろう。

<フォーブス>誌は毎年、売上高、利益、資産、時価総額をもとに世界の大企業上位二〇〇〇社(フォーブス・グローバル2000)を公表しており、そこには二〇〇四年から二〇〇八年初頭にかけて、「BRICs」と総称されるブラジル、ロシア、インド、中国の国営企業ないし株式公開企業一一七社が始めてお目見えした。反面、アメリカ、日本、イギリス、ドイツの合計二三九社が圏外に消えた。二〇〇八年初めまでの四年間に、二〇〇〇社の合計時価総額に占めるこれらの国々の企業の比率は七〇%から五〇%へ低下し、BRICs企業の比率は四%から一六%へと上昇した。二〇〇八年から二〇〇九年にかけての企業破綻と政府救済によりこの流れは加速した。米英ほかの大手金融機関が瀕死の状態に陥って買収された後の二〇〇九年初め、ブルームバーグは、時価総額で見た世界四大銀行のうち三行を中国の政府系、すなわち中国工商銀行(ICBC)、中国建設銀行中国銀行が占めていると報じた。二〇〇九年のフォーブス・グローバル2000では、時価総額ベースでの五強にICBC、チャイナモバイル、ペトロチャイナが食い込んだ。

この十年間、数々の発展途上国の政府は、貴重な国内資産を国家管理の下にとどめ、かつ、体制の存続を守るのに十分なだけの自国経済に対する影響力を維持しようと努力してきた。一部の事例では、富を蓄積するため、あるいは、依然として脆弱な国内経済の成長促進に必要になりそうな原油天然ガスを生来にわたって確保するために、国営エネルギー企業を活用してきた。これらの国々は余剰資本をもとに政府系ファンド(SWF)を創設して、他国への戦略的投資に乗り出してきている。
国家権力の増進というこのような潮流は、二〇〇八年に一気に勢いづいた。金融危機や世界不況のあいだ、市場が途方もないメルトダウンに見舞われたのを受けて、グローバリゼーションが逆境を耐え抜く力を初めてほんとうの意味で試された時、先進国と発展途上国、両方の政治当局者は、通常であれば市場に委ねておく判断をみずからの責任で下すことにし、その規模は過去数十年になかったほどの大きなものとなった大手金融機関や主要経済セクターの窮状への対処として、世界中の政府が経済成長を促すため、そして場合によっては「大きすぎて潰せない(トゥービッグ・トゥ・フェイル)」と判断される企業を救済するために、巨額の財政出動に乗り出した。かつては業界の主力だった企業を政府管理下に収めた。これらの措置を取ったのは、必要だと考えたからであり、しかも政府以外にはその力を持つ者がいないからだ。

国家と個人を、右翼と左翼で分類するというのが、保守派のお決まりのアジェンダ・セッテイングであるが、むしろ、この分類は、

  • 国家の市民生活への介入の「質」

においてこそ、分類されるべきじゃないだろうか。
国家と個人の関係は、完全に二つに分かれる。

  • 贈与:国家 --> 個人
  • 贈与:個人 --> 国家

サウジアラビアなどの、貴重な資源が算出され、その産出物が、国家の所有物となる場合、国家は、それを売るだけで、国民からの税金なしで、お金を稼げる。すると、そのお金をどうするのか? という疑問となる。もちろん、国家が国民にお金を配るのだ。

  • 贈与:国家 --> 個人

サウジアラビアのような国では、税金はいらないだろう。だって、なくても国が困らないくらいに、外貨を稼げるのだから。
しかし、この関係は、あくまで、貴重な資源を産出し続けられる間成立する関係にすぎない。もしこういった国が、今まで海外から買っていた商品を自国で作れるようになったらどうだろう。
そうすると、そういった貴重な資源は、国民に使い、海外に売る必要がなくなる(外貨が必要なくなるのだから)。
これが今、世界中で起きている現象と言えるだろう。ピークオイルが過ぎたといっても、まだまだ世界中に、あと何十年ともつ、貴重な資源があるはずなのに、なかなか市場に出なくなる。それは、各資源産出国が、これからの資源枯渇を計算して、
出し惜しみ
をしているから、と言えるだろう。しかし、もし、産出を行っているのが、普通の企業であるなら、需要があるのだから、どこまでも行うはずであろう(だって、儲かるんですから)。なぜそうならないかは、そういった産出している企業や資源の所有者が、
国家
になっている(つまり、国営企業となっている)から、と言えるだろう。
この、近年急速に拡大し、注目されている「国家資本主義」の特徴は主に二つある。

  • 近年の金融危機が、各国ごとの「金融危機からの防御」に正当性を与えている。
  • 自国内で産出される資源を、各国が「コントロール」を始めた。

この「国家資本主義」の特徴を考えたとき、まず、思い付くのが、BRICsが、もろ、国家資本主義を使って、急速に発展している、ということだろう。発展途上国が、急速に近代化を実現している姿は、国家資本主義の拡大と、平行している。むしろ、国家資本主義のビルトインに成功している地域が、もっとも優秀な経済的発展を実現しているように思える。
たとえば、日本にしても、日本の借金が膨大であることは、だれも論をまたず、危機意識を主張されるわけだが、他方において、なぜか日本政府が大量のアメリカ国債などの金融商品を所持していることも、知られている。なぜ、国家はこんなことをするのか。リバタリアンなら、やめてほしいと思わないだろうか。
しかし、逆にこうも思うのである。国家にある行為を止めさせたいとしたとき、どんな根拠によってなら、彼らを説得できるであろう? やりたいと言っている人たちの行動を変えさせるといっても、そんなことは可能なのだろうか。
一つの考えは、「そういう行為は、あなたたち自身の不利益になりますよ」という形で、再考をうながす、という方法だ。これは、経済学者が政策提言をする場合に、よく使われる。お前の政策は国家を滅ぼす。しかし、別にそれは、「証明」とは関係ない。やりたいと思う人は、どんな説得をしたところで、やりたいことはやるんじゃないかな。
私たちには、BRICsの中でも、ロシアと中国ほど、先進国が潜在的に所有していた、
国家資本主義
のポテンシャリティを「最大限」に活用している国はないのではないか、と思っている(彼らは、社会主義の相貌を纏わなくても、別の方法によって、それと同様の「彼らの利害を実現できる」手段を見付けたのだ)。

ロシア政界のエリート層は昨今、徹底した資源ナショナリズムを実践している。膨大な原油天然ガスを、財政・政治面での国の独立性を守り、国威を対外的に発揚するための手段として扱っているのだ。国内の天然ガス産出の九〇%近くはガスプロムが占めている。プーチンが最初に大統領に選ばれた二〇〇〇年、政府は依然としてガスプロムの経営やキャシュフローを管理していたが、直接的な出資比率は五〇%未満に下がっていた。八年後にプーチンが、みずから指名したドミトリー・メドベージェフに大統領を譲り、首相に就任した時には、ガスプロム国営企業に戻り、天然ガスの独占輸出権を正式に握っていた。プーチンが大統領だった機関に、膨大な産油量のうち政府管理比率は一〇%未満から五〇%弱にまで引き上げられた。
政府は二〇〇三年以来、国内外のエネルギー企業に法令や規制による圧力をかけ、ガスップロムと国営石油企業の雄スネフチを、自国のエネルギーセクターで支配的な立場へと押し上げてきた。この過程でプーチン政権は、規制手段を使った嫌がらせをとおして、重要プロジェクの主導権を外国企業から取り上げた。国内の新興石油大手ユーコスの解体も行った。ユーコスのミハイル・ホドルコフスキー社長が、中国向けに独自パイプラインを設ける計画を立て、外国の石油会社との合弁を目指し、独自の政治路線を掲げはじめたからだ。ただし、国家資本主義の流れは石油・天然ガスの分野だけにとどまっていない。政府は航空宇宙、造船、武器輸出、民生用原子力発電ほか先進技術分野において、新たに政府系の持ち株会社や特殊な形態の準国営企業を設立して業界の統制を強めるとともに、これら企業を経営する高官の収入源とした。
政界のエリート層が産業界のエリート層と大幅に重なる構図は多くの国で見られるが、ロシアではそれが極端である。ドミトリー・メドベージェフは大統領に就任する以前、第一副首相とガスプロム会長を兼ねていた。彼がプーチンの後を継いで大統領になると、当時のビクトル・ズブコフ首相がガスプロムの会長になった。プーチン現首相はロシア開発対外経済銀行(VEB)の会長でもあり、この銀行は金融危機の余波に対処するための最も重要な組織である。

日本企業が海外に進出していった先において、どうだろう。「成功」しているのだろうか。彼らの技術は現場で、骨の髄までしぼりとられ、もうしぼっても、なにも出ないとなったら、上記のロシアのように、
ポイ捨て
されるだろう。彼らは、最初から「したたか」であって、こちらの「自由主義的なたてまえ」を、面従腹背に、つけいる隙をうかがうだろう。

そのうえ、鄧小平が一九九〇年代初めに「中東には原油があるが、中国には『希土類(レアアース)』がある」と誇らしげに語りはじめた時、欧米諸国はほとんど懸念を抱かなかった。一九九四年に中国は全世界のレアアースの四六%を掌中に収めていたとされる。業界での推計によれば、現在では全体の九〇%ないし九五%を供給している模様である。中国政府がこれを成し遂げたのは、国内の鉱山や処理工場、海外の製造技術に巨額の投資を行い、世界せ最も意欲的なレアアース関連のR&D(研究開発)プログラムに資金を拠出したからである。ビジネス関連のメディアはいまのところレアアースにほとんど関心を払っていない。この市場の規模はいまだ十億ドルほどにすぎず、原油や鉄鉱石の日々の取引量と比べてごくわずかだからだ。地質学者でもないかぎり、おそらくイットリウムスカンジウム、ジスブロシウムなど名前も聞いたことがないだろう。しかし、これらをはじめとする数十種類の鉱物は、小型エレクトロニクス製品、ハイブリッド車の電池、コンピュータのディスクドライブ、ディスプレイ、iPodなど、二十一世紀の多彩な消費財の生産に欠かせない。中国の巨大国営企業と競争する他国の民間企業にしてみれば、中国勢が積極的に市場を独占しようとしていることが頭痛の種である。アメリカ政府にとっては、レアアースがレーザーや精密誘導ミサイルの製造にきわめて重要だというさらなる懸念がある。政財界のリーダーは、中国国務院が二〇〇七、二〇〇八、二〇〇九につづいてレアアースの輸出に新たな制限を設け、輸出に振り向ける代わりに戦略備蓄を積み上げるのではないかと不安に駆られている。

もし、中国が世界中のレアアースの鉱山を、押えたら、どうなるだろう。彼らが買って、他の国に売らない。さまざまなハイテク商品は、中国からの、レアアース
贈与
なしには、どこの国も作れなくなる。国家資本主義とは、
世界支配
のツールであって、それは、グローバリズムだろうと、大企業中心主義だろうと変わらない。意外と、世界を「支配」することは簡単だということなのだろう...。

自由市場の終焉―国家資本主義とどう闘うか

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